からし種 440号 2026年1月
『悔い改めに導く』マタイ3:1-12
先週から、キリスト教会独自のカレンダーでは、新年になりました。待降節という救い主を待つ期節に始まって、キリストの再臨という、いわゆる終末の日までを、一年間のカレンダーに凝縮したものです。そして今キリスト教会は、再臨するというイエス様の約束の言葉を信じて、このカレンダーに沿って与えられる聖書の言葉から、日々の信仰生活を整えられて来ているわけです。
イエス様が赤ちゃんとしてお生まれになった、クリスマスを待つという第一の待降と、イエス様の再臨を待つという第二の待降があります。今日の福音書の箇所は、実はその第一の待降でもないし、第二の待降でもない。敢えて言えば、第三の待降でしょうか。それは私という一人の人間のところに、やって来られるのを待つという時です。第一も第二も、そして第三も、いずれも救い主としてのイエス様の到来を待つことです。特に第三の場合も、私という一人の人間の救いのために来られることですから、ここで問題は、この私が救われたいと思っているかどうかです。もちろん、その救いの内容にも関わって来ます。いや、救ってもらわなければならない状態にないので、とりあえず第三の待降は、この私には関係ありません、ということもあるでしょう。いずれにしても今日の福音書から、第三の待降と救いについて、聞いて行きます。
今日の福音書は、いわゆる洗礼者ヨハネと呼ばれる、神様の言葉をとりつぐ預言者の登場を語ります。預言者は旧約聖書にも多く登場します。信仰生活を送りながら、様々な社会情勢に問題意識を持つが故に、これが今、神様から示された意志だと確信する度に、それを言葉に言い表す、そんな宗教活動家とも言えるでしょうか。それでヨハネも、示された言葉を人々に語りました。『悔い改めよ。天の国は近づいた』。更に荒れ野での宣教活動と、旧約聖書に描かれる、典型的な預言者の服装や食生活をするので、これまた旧約時代に活躍した預言者イザヤが指し示した人物だと、聖書は語ります。そのイザヤの言葉は『荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』。ヨハネは『声』だと、イザヤは預言します。人は声や言葉を聞くにしても、その内容に感動する以上に、それを語る人間の方に、目が向きがちです。イザヤは見た目で人を判断する、そんな人間の弱さ、罪深さを見越しているようです。ヨハネ自身も、目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐように宣べ伝えます。冒頭の『悔い改めよ。天の国は近づいた』というのは、まさに目に見えないものに、目を注がせる言葉です。イエス様ご自身の、宣教活動を始められる時の第一声も、この言葉からでした(マタイ4:17)。
そんなヨハネの宣教の言葉を聞いて、人々がヨハネの下に来たと、聖書は伝えます。そして罪を告白し、ヨハネから水の洗礼を受けたということです。これはヨハネが『洗礼者』と呼ばれた所以を、一般的に説明するかのようです。ヨハネの洗礼は、罪を告白した事の証しとしての、水の洗礼でした。救いに導かれる出発点に過ぎません。ましてや救いの完成でもない。しかしヨハネの下に来る者たちの中には、そこを勘違いしている者たちもいました。特に、宗教的信仰的に、知識がある者程、この勘違いを大いにしてしまっているのです。その代表的な人たちが、ユダヤ教の一教派を成す、ファリサイ派やサドカイ派の人たちでした。いわゆる聖書の律法を守ることを、厳しく遵守するファリサイ派、そしてエルサレム神殿の祭儀を始めとして、そんな祭儀を司るサドカイ派です。いずれも人々からは、信仰的に、一目置かれるような人たちでした。そんな人たちに対して、ヨハネは厳しい言葉を投げかけました。
『差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。・・我々の父はアブラハムだ、などと思ってもみるな』。ここに勘違いが示されます。人間が人間に、神の怒りから免れる方法を教えることは出来ません。聖書をよく知るが故に、教えることが出来ると思い込んでしまっていたのでしょう。それは人間が神になることです。またアブラハムという、信仰の父と呼ばれ、ユダヤ人から尊敬されて来た人物がいました。アブラハムの血を受け継ぐユダヤ人だけが、救われる者だとして来ました。たとえ目に見える血統図が、アブラハムの血を受け継ぐものだと、人間の側は証明出来るとしても、それで救われるかどうかは、人間が決められる事ではありません。目に見える人間業を救いの手段とすることや、自分自身をも、ヨハネは徹底的に退けます。そして次のように言います。『わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。・・その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。
『わたしの後から来る方』とは、イエス・キリストです。この方が、目に見える水を用いて、目に見えない聖霊と火で、洗礼を授けると言うのです。悔い改めによって、目に見えるものが全てでもなければ、結果結論でもないところにまず立たされる。そしてその向こうの、見えないものに目を注ごうとする時、聖霊と火で洗礼をお授けになるという、イエス・キリストに出合うのです。こうして洗礼とは、第三の待降に関わるものだと示されるのです。ヨハネは『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ』と言い『良い実を結べ』と言います。それを妨げるものをたくさん抱えているとしたら、取り除くには時間がかかります。だから、聖霊と火で取り除いていたただき続けて、見えないものが見えるように、救いに導かれて行くのです。
今日の第一日課は、預言者イザヤの言葉です。平和の王の到来を預言しています。その中に平和のしるしとして『牛も熊も共に草をはみ』とあります。本来、敵対関係にあるものが共にいる、まさに平和がそこに示されているということです。熊と言えば、む今日本では、本来なら冬眠に入っているはずの熊が、住宅地に出没して、被害が発生しています。ある学者の方の、印象的な言葉です。『熊の被害の裏には、ポジティブな側面もある。熊がこれだけ繁殖しているというのは、危険ばかりでなく、健全な自然のバロメーターでもある。悲惨な事故が続くと、人々の許容力が下がる。けれど本来は、熊がいるからこそ学べることがある。自然を遠ざけるのではなく、理解を深めることで少しずつ、許容力を取り戻すことが大切だと考えています。長期的には、人間社会が熊に対して、どのように許容力を高められるかが鍵になります。現場を知ること、教育を通して、共に生きる感覚を伝えていくこと。そうした積み重ねがあって初めて、真の意味での共存が見えてくると思います』。
見えるものから学びつつ、常にその向こうにある真実を、キリストの教会によって、見失わないように歩ませて下さい。
待降節第3主日
『何を見に行った』マタイ11:2-11
先週は福音書から、いわゆる洗礼者ヨハネと呼ばれる、神様の言葉をとりつぐ預言者の登場を聞きました。預言者は信仰生活を送りながらも、様々な社会情勢に問題意識を持つ者だったでしょう。それ故に、今この社会に向かって、神様から語れと確信させられた時、それが預言の言葉として語られ、人々に影響を及ぼして行ったのでしょう。宗教活動家とも言えるでしょうか。特にこの時のヨハネは、ユダヤ社会がローマの支配下にあって、進んだ文化の波にのまれて、人々の、いわゆる宗教離れを憂いていたでしょうか。あるいは一方で、そんな人々の宗教離れを食い止めようと、人間的な方策に走る余りに、聖書の教えが結果的に、人間の能力に頼るような、人間中心的な考えに、すり替わってしまっていることも問題だったでしょう。いわゆる律法主義です。そしてそんな社会の状況を、刷新してくれるような、救い主のメシアを待望して預言した。その時にヨハネは、人々の悔い改めを促すように、水の洗礼運動に促された。そして最終的に、そんな人々の宗教的汚れや罪を取り除くお方は、自分ではないことも示されていた。自分はそのお方を先触れする者だと、確信させられていた。そして後から来られる方は、聖霊と火で洗礼を授ける。そのことを、次のように譬えているのです。『手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。
ヨハネはよほど社会の宗教的堕落に、危機感を抱き、これはもう荒療治をするしかない所まで来ていると思っていた。ですからヨハネが預言させられるメシアのイメージは、言わば最終的裁きを下す、厳格な神でありメシアだったのでしょう。そしてイエス様がそのメシアだと思い込み、厳しい裁きをも期待する程であった。ところがそのイエス様が、ヨハネの所に、水の洗礼を受けに来たのです。聖書は次のように記します。マタイ3章13-15節『そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』。偉大だと思うイエス様ですから、ヨハネは必然的に自分を低くするわけです。これは当然と言えば当然でしょう。しかしヨハネが抱くイエス様へのイメージが異なって来ると、彼は不安を抱き始めるのです。何だか厳格というよりも、庶民的で優しそうなイエス様に見えて来てしまった。
今日の場面は、ヨハネが抱いて来た、イエス様に対するイメージが、揺り動かされていることを伝えます。マタイ11章2-3節『ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』。ヨハネが牢に入れられてしまった経緯は、前後しますが、マタイ14章に記されてあります。ローマの手先の領主ヘロデの怒りを買っていたのです。その後処刑されてしまいます。恐らく自分の命の危険も感じ始めていたのでしょう。だからメシアを指し示す、自分の使命を早く完遂したい。それにしても、イエス様について聞いた評判からは、自分が思い描くメシアとは、違っていた。ただしここで『キリストのなさったことを聞いた』と記されてある所に、注目させられます。ここは『イエス』ではなく『キリスト』なのです。ですから、ヨハネは、揺れ動きつつも、イエス様をキリストと見なす、見なしたいんだという、そんな思いも伝わって来るようです。
ここでヨハネが聞いたことというのは、直接的にはマタイ8章から9章38節までに描かれている、イエス様の活動からなのでしょう。そこに描かれるイエス様は、いわゆる裁きをもたらすような、厳格で偉大なメシア像とは、程遠いようなのです。確かに弱者救済も大切ですが、今は、そんな二義的な小さな所に関わっている場合ではないのではないか。それで牢屋から弟子たちを送って、直接イエス様に確認させたかったのでしょう。ところがイエス様の返答も、何だか壮大な厳格さは伝わって来ないのです。マタイ11章4-5節『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』。もちろん、単なる弱者救済の事ではないことも、さりげなく伝えられています。『死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』というのは、人知を超えるような、偉大さも垣間見えるようです。またヨハネが聞いたであろう、マタイ8章から9章38節までの、イエス様の活動の中にも『嵐を静める』とか『悪霊を追い出す』とか、罪の赦しの宣言をする場面もありました。ヨハネは最終的に、聞いたことやイエス様の言葉から、イエス様をどのように受け留めて行くか、結局、問われ続けるのでしょう。
それからヨハネの弟子たちが去った後、ヨハネをあなたがたはどのように見たのかと、群衆に向けて、イエス様は問いかけるのです。風にそよぐ葦でもない、しなやかな服を着た人でもない、正真正銘の預言者以上の預言者を、あなた方は見たはずだ。そして偉大な人物だと思っただろう。あなたがたは、正しく見たのだ。しかしそれは、人間中心の世界の中だけの話だ。天の国、すなわち神の国に入れば、偉大な人間も、ちっぽけな者に過ぎなくなるのだ。何故ならそこは、人間を超えたお方の支配下にあり、そのお方に造り変えられている者たちがいるからだという。ヨハネの弟子たちに語った時の、イエス様の最後の言葉にも注目させられます。『わたしにつまずかない人は幸いである』。
2019年12月4日に、アフガ二スタンで活動中の中村哲さんが、銃撃されて召されたことを振り返って、NHK番組の新プロジェクトXが、先日の12月6日に、放送で取り上げておりました。アフガニスタンの荒れ果てた大地の砂漠を、緑に戻す挑戦をし続けた方です。その中村さんは、多くの言葉も残されております。番組では次の言葉を紹介しておりました。『世界がどうとか、国際貢献がどうとかに煩わされてはいけない。出会った人、出会った出来事の中で、人として最善を尽くすことではないか』。人間的な偉大さに目を奪われずに、たとえ小さくても、見るべきものを見失わないという、そんな中村さんの預言的な言葉にも聞くのです。
今改めて、救い主のイエス様の誕生を記念するために、どのような思いで私たちは待ち望んで、何を見て行くのでしょうか。キリストの教会によって、問い質されてまいります。
聖降誕主日
『インマヌエル』マタイ1:18-25
先々週の11日と12日の二回に渡って、当教会附属幼稚園のクリスマスページェント礼拝が行われました。イエス様の誕生劇を園児たちが演じました。劇の冒頭、いわゆるマリアの受胎告知と呼ばれる場面から始まります。天使のガブリエルから、あなたは聖霊によって神の子を宿すことになると告知されるわけです。ルカ福音書の1章26節以下に記されてあります。今日のマタイ福音書の場面も、マリアの許嫁のヨセフが天使から、マリアが聖霊によって神の子を宿したと告知されたということで、ヨセフの受胎告知とも呼ばれているところです。マリアもヨセフも、その驚きは尋常では無かったと想像されます。また同時に、それぞれの驚きの内容には、少し違うところもあったのではないか。マリア自身が『どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに』(ルカ1章34節)と、その時応えていますから、その驚きは純粋に、人知を超えたものに出合う、畏敬にも似たものでもあったのではないか。
ところがヨセフの場合の驚きは、もう少し複雑だったのではないか。今日のマタイ福音では『二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった』とあります。ではそのマリアの身ごもりを、ヨセフはマリアから直接聞かされたのだろうか。当時12歳ぐらいだっただろうマリアが、それをヨセフに話すことは、怖いことではなかったか。そうすると、極々身内の誰かから、伝え聞いたのでしょうか。いずれにしても他人に漏れ知らされたら、大変なことになるでしょう。ヨセフもそこを心配したのでしょうか。『マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した』とあります。マリアが姦淫を犯したと指摘されれば、厳しい罰を被る。そこは、ヨセフも迷うところかも知れません。あるいは人々に知られて、男性としてのヨセフの面目は丸つぶれ。それも避けたい。こんなことから、ヨセフの驚きというのは、少なくとも、人知を超えたものに対する畏敬は、含まれなかったでしょうか。とにかくマリアの妊娠は、普通に人間的常識の範疇にあると思わざるを得ない。だからむしろ、疑いと裏切られた怒りと、そして自分の名誉を守らざるを得ない、そんな事態に巻き込まれた悩み、それらが複雑に絡んだ、驚きではなかったかと想像させられるのです。
そんなヨセフに天使が告知したのです。『恐れず妻マリアを迎え入れなさい。・・その子をイエスと名付けなさい』。最後には、ヨセフは天使が言われた通りにしたということです。直接の告知から受け入れまで、時間的には眠っている間の、短いものであったかのように、聖書は記しております。しかしその間に聖書は、今日の第一日課にも与えられている、旧約のイザヤ書7章14節を引用して記すのです。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である』。ヨセフにとっては、究極の苦悩の中に置かれているのに、あたかもそんな彼に向かって『神は我々と共におられる』と、言わんばかりなのです。
そう言えば、マリアの受胎告知の際にも、天使は次の言葉を彼女に投げかけました。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』。この時のマリアにとっても、おめでたい話でもないし、恵まれているなんて、まるで真逆のような状況でしょう。それを『主が共におられる』と、聖書は言うわけです。何をもってマリアは、主が共におられると、信じたら良いのでしょうか。考えられるのは、告知の際に、もはや妊娠は出来ないと思われていた、親戚のエリサベトさんが、妊娠した事を知らされたのです。それでマリアは彼女に会いに行くのです。そして、天使が言った通りだったことを確認するのです。エリサベトの存在が、大いにマリアを励ましたと思うのです。必要な時に必要な人が送られ、出会いが備えられる。あるいは出来事に遭遇する。ここに、主なる神様が共におられると、知らされて行くのではないか。
出来事と言えば、ヨセフもこの後、様々な出来事や人々にも遭遇します。今日の福音書の続けて後の場面です。占星術の学者たちが、黄金、乳香、没薬を、飼い葉桶の中のイエス様に捧げた、あの場面です。ヨセフとマリアは、学者たちに会ったでしょう。学者たちは三つの宝物を捧げた後『ひれ伏して幼子を拝み』と聖書は記しております。ヨセフとマリアにしてみれば、普通に出会う事もありそうもないような、不思議な人物たちです。この光景からは、ヨセフやマリアは、少なからぬ影響を与えられて行った事と思われます。ヨセフとマリアの、幼子にまつわる驚き、疑い、怒り、悩み、自尊心、そんなものが解きほぐされて行くような、きっかけにもなったのではないか。しかも学者たちは『夢でのお告げ』に従って行動しました。まさしく『主が共におられる』ことを現わす者たちでした。そして、そんな彼らに出合ったヨセフやマリアも『主が共におられる』ことを、体験させられて行くのです。
ヨセフたち一家は、この後も、あのヘロデ王の幼児大虐殺の出来事にも遭遇します。そして、エジプトにまで逃れて、異国の地での様々人々との出会いも、経験した事と思います。その都度ヨセフは、見た目は厳しい決断を強いられて行ったようですが、実はその背後には『主の天使が夢でヨセフに現れ』たと、聖書は伝えているのです。それこそまさに『主が共におられる』ことの証明でしょう。救い主の誕生に立ち会うヨセフ一家は、これから幸せに包まれて行くと思いきや、むしろ苦難の連続でした。『インマヌエル』の主なる神様とは、たとえ苦しいことや悲しいことや、起こってほしくない、様々な出会いや出来事に遭遇するとしても、それでも思いも拠らない人々とのつながりがあって、だからこそ、そこに働かれるお方であると、知らされて行ったのではないか。
先々週の13日(土)の日経新聞朝刊に、国や地域別に『幸福度』を計る、国際調査の記事が載っていました。複数の調査機関の結果がありました。オックスフォード大学の調査結果では、日本は147ヶ国・地域中55位。ハーバード大学の調査結果は、22ヶ国・地域中最下位。フランスの調査機関のものは、30ヶ国中27位。この結果を踏まえて、記事では、次のようなことが書かれてありました。『日本人が孤独を深めていることが幸福度を下げている側面もある。もともと日本人は誰かと一緒に過ごすと幸福を感じやすい傾向にある。若年成人の孤独感は日本が突出している。高齢化や晩婚化により、一人暮らしをする単独世帯も増えている。日本は誰かと一緒に食事をする頻度のランキングで、142ヶ国・地域の中133位。誰かと一緒に食事をする割合が高い国の人は、社会的に強く支えられていると感じ、孤独感が弱い傾向にある。孤独を解消し、幸福を感じられるようにするためには何が必要なのか。それは人同士のつながりの強さを取り戻すための、強固なコミュニティーづくりが大事。シェアハウスで暮らしたりする若者は幸福度が高まっているという』。
今日は礼拝後、クリスマスのお祝いの食事会が準備されております。キリストの教会は、食事の場に主なるイエス様がいつも共におられると信じるものです。クリスマスの主イエス・キリストに感謝。
聖降誕日前夜
『泊まる場所がなかった』ルカ2:1-14
イエス様の誕生の前に、まず母マリアに次のような受胎告知がなされました。ルカ1章31-33節『あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない』。まだしばらく先の話だとしても、誕生する子どもは、父ダビデの王座を継いで、ユダヤの国を治める王様になると言うのです。ダビデとはイエス様が生まれた頃から遡って、1000年程前の、現代からすれば3000年程前の、ユダヤの王様でした。ユダヤの国としては、最も最盛期を築いた王様です。彼の死後は、国が南北に分裂したりして、次第に国力は衰退して行きました。700年ぐらい前からはいくつかの外国の侵略によって、植民支配を受け続け、最終的にはローマの支配下に陥りました。その間、ユダヤの人々は、聖書の約束の言葉によって、あのダビデ王のような強力な王様の登場を信じて待ち続け、700年が経ってしまっていた。そんな状況の中で、冒頭のような受胎告知をマリアは受けた。この告知の言葉を、この時のマリアはどこまで理解出来たか。それより何より、あの約束の言葉がようやく実現するんだ、という熱気は全く伝わって来ないのです。告知の内容の重大性から言えば、ナザレの田舎に住む、本当に小さな12歳ほどの少女に知らされるには、余りにも不釣り合いにも思います。その事はむしろ、当時のユダヤの人々の、あの約束の言葉に対する信頼性の度合いを、映し出しているかのようなのです。700年も待ち続けて、もはやその言葉に期待することをあきらめ切っていたようです。
そんな人々の思いは、やはり先程読みました福音書の箇所にも現わされています。当時のユダヤの人々はローマの植民地化にありました。そのローマの王様が住民登録の勅令を発したのです。ローマでは、すべての男性を、5年ごとの住民登録のために、生まれ故郷に戻し、男性とその家族の数を数えて、徴兵のためや、税金を決定するために、登録を使用したのだそうです。このような勅令は、ローマに限らず、古代世界の権力者がよく行ったことでした。先程のダビデ王も、それを行ったことが有りました(サムエル下24章)。しかしユダヤの信仰では、住民調査は真の王である神様が行なうことで、人間の王が行うことは、神様を冒瀆することだとして、ダビデは神様に叱責されています。今やローマの王様の、そんな勅令に従うことは、言わばユダヤ人は、自分たちの神様を捨てて、ローマの王様を神様とすることにもなります。心の中の思いは様々でしょうが、結局ユダヤ社会は、もはや約束の言葉に期待せず、あきらめて、見た目にはむしろ進んだローマの文化の恩恵を受けて、古いユダヤの価値観や信仰を、建前化してしまっていたのでしょうか。
ヨセフ一家もそんなユダヤの状況の中に、例外なく置かれていた。そしてヨセフも自分の町へと、マリアを連れて行くことになった。ここで興味深いのは、そのヨセフが『ダビデの家に属し、その血筋であった』と、聖書は言うのです。これは世が世なら、そんな血筋のヨセフを、社会が放って置くはずはない。ところがヨセフは、誰にも注目されることなく、とぼとぼとベツレヘムへ行く。しかも宿屋には泊まる場所もない。そんな中で、マリアは出産し、幼子は馬小屋の飼い葉桶に寝かされた。ヨセフの立場が、ここにもうかがい知れます。ベツレヘムには、ヨセフを泊めてくれるような、親戚もいなければ、支援者もいなかったのでしょう。それだけ、あのダビデ王家の再興の約束の言葉は、人々の間では、全く忘れ去られてしまっていた。あきらめと絶望の極致のような状況が、伺い知らされるのです。
諦めと絶望と言えば、今月12月4日は、6年前にアフガニスタンで銃撃を受けて亡くなった、医師の中村哲さんの命日でした。それで12月6日のNHKテレビで、改めて中村さんの活動の事が放映されていました。最初は医師として働き始め『今命を救うのは100の診療所より1本の用水路だ』と思い立って、用水路を砂漠地帯に建設する工事に着手されました。ご自身の死も含めて、次から次へと湧き起る困難に、決してあきらめない中村さんの生き様に驚かされました。そんな活動の中で、今回改めて気づかされたのは、常に将来にわたる、日本人だけでなく、現地のアフガニスタン人の担い手をも、後継者として育て続けられたということです。決してあきらめないという中村さんは、もちろん中村さん個人の強さもあるでしょう。しかしもう一つ、次の世代を担う後継者の育ちが、そんな中村さんを大いに励まして、増々、あきらめない、絶望しないという力が、湧き起こされて行ったのではないか。番組の最後には、次の言葉が綴られてありました。『そして彼の死後も続いたプロジェクト。緑の大地は、ただの水路ではなく、人の心と希望がつないだ歴史そのものです』。
今日の聖書の中のヨセフ一家は、当時のユダヤ人全体の諦めと絶望を象徴するかのようです。しかしまたそこに、小さくても、希望の芽が備えられていることを、見過ごしてはならないのです。それが飼い葉桶の中の幼子イエス・キリストです。今日の聖書の後半に登場する羊飼いたちも、徴の幼子によって、あきらめから解放され、希望を持って、しかし相変わらず偏見と差別に満ちた、羊飼いの仕事へと戻って行ったのです。幼子の誕生はまた、まさに現代に生きる、この私たちにとっても、決してあきらめないという、徴となるのです。私たちも常に、次の世代のことを視野に入れながら、目の前の課題に悪戦苦闘するのです。そこから、未達成であっても、得られたものを次の世代に引き継いでいく、そんな使命にもう一度生かされて行きたいのです。そこに、あきらめない、希望の生き方が示されます。
ある友人の方から、先日こんな話を聞きました。『自分は母親とは、その関係性に悩みもありますが、産んだ我が子の存在が、自分の存在を肯定してくれている。だから結局、自分と母親とのつながりも、我が子の存在故に、肯定させられて行くものなのですね』。
いつまで経っても、繰り返される戦争。また地球規模の環境問題。尽きることのないたくさんの課題に、あきらめることなく携わることが出来ますように、そのためにも、次の世代を育て引き継いで行くように、主イエス・キリストの誕生が、こんな私たちに確かな希望を備え続けて下さると信じます。
降誕節第1主日
『預言者を通して』マタイ2:13-23
先週の主日礼拝では、マタイ福音書1章18-25節が与えられておりました。婚約者のマリアが妊娠したことを、夫になるヨセフは知らされて、天使からもマリアが身ごもった子どものことを知らされ、受け入れるように促されたわけです。この場面が、マリアの受胎告知に対して、ヨセフの受胎告知と言われる所です。マリアの妊娠を知った時のヨセフの事を、マタイ福音書は次のように記しております。マタイ1章19節『夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した』。ここの『正しい人』というのは、ユダヤ教の律法を忠実に守る人、ということです。いわゆる信仰熱心なユダヤ教徒、ということでしょうか。だから律法に即して判断すれば、マリアは姦淫の罪で、厳しい刑罰を被る可能性がある。マリアがそれに服することには、躊躇する思いもある。だからと言って、それを見逃すことは、自分が律法違反することにもなる。正しい自分としては、それも避けたい。またこの事態が公になれば、男としての自分の面目も丸つぶれだ。悩みに悩んだ末、ひそかに縁を切ろうとしたのだろう。ヨセフは当然、祈りの人でもあっただろう。祈りながら、神様のご意志を問い尋ねた。『神様、私の決心は、あなたのご意志ですね。それとも他にありますか』。
そんな中で、マタイ1章20節『主の天使が夢に現れて言った。ダビデの子ヨセフ、恐れず妻を迎え入れなさい』という、神様の言葉を聞いて行った。最終的にヨセフは、言われた通り母と子を迎え入れた。この流れもまた、ヨセフの一連の悩みと祈りの中の出来事だったと思うのです。そして迎え入れを決断した。それを聖書は神の言葉を聞いて、ヨセフはそれに従ったと記すのです。今日の福音書の始まりも、まさに同じです。マタイ2章13節『占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った』。東の方から来た、占星術の学者たちが、黄金、乳香、没薬を、飼い葉桶の中のイエス様に捧げた、あの場面の後の事です。学者たちは『ひれ伏して幼子を拝み』と聖書は記しております。この光景は、ヨセフやマリアは、少なからぬ影響を与えられた事と思われます。しかも学者たちは『ヘロデのところへ帰るな』と、夢でのお告げを聞いて、それに従いました。その夢のお告げのヘロデのことを、学者たちはヨセフにも伝えたかどうかは分かりません。ただ、もし聞いているとしたら、今後のヨセフの祈りと決断と行動にも、少なからぬ影響を与えることになるのではないか。
当時、ユダヤ地方を治めていたヘロデ王は、猜疑心の塊で極めて残忍だったそうです。特に自分の地位を脅かす者に対しては、実の息子でさえも処刑する程でした。そんなヘロデ王の悪名は、有名だったと思うのです。そんな中で、ヘロデによる幼児殺しの情報が、ヨセフにも入ったのではないか。それで、あの学者たちの夢でのお告げを、知らされていたとすれば、増々その情報は有力だと思うでしょう。ヘロデのこれまでの悪行からすれば、これはかなりの広範囲と長時間にわたっての、虐殺行為になるかも知れない。これまでにもユダヤ人たちが、天災などの深刻な困難に遭った時には、しばしばエジプトに避難する事が、歴史的に繰り返されています。この時のヨセフも、そんな流れに乗ったのではないか。そしてエジプトに逃亡した。ヘロデ王の虐殺とヨセフの逃亡の経緯を、ヨセフの祈りに伴って、以上のように現実に即するかのように推測して見ました。そしてこれらを聖書は『主の天使が夢でヨセフに現れて』とか『主が預言者を通して言われていたことが実現するため』とか、記しているのだと思うのです。祈りと思い巡らしの葛藤の中に、神様の言葉が臨むように働くのです。
ところでヘロデの幼児虐殺の事件ですが、いつか聖書研究会で、一人の出席者の方が『イエス様のせいで、ベツレヘム一帯の二歳以下の男の子は、虐殺されたことになりますよね』と、尋ねられました。私はこんなふうに答えました。イエス様がこの世の傍観者のように、高みに崇め奉られていれば、それは『イエス様、何やってんだ』と、責任を問う声も上がるでしょう。あの東日本大震災の時にも、神様は何をやっているんだと、非難され時と同じようです。しかし、イエス様を傍観者として置くのではなく、当事者に置いたらどうだろうか。高みにおられると言うよりも、まさに苦難の中に放り込まれた当事者と考える。とにかくその事態に直面し、周りの人間たちは祈り悩み、そして様々な方策を駆使して、生きて潜り抜けることが出来た。いわゆる神的な奇跡が駆使されたわけでもない。人間並みにイエス様も、痛みを被ったはずだ。そんなイエス様とは、苦難を取り除くよりも、苦難に一緒に与るお方なのではないのか。そうしてヨセフ一家はエジプトでの、言わば長い難民生活を経て、祈りと悩みのヨセフ決断したことは、ナザレの町に帰る事だった。これらのことを、やはり聖書は、夢でのお告げと『預言者たちを通して言われていたことが実現するため』と、記しているのではないか。それにしても苦難の渦中にある時の人間には、そんな神様の働きを、意識出来るはずもないだろう。神様の働きを知るには、かなり後で、振り返った時ではないだろうか。
ある神学雑誌に、中国人作家の魯迅の言葉が、次のように引用されてありました。『希望というのはもともとあるものとも言えない。無いものとも言えない。地上の道のようなものだ。地上にはもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になる』。私はこの言葉を、勝手ですが、次のように読み替えてみました。『神の声というのはもともとあるものとも言えない。無いものとも言えない。地上の道のようなものだ。地上にはもともと道はない。神の声を聞く人が多くなればそれが道になる』。
キリストの教会は神の声を聞く群れです。『群れ』というのが大切です。一人で神の声を聞く事もあるかも知れませんが、それで独善的になったり、聞いていない人を裁くようにしてしまう危険があります。悩みつつ、祈りつつ、キリストの教会によって、相応しく、神の声に共に耳を傾け続けて行こうではありませんか。