からし種 441号 2026年2月

新年聖餐礼拝

『わたしにしてくれた』マタイ25:31-40

丁度先週の12月25日は、クリスマスでした。救い主が到来したということで、これを第一の臨在とも呼ばれます。そしてそのイエス様は地上での生涯を、十字架の死で終えて復活されました。また、40日間にわたってそのお姿を、限られた弟子達に現わされ、天に昇られたと聖書は記しております(使徒1:1-11)。そして天に昇られたその同じお姿で、再びこの地上にやって来ると約束されました。この再びの到来をキリスト教会は、第二の臨在と呼んだり、キリスト再臨と呼んで、それを待っているわけです。クリスマスの時までを、第一の待降と呼ぶならば、まさに現代の私たちは第二の待降の時を過ごしているとも言えるでしょう。

そして2026年も引き続き、第二の待降の時を過ごさせていただきます。今日のマタイ福音書は、キリスト再臨の時に何が起こされるのか、それを予め知らされる箇所です。再臨によって、神様の支配を現す、神の国を完成させるというわけです。その際に、神の国に入れられる者と入れられない者とを、選別すると言います。取り合えず今日からまた、新しい年が始まりますから、昨年までの自分では、このまま行けば、恐らく神の国に入れないのではないかと、心配もあります。ですので、再臨が起こされないうちに、もう一度自分をリセットして、ゼロから神の国の住人として相応しく、やり直させていただきたいと願います。

そこで神の国に入れる基準のようなものを、今日のマタイ福音書は教えていてくれるようです。それは、イエス様が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢に居た時に訪ねてくれることだ、というのです。しかし今やイエス様は肉の目に見えません。そもそもイエス様が、そんな苦しんだり困ったりしているなんて想定出来ません。どのように受け留めて行ったら良いのか。続けて聖書は言います。復活のイエス様は見えないだろうが、肉の目に見える人間たちなら見ることが出来るだろう。その人間たちの中には、飢えていたり、渇いていたり、寝るとこが無かったり、着るものが無かったり、病気だったり、牢屋にいたり、そういう人たちが必ずいる。その人たちが求めていることや、必要としていることに、応えて行くことは出来るだろう。それらをすることが、イエス様にすることと同じなのだと言うわけです。またそれをしなければ、神の国には入れないと言われているようです。

結局、いわゆる善い行いをすれば救われるし、そうでなければ救われないという、伝統的な図式なのかなと思ってしまいます。善い行いが出来る時もあるかも知れませんし、どうしても出来ない時もある。100%出来なければだめなんだろうか。何パーセントまでだったら、良しとしてくれるのだろうか。堂々巡りです。そこで、忘れられない言葉があるのです。30年程前に、この戸塚ルーテル教会に赴任しました。その時の教会役員の一人の方から聞いた言葉です。その方はお引越しで、教会も戸塚ルーテルに転籍されて来られた方です。引っ越し前に通われていた教会は、そこの牧師先生が開拓されて建て上げられた教会です。信徒教育もきっちりされておられたようで、その役員の方も、しっかりと薫陶を受けた感じでした。いわゆるキリスト教信仰のセンスがいいなあ、とも思わされました。ですから私にとっては、とても助けになることを、折に触れて教えていただきました。いくつもあるのですが、今ここでその一つを紹介させていただきます。教会には様々な役割が割り当てられています。役員もその一つです。その役割を受けるかどうかは、事情があって悩むこともあります。これは教会に限らず、地域や会社組織でも、起こり得ることです。そこでこの役員の方が、開拓伝道の牧師先生から、次のような言葉を教えられたと言うのです。『この役割を受けないことは、せっかくの神様からの恵みを、頂かない事になりますよ。もったいないことです』。

これをお聞きして、最初は『上手い言い方だなあ』と思いました。牧師としては、誰かが担って下さらなければ困ることもあります。でもその役員の方と、更にお話して行く中で示されました。神様は私が大変だと思う所にこそ、一緒に働いて下さる。それが恵みとなる、とおっしゃられました。傍目には、大変な役割を担って、善く言えば、素晴らしいボランティア精神だ、なんて見られるのかも知れません。しかし当の本人は、周りがどうのこうのではなく、ただ神様と共にたくさんの恵みをいただいている状態にある、というわけです。以来、このように聞かされた言葉は、今も折に触れて思い起こさせられています。あの阪神淡路大震災や東日本大震災では、一部では、神様は何故このようなことをなさるのか、と言った声も聞かれました。しかし一方で、日本中から、また外国からも、震災からの復興のために、大勢のボランティアの方々が集められました。支援者が被災者の方々と、一緒になって、復興に携わっている。そこに神様は働かれている、という声もありました。あの役員さんが教えてくれた言葉と、通ずるなと思いました。私助ける人、あなた助けられる人という、互いに傍観者のようになるのではない。私もあなたも一緒に悩み苦しみ、共に悩み苦しみ歩んで行こう。そこに神の国の扉が備えられて行くのです。それがたとえの中で『わたしにしてくれたことだ』と言われるイエス様の意図だと示されます。

でも、困難にある人に応えないのは、イエス様に応えないことだとおっしゃられていますが、正直、そんな時もあります。でも、応えられない時の自分は、何を思っていただろう。何者だと考えるのだろう。そんな自分を正直に見つめる時になるのかも知れません。そこで、知らされた事からまた、こんな自分でも、決して見捨てないというイエス様に、出会うことが出来るように導いて下さるのではないか。今年も、悩み祈りの中に、イエス様を信じてまいります。

顕現主日

『言は世にあった』ヨハネ1:10-18

 キリスト教会にある独自のカレンダーでは、1月6日が、救い主イエス・キリストの顕現日と呼ばれています。それは、クリスマス降誕劇で有名な、東からやって来た三人の博士たちが、飼い葉桶に眠る幼子のイエス様に、出会った日を由来とします。こうしてユダヤ人以外の異邦人に、初めてイエス様が顕現された日として、記念されて来ています。そして顕現日の週の日曜日が、本日の顕現主日として定められています。

 顕現日は、ユダヤ人以外の異邦人に、初めて救い主のイエス様が顕現された日ですが、この異邦人とは、ユダヤ人から見た異邦人なのです。しかし、神様の目から見たならば、ユダヤ人も例外なく、異邦人なのではないか。もちろんユダヤ人は、古代から聖書の神様に選ばれた民として、従って来ました。顕現の意味がただ単に、神様を知っているということならば、ユダヤ人以外が異邦人と、言われ得るのでしょう。しかし、聖書が言う本当の顕現の意味は、ただ単に神様を見て知っている、ということではないのです。

 今日のヨハネ福音書1章11節『言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』とあります。『言』とは、イエス・キリストです。『自分の民』とありますが、狭い意味ではユダヤ人です。『受け入れる』というのが『顕現』です。ですから、ユダヤ人に、顕現されなかったと聖書は言うのです。ならば、ユダヤ人も実質、異邦人なのです。そして続けて今日の聖書は『言を受け入れた人、その名を信じる人々に神の子となる資格を与えた』と言っています。ですから『顕現』とは『言を受け入れる』ことであり『神の子となる資格を与えられる』ことだと言う意味です。更に興味深いのは、その『神の子』とは『血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである』と言っています。遺伝的にユダヤ人に生まれたからとか、ユダヤ教の制度によって、ユダヤ人に定められたからとか、それで神の子になるのではないと言うのです。では神の子になる、神によって生まれるとは、更に具体的にどういうことなのか、聖書に聞いて行きます。

 今日の福音書の後半では、バプテスマのヨハネの事が語られています。ヨハネは悔い改めを宣べ伝えて、水で洗礼を授け、後から来る方は、聖霊と火で洗礼を授けると語りました。丁度一月ほど前の12月7日、待降節第2主日で、そのヨハネの登場の場面を、マタイ福音書から聞きました。その時には、次のようにお話ししました。イエス様が赤ちゃんとしてお生まれになった、クリスマスを待つという第一の待降と、イエス様の再臨を待つという第二の待降がある。そしてもう一つ、私という一人の人間と、一対一で関りを持つために来られる、救い主を待つという、第三の待降がある。そうしますと、この『待降』という言葉を『顕現』という言葉にも、置き換えられるでしょう。第一の顕現、第二の顕現、第三の顕現。特に第三の顕現が、神によって生まれることなのでしょう。ヨハネ福音書はこれを、3章5-6節で次のように記すのです。『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である』。これが今もキリストの教会で起こされている、イエス・キリストのお名前による、洗礼のことです。

 今日の福音書の最後で『神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである』と記します。イエス・キリストを通して、神を示される。まさに、その人にとっての神の顕現が起こされる。そしてイエス様のお名前による洗礼によって、神の子にさせられて行く。神様と自分が、親子関係に入れられるのです。元々、人間は神によって創られました。ですから、親子関係にあったはずです。しかし、自分が神のようになるという罪によって、親子関係が損なわれた。しかし、イエス様が自ら、関係破壊の罪の責任を負うために、人となられた。そして、関係の回復を果たされる。それを今日のヨハネ福音書は、また次のように言います。『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた』。

 この関係というものの大切さを考えさせられる、興味深いラジオ放送を聞きました。12月25日のNHKラジオ放送です。『The Good Life』という書物の紹介番組でした。幸せを解き明かす研究報告書というものだそうです。80年間、3世代に渡って、724人の生い立ちからの人生を、リサーチしたものです。科学的に幸福とは何かを追求したものだそうです。結論は『良好な人間関係』が幸福なことだと言うのです。番組の中の、いくつかの言葉を紹介します。『良い人間関係はあった方がいいというのではなく、作った方がいい』。『大切なのは、一人でも二人でも、頼れる人を造っておくこと』。『孤立、孤独を感じないように、筋トレをするように、せっせと、例えばしばらく遠ざかっていた人たちに連絡を取って、関係性のメンテナンスを続ける。これをSocial Fitnessと呼んでいる』。

 東日本大震災以降、福島県の児童養護施設の青葉学園と、戸塚ルーテル教会は活動支援の関係が続けられています。先日その窓口役の渡邊姉から、学園から頂いたメールが転送されましたので、以下に紹介します。

 『お世話になっております。寒い日が続いております、いかがお過ごしでしょうか。・・さて、いただいた支援金での卒園生へのクリスマスBOXですが、お蔭さまで今年も大好評でした。・・卒園生からは下記のような感想が届いています。

 ●結婚したが、自分の親族とのやり取りがない。クリスマスプレゼントは、実家からの贈り物のようで大変嬉しかった。(女性)

 ●結婚して、子どもが生まれて3人家族です。実家との付き合いがないので、家族で喜んでます。(男性)

 ●青葉学園を退園して一人暮らしの初めてのクリスマス。学園での楽しいクリスマスを思い出して嬉しかった。(男性)

 ●食べ物の貯えがなく困っていたところに支援のプレゼントが届いたので助かった。感謝します。(女性)

 ●一人で過ごすクリスマスですが、青葉学園からのプレゼントをもらい、学園でのクリスマス会を懐かしく思い出しています。(女性)

 ●福島の学園に帰りたく思うのですが、金銭的に余裕がなく無理です。プレゼントを送ってもらい、嬉しかった。(女性)

 福島市近郊の卒園生には、青葉学園にプレゼントを受け取りに来てもらいました。来園時には担

当していたホームの保育士等に近況を話すなど、アフターケアの良い機会となりました。ご支援くださった戸塚ルーテル教会の皆さまには心より感謝申し上げます』。

イエス様は今も、関係作りの筋トレを続けて下さっています。このイエス様に応えて、励ま

されて、キリストの教会も、筋トレを続けて行きます。

主の洗礼日

『正しいことをすべて行う』マタイ3:13-17

今日の箇所は、ヨハネのところへ、イエス様が来られたというところから始まっております。ここに至る経緯は、今日の箇所の直ぐ前のところに記されてあります。当時のユダヤはローマ帝国の植民地下にありました。そこからの解放を求めて、ユダヤ人たちは、救い主メシアを待ち望んでいました。その救い主の登場の前に、それを先触れする人物が登場することも、旧約聖書の中で預言されておりました。その先触れをする人物が、ヨハネでした。その際にヨハネは、次のように宣言しました。マタイ3章11節『わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる』。

洗礼は、水に身体を浸し、清めを為す宗教的儀式として、後期ユダヤ教で用いられて来ました。清めのためには、何回も行われていたようです。しかしヨハネは、それを、人生で唯一回行うものとしました。しかも、それで汚れや罪がすっかり洗い流されて、いわゆる救われた状態になる、というのではない。その前段階の、悔い改めの徴としての洗礼だと言うのです。最終的に、救われた状態になるのは、私の後から来られる方の、聖霊と火の洗礼によるのであって、ヨハネの洗礼は、そこに導かれるようになるためだと言うのです。それでヨハネは、洗礼者(バプテスマの)ヨハネと呼ばれるようになったのです。

その、後から来られる方とは、イエス様のことです。そんなイエス様が、ヨハネのところに、水の洗礼を受けに来たのです。それに対するヨハネの反応です。マタイ3章14節『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか』。これは普通に、当然の反応だと思います。イエス様の履物をお脱がせする値打ちもない、と言うのですから、イエス様に対しては、自分は奴隷以下だとも言っている。それぐらいにイエス様は偉大だ。しかしそんなヨハネの姿勢を、敢えて言えば、方向転換させるようです。イエス様は言いました。マタイ3章15節『今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです』。この『正しいことをすべて行う』という言葉に、注目させられます。絶対的な正しさが、ここに語られているのです。先日、米国の軍隊が他国を攻めて、その国の大統領を捕縛し、米国の裁判にかけました。その際に米国の大統領は、正しいことを行ったと述べました。個人的には、何が正しい事で、何が正しくない事なのか、今も混乱状態です。しかしイエス様が『正しいことをすべて行う』と言う時、このイエス様に絶対的な正しさが示される、ここを唯一の拠り所とすることが出来る。そう信じる時、大きな安心が湧き起こるのです。ではその正しさとは何か。

まずイエス様が『我々にふさわしいこと』だと言っています。イエス様とヨハネの二人は、あくまでも神の意志に従っている。だから神の前にあっては、どっちが主人で、どっちが奴隷だなんてことは無い。同じように人間界では、絶対的な正しさはない。あくまでも相対的なのです。そして人々が受ける水の洗礼を、イエス様も受けるということは、イエス様はいつでもどこでも、人間に寄り添って下さるお方なのです。苦しいことも悲しいことも、嬉しいことも、いつも一緒に与って下さるお方です。今年の元旦礼拝では、マタイ25章31節以下の、聖書箇所を聞きました。その中で、日常生活の、苦しんでいる人や、悲しんでいる人に対して、何も出来なくても、一緒に苦しんだり悲しんだりすることもあるだろう。それが実は、目には見えないイエス様ご自身と、一緒に苦しんだり悲しんだりしていることになると言うのです。結局イエス様は、私助ける人、あなた助けられる人、ではなくて、助けられる人に共になる、というお方なのです。ですから、ヨハネは勘違いしましたが、私、洗礼を授ける人、あなた、洗礼を受ける人、ではなくて、イエス様は私と共に洗礼を受けて下さるお方なのです。ヨハネは裁いて切り捨てる。しかしイエスは裁かれる人と、共に歩み裁かれる。そこに神の愛が示されます。そしてもう一つ、ヨハネの洗礼は見える水の洗礼です。しかしイエス様の洗礼は、見えない聖霊と火の洗礼です。見えるものではなく、見えないものに目を注ぐのです。だからイエス様が水の中から上がられた時の事です。マタイ3章16-17節『・・イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、と言う声が、天から聞こえた』と聖書は言います。イエス様は目に見えない神の霊と神の声に与った。だから、キリストの教会で今も引き起こされている、イエス・キリストのお名前による、見える水を用いた洗礼は、イエス様と共に、見えない神の霊と神の声に与ることなのです。

私の好きな作家の沢木耕太郎さんが、1/4日の日経新聞朝刊で『敵か、味方か』というエッセイを投稿されておられました。一部を引用させていただきます。『去年、久しぶりにマレーシアを訪れ、半月ほど滞在した。・・多くの(宿泊)客が宿の前の通りでスマートフォン片手に何かを待っている。すると、四、五分もしないうちに、ごく普通の自家用車がやって来て、そこに乗り込んでいく。・・グラブという配車アプリを入れ、目的地を入力するだけで、近くにいる何台かの登録車があと何分で到着し、いくらで行くか返事をしてくれる。しかも、車種やドライバーの情報も一緒に届くので、その中から状況に応じて最適の一台を選べばいいのだという。・・しかし、なんと素晴らしいものかと喜んで用いているうちに、確かに移動は便利になったが、町歩きの楽しさが半減してしまったのではないかと思うようになってきた。目的地まで、汗ひとつかかず、この道でいいのだろうかなどと思い迷うこともなく、すっと着いてしまう。だが、旅の面白さは、・・単に目的地に早く着くだけでなく、汗をかいたり、道に迷ったり、とんでもないところに出てしまったりといった過程の中にあるものなのだ。そうしたことによって、道を教えてくれる土地の人と触れ合ったり、思いもかけない土地や建物に遭遇したりする。・・こんな話を、ある酒席でしたことがあった。すると、そこにいて、直後にタイのバンコクに行く用事があったという若い会社員が、帰って来て、グラブは本当に便利でしたと言い、こう付け加えた。まるで『どこでもドア』のようでした。私、言い得て妙だと思った。・・だが、そこには、過程という大事なものが存在しない。・・旅は過程の中にも、あるいは中にこそあると思うような旅人にとっては、旅の敵となり得る。どこでもドアのようなグラブは、旅に豊かさをもたらしてくれる偶然を、徹底的に排除してしまうからだ。・・しかし、グラブを使えば、労力はもちろん、時間も、場合によっては金銭も節約できるかもしれないのだ。はて・・』。イエス様がわざわざ人となって、時間や労力をかけるように、更には人に寄り添い続けて下さるのは、まさに過程が大切だとされているからではないか。そして『旅に豊かさをもたらしてくれる偶然』とは、まさに人生という旅の中での、神様の働きを感じさせられる、それが偶然と呼ばれるものなのではないか。

キリストの教会によって、正しいことをすべて行うというそこに込められている、人生の生き方の正しさを問い尋ね続けてまいります。

顕現後第2主日

『神の小羊』ヨハネ1:29-42

今日の箇所も、まず洗礼者と呼ばれるヨハネが登場しています。ヨハネが生きた当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地下でした。そしてそこから解放してくれる救い主メシアの登場が、聖書で預言されていました。また、その救い主の登場の前に、それを先触れする人物の登場も、預言されていました。その先触れの人物が、ヨハネでした。今日の福音書の中でも、次のように言っています。ヨハネ1章30節『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである。・・この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た』。

ここで改めて、当時のユダヤ社会や宗教事情に対する、ヨハネの問題意識を推測してみます。冒頭で触れたように、当時のユダヤはローマの植民地下で、そこから解放されるのを、信じて待ち続けて来た多くの民衆は、待ちくたびれて、預言の言葉にも疑いを持つ人々も出て来たでしょう。むしろ、ローマの進んだ文化に触れて、このまま、言わば快適、効率、便利に過ごせれば良いではないかと思う人たちも多くなって来た。もちろん、ユダヤ教信仰に照らせば、信仰の堕落でした。本音で生きて、信仰は建前化されるようにもなって来た。信仰熱心なグループもいましたが、彼らは増々熱狂的になり、不信仰な者を厳しく裁くようになった。そんなユダヤ教団に対して、特に若者たちは背を向けるようにもなってしまった。ユダヤ社会と宗教事情に、強く危機感を覚えたヨハネは、真の救いを求めて、水の洗礼活動を行い始めたのでしょう。水の洗礼は、従来からユダヤ教団でも行われて来ましたが、通常は、外国人がユダヤ教に改宗する際に行われていたものでした。ですから、一般的には、ユダヤ人は受けるものではなかった。しかしヨハネは悔い改めの洗礼として、ユダヤ人にも受けるべきだとしたのです。それぐらいに、自分たちの生き方についても、ヨハネの危機感は深かったのです。

一方で、ユダヤ人たちは、当時から遡って、2000年程前に起こされた、いわゆる出エジプトの出来事を、歴史上、神様による最大の救いの出来事として、記念し続けて来ました。それが過越祭です。それも、惰性で守られるようにもなっていたのではないか。エジプトを脱出した当時のユダヤ社会は、ヨハネには自分の時代とも、多分に重なって見えていたのではないか。当時のユダヤ人たちにとっては、エジプトはまさしく自分たちの国ではなかった。宗教も違った。そんな中で、エジプトの進んだ文化に触れ、次第に快適、効率、便利な社会状況にどっぷり漬かって行った。信仰も建前化して行った。もちろん、差別の中での外国生活は続きますが、世代が変われば、それも次第に薄れるのだろう。しかし神様は、モーセを指導者として建てて、神様がユダヤ人を選んで与えた使命に生かされるように、エジプトを脱出させ、本来の住むべきカナンに戻らせたのです。その脱出の際に、定められた食事を取りました。小羊を屠ってその肉を食べ、酵母を入れないパンを食べました。また小羊の血は、家の入口の二本の柱と鴨居に塗りました。その血が、ユダヤ人が住んでいる家の徴となって、神様の裁きの災いが過ぎ越すとされたのです。こうしてエジプトに下される、災いを避けて、ユダヤ人はエジプトを脱出したのです。この出来事が過越祭の原型となったのです。ちなみにイエス様は過越祭で十字架にかけられ、最後の晩餐と呼ばれる食事は、この過越祭の規定の食事でした。そしてキリスト教会では、この最後の晩餐を原型とする聖餐式で、パンとブドウ酒を通して、キリストの肉と血をいただくのです。

ヨハネは今のユダヤの現状と、出エジプトの出来事を想起しながら、救い主の登場を先触れするように、水の洗礼活動に与っていたと思われます。そして、イエス様に水の洗礼を授けた時です。ヨハネ1章32-34節『わたしは、霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。・・水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である、とわたしに言われた。わたしはそれを見た』。ヨハネにして見れば、このお方だ、と示されたのではないか。過越祭を通じて、長い間、あの出エジプトと同じ最大の救いの出来事の再現を、信じて待ち続けて来たヨハネでした。ところが、従順に自ら洗礼を受けられるイエス様と、聖霊と、そしてそれを預言する神様の言葉とに触れて、災いを過ぎ越した、あの小羊の肉と血のことが、一気に、蘇えって来たのではないか。

ヨハネは、普通に知らされて来た、神様とは違うものを、イエス様に見たのではないか。高い所で睨んで、悪いものは切り捨てる、そういうお方ではない。あの過越しの出来事で、従順に屠られる小羊と、重なったのではないか。だから今日の福音書の冒頭で、ヨハネはイエス様を見て言ったのです。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』。更にその翌日、ヨハネは二人の弟子と一緒にいて、歩いているイエスを見つめて言った。『見よ、神の小羊だ』。促されるように、二人の弟子たちは自ら、イエス様に従って着いて行った。

そしてこの後、不思議な会話が続きます。まずイエス様が振り返って言った。『何を求めているのか』。これは、何かご利益でも求めているのかと、聞こえる問いかけです。それに対して彼らが『どこに泊まっておられるのですか』と、聞き返したのです。これが不思議です。どんな思いで、こんな問いをしたのでしょうか。神の小羊だと聞かされた二人は、イエス様が、何か神的な存在で、このまま行ったら、消えていなくなってしまうのではと思ったのか。自分たちが行けない所に行ってしまうのではないか。ところがイエス様は『来なさい。そうすれば分かる』と言われた。これも何気なく聞こえる言葉ですが、少なくとも二人の弟子たちにとっては、極めて嬉しい言葉だったのではないか。強制するようなものでもない。むしろ進んで実際に行って見て、そして一緒に泊まることも出来た。午後四時頃から一緒にいて、かなり話し込むことも出来たのではないか。二人の中の一人はアンデレで、兄弟のペトロに会って、メシアに出合ったと言って、更にペトロをイエス様の所に連れて行きました。今まで求めて来た救い主メシアとは違うけれども、それだからこそ、本物に出合ったのです。彼らも悪いものは厳しく切り捨てられてしまう、そんな律法の世界に生きて来た。しかし、このお方は、むしろだめなものにも近づき、招き、寄り添い、更には一緒に失敗や破れを被ってくれる。一緒に裁かれて行ってくれる。そんなふうに思わせるようなお方です。

先日、朝のラジオで、ある経験をした視聴者の声が紹介されていました。その人は目が不自由で、音響が無い横断歩道の前で、青になったのか赤になったのか分からずに、オロオロしていました。そこに横断歩道の手前で停まったトラックから、運転手さんが降りて来て、手を引いて横断させてくれたというのです。とても嬉しくて、忘れられずに温め続けて、ラジオにも投稿したというのです。私もその場面を想像しながら、何か目に見えない、しかし大切なものに包まれる思いがしました。

キリストの教会による聖霊のバプテスマに思いを馳せ、今日の聖餐式にも与ってまいります。

顕現後第3主日

『天の国は近づいた』マタイ4:12-23

イエス様が『悔い改めよ。天の国は近づいた』と、宣べ伝え始められた、との言葉に注目します。マタイ福音書では『神の国』のことを『天の国』と表現しています。聖書が言う『神の国』とは、ここにある、あそこにある、という場所的なものではなく『神が支配されている』という、状態を意味します。ですから私が今、ここは神が支配されている、と信じるならば、ここが神の国です。いずれにしても、ここが『神の国』だという場合もありますし『そんなものはない』という場合も、両方あるでしょう。だから聖書は、その両方があるという意味で『天の国は近づいた』と言うのでしょう。

『近づいた』と言えば、丁度一月前の12月25日はクリスマスでした。これこそ神様が人間に近づいた、最たる出来事です。『近づいた』というよりも、人間の中に共にいて下さる、という出来事です。それをマタイ福音書は『インマヌエルの神』と記しております(1:23)。その意味は『神は我々と共におられる』。旧約聖書の、出エジプト記に示される神様は、人間モーセに神の言葉を託し、彼をリーダーとしてお用いになって、イスラエルの民を導いていました。どちらかと言うと、神様は相変わらず天に座して、睨みを利かせるようだったのです。しかし、イエス・キリストを通して示された聖書の神様は、人間の中に、人間になって、人間と共にいて下さるのです。

モーセはユダヤ人でした。そしてモーセは次の神様の言葉を託されました。出エジプト19章5-6節『今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる』。ここで言う『わたし』というのは神様のことであり『あなたたち』というのはユダヤ人のことです。そして『わたしの契約』とは、十戒と呼ばれる十の戒めを基本の契約文にしたものです(出エ20:1-17)。それらは石の板に書き記されました。更に大切なのは、この『あなたたち』に使命が与えられたことです。その使命とは『あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる』。

この契約と使命を与えられたユダヤ人たちは、大きな誤りや破れを経験しました。それはユダヤ人に限らず、全ての人間たちも同じように犯す、誤りと破れです。神様から『わたしの宝となる』とか『祭司の王国、聖なる国民となる』とか言われて、自分たちが何か特別優秀な民族だと、勘違いしてしまったのです。その結果、ユダヤ人以外の人々を、蔑むようになりました。更には、同じユダヤ人の中にあっても、あの文字化された契約なので、それを振りかざして、同胞でも守れない者たちを、不信仰で汚れていると、裁くようになってしまったのです。それで天上で睨みを利かしていた神様は憂いて、新たな契約を結ぶ約束をされました。それが新しい契約になり、それまでの契約は旧い契約となりました。エレミヤ書31章31-34節を引用します。『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。・・彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。・・わたしは彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない』。

このエレミヤによって預言された新しい契約は、今やイエス・キリストを通して締結されるのです。それを『天の国が近づいた』と言われるのです。イエス様はユダヤ人としてお生まれになりました。それはむしろ、誤った選民思想を取り消すように、原点に戻るかのようです。同時に、宗教的に汚れていると差別されていた、ガリラヤ地方のナザレで育てられ、人種、民族、階層、性別など、あらゆる人間的差別を払拭されるようです。そこにこそ真の神の支配が示されるのです。そしてもう一度、あの大切な使命をもって、宣べ伝え始められるのです。『あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる』。この『あなたたち』こそ、今やキリストの教会であり、二度と誤解してはならない使命になるのです。

今日の福音書の、イエス様に最初に出合って応答した人物は、四人の漁師たちでした。キリストの教会の原点になります。『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』。彼らは網を捨て、舟や家族を残してイエス様に従いました。何が起こされたのか。あのエレミヤが預言した言葉の中に、示されています。『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、主を知れ、と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない』。

この四人の漁師たちのことは、ルカ福音書5章1節にも、詳細に記されてあります。漁を終えて、網を洗っていた漁師たち。その日は何も取れなかった。そこにイエス様が来て、岸辺に押し寄せる人々に話をするために、舟を沖に少し出してほしいと、漁師のペトロに申し出た。恐らくペトロは疲れていて、早く家に帰りたかったでしょう。しかし、イエス様の言う通りにした。ようやく話し終えたイエス様が、事もあろうに、更に沖に漕ぎ出して、漁をしなさいと言った。ペトロは内心思った。『プロの我々が、一晩中漁をして、何も取れなかった。イエス様とはいえ、漁に関しては素人だ。でも言う通りにしてやるか。それで、納得してもらおう』。ところが言われた通りにして見ると、大漁だった。ここで興味深いのは、奇跡の業を行ったイエス様を、まず称賛すると思いきや、この時のペトロが真っ先に発した言葉は『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』。イエス様との出会いによって、自分が何者なのかを、まず知らされて行った。神の国でまず起こされるのは、人間の再創造であり、それが聖書が言う救いです。そして、その人間の群れがキリストの教会です。

先週20日に聞いたラジオから、19日がキング牧師記念日という、アメリカの祝日だと、初めて知りました。人種差別に非暴力で抵抗した、1950~1960年代のアメリカ公民権運動の中心的人物です。アフリカ系アメリカ人の公民権要求と人種差別撤廃を求め続けました。1964年にノーベル平和賞を受賞しましたが、1968年4月4日に暗殺されました。39歳でした。そんなキング牧師の功績を称え、1929年1月15日が誕生日でしたので、1983年に、毎年1月の第3月曜日を、記念日とする法案が可決されました。1994年にはクリントン政権下で、キング牧師記念日と併せて、奉仕活動法が制定され、キング牧師記念日は、地域のために活動する日とされました。アメリカの連邦休日の中で、個人を称える祝日は、このキング牧師と初代大統領ワシントンとコロンブスの、3名しか無いそうです。

 世界の暗闇は、尽きることが無いと思わざるを得ないこの今、改めてキング牧師の働きが記念され続けていることを知らされ、まさに一筋の光を見るような思いです。時代を超えて、決して後退することのない『天の国は近づいた』という声。この宣教の声を上げ続ける使命に、キリストの教会によって与り続けます。