からし種 442号 2026年3月
『喜びなさい』マタイ5:1-12
今日の福音書の箇所は、先週の箇所からの続きになります。先週の箇所は、四人の漁師がイエス様に『わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう』と声を掛けられて、直ぐに従ったというところでした。どうして直ぐに従ったのか、その経緯は何も書かれてありません。それは想像するしかありませんが、イエス様の噂は彼らなりに聞いていたと思います。何かこれまでとは違う価値観のようなものが、イエス様から伝えられたのではないか。そしてここで『人間を取る漁師にしよう』と言われました。これも今まで聞いた事も無い概念でしょう。自分たちは今まで、魚を取って来た漁師だ。しかし人間を取るなんて、どう言うことなのか。分からないけれども、分からないなりに、こんな自分たちで良いのだろうかとも、思わされたのではないか。それなのにこんな自分たちを用いようとされる。そんなお方に、むしろ応えて行きたいと、促されてしまったのかも知れません。
そこで今日の福音書ですが、ここにイエス様の、これまでとは違う価値観のようなものが、示されているように思います。イエス様が山で、弟子たちに説教をしたと言われる、始まりの所です。『幸いである』という言葉が繰り返されています。何故、幸いなのか、その理由が、理解出来そうなのと、出来そうでもないものと、両方あるのです。心が貧しい、悲しむ、義に飢え渇く、迫害される、ののしられる、悪口を浴びせられる、これが幸いだと言うのです。従来とは、全く真逆の価値観です。柔和だ、憐れみ深い、心が清い、平和を実現する、これらは不幸な事ではありませんが、かと言って幸いだとも思えません。自分がそういう状態になれと聞くならば、むしろしんどいと思うだけです。ただ、自分はしんどいけれども、それは他者のためだとするならば、確かに他者は幸いなことだと思うでしょう。イエス様の弟子になるとか、救われるとか、信仰とか、そういうことはまず第一には、自分事のように考えがちです。しかし今日の山上の説教でも『あなたたち』と、イエス様は語られています。『あなたたち』の、その一人一人ということには間違いないのかも知れません。がしかし、その一人一人は、決して単独ではない、そんな『あなたたち』として存在するのです。だから、私一人で、苦しんだり、悲しんだり、ののしられ、迫害され、悪口を浴びせられるのでもない。イエス様のために、そして多くの仲間たちと共に、と聖書は言うようです。
今日の第一日課は、1コリント1章18節以下からです。イエス様の弟子として召し出された時のことを、手紙の著者のパウロが次のように言っています。『人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。・・それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです』。冒頭の四人の漁師も、この通りだったでしょう。更に同じ1コリント12章26-27節では次のように記されてあります。『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』。
先日、組織開発コンサルタントの、勅使川原真衣さんという方の、ラジオ放送を聞きました。組織の作り方というお話しでした。印象に残った言葉をいくつか紹介します。『人を変える仕事ではなくて、人を変えなくていい組織を作る仕事をしている。私が見ているのは、個人と言うよりも、人と人との関係性です。例えて言いますと、星を見るのではなく、星座を見る仕事です。善い組織とは、優秀な人がたくさんいる組織と考えません。善い組織の条件は、一人一人の考え方が理解されて、組織の存在意義に向かって、各々の持ち味が生かされている状況なのです。問題を個人に帰するのではなく、構造システムの問題として捉えます。いかにしてそれぞれの、違う持ち味を組み合わせるのかを考えます。優秀な人が優秀な組織を作る、そのために皆の能力を上げて行くのが理想だ、というのは間違いだと思います。人はそもそも違うのです。大事なのは、良し悪しを付けずに、自分の言動パターンを、それぞれが知っておくことです。自分を知ってから、相手を知るのです。組織が安直な正解探しや、優秀な人探しにあけくれ、地道なメンバーの頑張りを、承認して来なかったことの弊害が、今見受けられます。これらを改めるためには、一言で言えば、人を決めつけないことです。決める事の前に、決めつけない事が重要です。組織での信頼感作りをするには、信頼関係は仲良くする事では無くて、相手を分かったつもりにならないことです。簡単に決めつけない。ジャッジしない。良し悪しを一方的に付けない。分からないものは、分からないまま問い尽くすことです。これらの積み重ねの中に、組織の安心感を生むものだと思います』。
今日は、戸塚ルーテル教会の、定期会員総会です。教会役員の半数の改選が主な議題です。教会の周りの地域の人たちに、柔和と、正義と、憐れみと、清い心と、平和を届けるよう、戸塚ルーテル教会も大いに用いられるために、十分な備えが整えられますように、そして附属する幼稚園の働きが、地域の人々にとっても、希望の光となり続けますように、祈りを併せてまいりましょう。
最後に、たまたま金曜日に届けられました、全日本私立幼稚園連合会の、会報2月号に『幼児期を共に過ごした子どもとつながり続ける』という投稿文に目が留まりました。ところどころ引用させていただきます。『・・卒園すると、これまでのように子どもたちと関わることが難しくなっていきます。しかし、せつかく自園を選び幼児期を過ごしてくれた子どもたちとの縁を、どのようにつないでいくかを考え、15年前から卒園児に4枚の葉書と手紙を渡す取り組みを続けています。幼児期での経験が、その後の人生の土台になっていることを思い返すきっかけをつくりたいという願いが、この取り組みの出発点でした。また、どこかに必ず自分を見守ってくれている場所がある、と感じられることが、子どもたちにとって心の支えになるのではないかと考えています。
(4枚の葉書の説明と手紙の文言)
1枚目小学校を卒業する時に,2枚目中学校を卒業する時に,3枚目成人式を迎える時に,4枚目人生で一番嬉しい事があった時におたより書いて下さい。いつまでも皆さんのことを見守り、応援し続けていますよ。
・・葉書が届き始めると、・・成長の姿に胸が熱くなります。・・こうした便りは、子どもたちにとっての、原点、に私たちの園がなれているかどうかを問い返してくれる、大切なメッセージでもあります』。
キリストの教会によって、神の国がこれからも現わされ続けてまいりますように、こんな私もその働きに与らせて下さい。
顕現後第5主日
『立派な行い』マタイ5:13-20
イエス様が本格的に、伝道活動を始められた時の、当時のユダヤ社会は、ローマ帝国の植民地下にありました。ですから、不本意な外国のしきたり文化にも、従わざるを得ないこともあったでしょう。人々は、少なからず、いわゆる抑圧状態を感じていただろうと思われます。ただし、外国の王様とはいえ、強力な権力の下に、一見、政治的社会的安定はもたらされていた。特にユダヤ人の中にあっても、そんな外国権力にすり寄る者は、それなりに特権を与えられ、安定した生活も保障されていたでしょう。一方、権力に反感を抱く者は、不遇を強いられたでしょう。その結果、格差が生まれて、ユダヤ人同士の間でも、対立が生じていた。正直者が馬鹿を見るような、そんな状況も日常茶飯事だった。人々は、何が正義で、何が真実なのか、問わざるを得ないような状況だった。
そんな中でイエス様が、伝道活動を始められた。その第一声は『悔い改めよ。天の国は近づいた』でした。人間的な力や画策では、事態は変えられない。もう一度、神様に立ち返ろうと、人々はその声を聞いたのではないか。更にイエス様は、四人の漁師たちに『人間を取る漁師にしよう』と声をかけた。彼らもそれに応えて、網を捨て、家族にいとまごいをして、イエス様の弟子として従った。『天の国』『人間を取る』これらのイエス様の言葉から、まさに真の正義と真実に包まれて生かされる、人間の真の生き方の予感を、人々は抱かされたのではないか。
そんな四人の漁師を始め、イエス様に従って行った弟子たちのことを、今日の第一日課は1コリント2章ですが、1章26節以下で、手紙の著者のパウロは、次のように書いています。『人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。・・それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです』。このように召された弟子たちの群れからは、まさにキリスト教会の原点が示されます。そしてその群れの一人一人は、決して孤独ではないという。そのことも同じ1コリント12章26-27節では、次のように書いています。『一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』。
そしてそんなキリストの群れは、あくまでも群れのための群れではない。今日の福音書は、その群れに向かって『あなたがたは地の塩である。・・あなたがたは世の光である』と言うのです。この社会の中にある、塩であり、光である。決して、傍観者のようではない。塩は人間が生きて行く上で、無くてはならないものです。しかも少量で十分なのです。あなたがたは、そういう塩であると、断定するのです。今から塩のようになりなさい、とは言われない。既に塩だという。これを聞かされるあなたがたは、キリストの群れであり、しかも『人間的に見て知恵のある者ではなく、能力のある者や、家柄のよい者ではない』と、言われる者です。そんな自分たちが『あなたは塩だ』と言われたら、どう聞くだろうか。『えっ、このままの自分でいいんですか。塩が塩で無くなるはずは無いし、もしそうなって、投げ捨てられて、人々に踏みつけられても、元々、踏みつけられて生きて来ましたから、何でもないです。しかも少量でいいなんて、こんな自分たちに相応しいです。塩だと言い切って下さるイエス様に応えて、人々が生かされるように、私たちではなく、神様が崇められるように働きます』。また、あなたがたは既に光であって、光のようになりなさい、とは言われない。これもキリストの群れが聞けば、どのように受け留めるのだろうか。『自分たちは、暗闇のような所に生きて来た者かも知れない。真昼間の太陽の光の下では、線香花火のようなか細い光では、何の役にも立たないだろう。しかし暗闇の中では、たとえか細い光でも、大きく広く、周りを明るく照らせそうだ。これでも立派な行いに見えるのですね。私ではなく、そうして下さる神様が崇められますように、応えて光ります』。
先々週の土曜日でした。近くの大型モールの施設の、ほぼ満員のオープンスペースで、昼食を取ろうと席を捜し回っておりました。すると、若い夫婦の方から『もう食事が済みましたので、どうぞこの席を使って下さい』と、譲っていただきました。例えは相応しくないかも知れませんが、地獄で仏と思いました。歓喜しました。そして食べ終わった頃に、ふと、相変わらず混んでいる周りを見渡していましたら、少し前の自分たちのように、きょろきょろと、席を捜しているらしいカップルに目が留まりました。席を譲ってもらったあの時の嬉しさが、ふつふつと湧き起って来て、そのカップルの方に声をかけてしましました。『自分たち、もう食べ終わりましたので、どうぞこの席をお使い下さい』。とっても感謝されました。私もとっても嬉しくなりました。同時にあの聖書の言葉が思い出されて来ました。丁度、今日の福音書はイエス様による、いわゆる山上の説教と呼ばれている所ですが、同じその続きの部分の説教です。マタイ7章12節『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者です』。律法と預言者とは、聖書のことです。聖書の言葉は、ああしなさい、こうすべきだと聞くものではないんだ。私の場合は『してもらって、することが出来た』のですが、それでも聖書の言葉はやっぱり、自ら喜んで守られるものだと、改めて示されました。
最後に、先週の木曜日に、お墓や葬儀や寺院の研究をされている、星野哲さんによります『令和時代の死生観』というタイトルで、ラジオからお話を聞きました。死生観とは、生きることや死ぬ事に対する見方や考え方の事です。医療の進歩や核家族化などで、死と向き合う機会が、現代は減って来ている。その結果、死をどう受け留めたらよいのか、考えられなくされて来ているのではないかと言うのです。死を語る意味を、星野さんは次のように語られていました。『どうすれば、最後の時まで、安心して生きられる社会を作れるか、その問いに向き合うことにある。年を取っても、病気や障害があっても、見捨てられない社会は、どんな社会なのか、大切な人を失った人の不安に、どう寄り添えるのか、そのために必要なことで、自分が出来ることは何か。誰もが必ず死を迎える。死を考えることは、人として、どう支え合い、どう大切にし合えるかを考えることに、つながれるはずですし、そのようにあってほしい。死を考えることは、誰の側で、どう生きるかを考えることです』。
キリストの教会によって、キリストの側で、地の塩、世の光であり続けさせていただきます。
変容主日
『今見たこと』マタイ17:1-9
イエス様が活動された当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地下にありました。ですから、そこから自分たちユダヤ人を解放してくれる、強力な指導者の登場が待ち望まれておりました。そんな中で登場されたイエス様に対しても、何者なのかとの人々の関心が寄せられたわけです。今日の福音書の直ぐ前の所ですが、そんな人々の、イエス様に対する評判を、イエス様ご自身が尋ねられています。マタイ16章13節『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』。『人の子』というのは、いわゆるメシア、救い主のことを指す、特別な意味で用いられる場合があります。この時は弟子たちに尋ねておられますから、弟子たちは違和感なく聞いた事と思います。そして人々の評判を、弟子たちは答えたわけです。最後に、弟子たち自身は何者だと思っているかと問われて、筆頭弟子のペトロが代表して『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えました。これは大正解です。そして、そんな弟子たちに向かって、将来、大切な使命が与えられることも、ほのめかされるわけです。そもそもイエス様ご自身も、御自分のことを『人の子』と自称されているわけですから、それを直接聞いた弟子たちにして見れば、間違いようが無いとも思われます。
ところがこの後、イエス様が、御自分の十字架の死と復活の事を、弟子たちに打ち明け始められた時です。ペトロが、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めて言ったのです。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』。それに対してイエス様は言われました。『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』。イエス様が何者なのか、大正解を告白したのに、イエス様の十字架の死を聞いて、恐らく自分の筋書きとは違う、不吉なことをイエス様が言われたので『とんでもない』と、ペトロは思ったのでしょう。それが『神のことを思わず、人間のことを思っている』と、言われてしまったのでしょう。ここで考えさせられます。イエス様は何者なのか。それを考える時に、同時に『自分は何者なのか』それを問い質しなさいと、イエス様は厳しくも指し示されるようです。イエス様が奇跡の業を行ったり、神様のことを教えられたりするのは、御自分の偉大さを知らしめるためではありません。そんなイエス様に接する人間たちが、自分は何者なのかと、問い質されるためだと、聖書から聞くのです。
今日はキリスト教会独自のカレンダーでは、変容主日と呼ばれる日曜日です。そして今週の水曜日は、灰の水曜日と呼ばれ、その日から四旬節と呼ばれる期節に入ります。四十六日間に渡って、イエス様の十字架への苦難の道のりを、覚えるように導かれます。そして今日の福音書は、イエス様の変容の場面を描きます。イエス様は三人の弟子たちを連れて、祈るために高い山に登られた時です。マタイ17章2節『イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった』。これがいわゆる変容と呼ばれる、イエス様のお姿です。しかも旧約聖書に登場する、二人の有名な人物、モーセとエリヤも現れて、三人で語り合ったと言うのです。三人の弟子たちにして見れば、あの有名人と語り合うイエス様は、やっぱり、ただもんじゃないと、確信させられたでしょう。しかも天から、父なる神様らしき声も聞かされたのです。『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』。弟子たちはひれ伏して、非常に恐れたと聖書は記しております。増々、ただもんじゃない、と思ったでしょう。そして顔を上げて見ると、イエス様の他には誰もいなかったということです。そして、そんな弟子たちに、イエス様は言われました。『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』。彼らがこの時直ぐに、今見たことを話すとしたら、どんなふうに話すだろうか。『イエス様はあの有名な、モーセとエリヤと話し込んでいたぞ。本当なんだよ。やっぱりイエス様は凄いお方だ。自分たちはそれを、この目で見たんだ。そこに立ち会うことが出来たんだ。おれたちも、捨てたもんじゃないぞ』。ここでも『神のことを思わず、人間のことを思っている』と、イエス様は言われるだろうか。イエス様が伝えたい事は、やっぱり、御自分の凄さでは無いだろう。
日経新聞の朝刊に『私の履歴書』というコラムがあります。一月に渡って、各界で活躍されている方々が、御自分の履歴を書かれているものです。今月の二月は、写真家の大石芳野さんが担当して書かれています。写真集の『無告の民 カンボジアの証言』を出版され、ポル・ポト政権による大量虐殺の爪痕と、苦悩を続けるカンボジアの人々の姿を克明に伝えるものです。1982年には日本写真協会年度賞を受賞し、報道写真の重要な成果として評価されました。しかし、写真集の発表は称賛だけでなく『これは嘘だ』という中傷も招いたそうです。ポル・ポト政権の虐殺の実態が国際社会に十分に認知されていなかった時代、現実離れした残虐さを目にした一部の人々は、その記録を信じようとしなかったのだそうです。そして次の言葉が印象的でした。『事実と真実の間に横たわる溝は、報道写真が常に直面する課題です。事実も真実も、あまりにも似た言葉ですが、そのニュアンスは異なります。事実は、実際に起こった事柄を指し、真実にはその事柄に対する人の解釈が入っています。事実が客観的であるのに対して、真実は主観的なのです。そう考えると真実は、事実に関わった人の数だけ存在していると言えます。事実を事実のまま受け取るのは非常に難しい話です。なぜなら、それが事実であっても、人から伝え聞いた瞬間に主観が入ってしまいますし、聞き手も人なのでどうしても主観が入ります。そういう意味では、事実と真実の見極めには多少の訓練が必要なのかもしれません』。
この事実と真実の違いの話しを聞いて、特に『事実と真実の見極めには多少の訓練が必要なのかもしれません』という言葉から、こんなふうに考えさせられました。事実や出来事に直面して、その事から、自分事として受け留め、当事者として考えて、何かを伝えたり行動を取るとしたら、まず自分が何者であるのか、問い質し続けておくことが大切なのではないか。イエス様が『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』とおっしゃられたのは、まさに『人の子が死者の中から復活する』事によって、自分が何者であるのかを知らされるからだと、おっしゃられるのではないか。
キリストの教会によって、今週からの四旬節の期節を、自分を知らされる時となるように、相応しく過ごさせて下さい。
四旬節第1主日
『悪魔は離れ去った』マタイ4:1-11
先週の18日水曜日から、教会独自のカレンダーでは、新しい期節の四旬節に入りました。今年のイースターは4月5日ですが、そのイースターから逆算して、日曜日を除く40日前からが四旬節ということで、毎年水曜日からがその日になります。その水曜日を特別に、灰の水曜日とも呼んでいます。灰は聖書の中では、悔い改めの徴として用いられています。四旬節は悔い改めのための期節です。具体的には、神様に対して自分は、何者なのか。どういう姿勢で存在しているのか。それを毎週の聖書に聞いて、自己吟味する期間とするのです。そして、40日という期間は、今日の福音書の、イエス様が荒れ野で、40日間断食をしたということに由来します。あるいは旧約聖書からとすると、エジプトで奴隷状態だったユダヤ人たちが、指導者のモーセに率いられて脱出して、シナイ半島の荒れ野を、40年間彷徨ったという40にも、由来します。
さて自分は何者なのか。今日の福音書から自己吟味します。まず荒れ野で40日間断食したイエス様に対して、誘惑する者が来て『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』と誘惑した、ということです。ここの『誘惑する者』というのは、悪魔のことでしょう。何故このような、持って回ったような表現をするのか。恐らく、いかにも『悪魔』と分かるような雰囲気では、やって来ないということでしょう。この次の誘惑にも出てまいりますが、悪魔は聖書の言葉も知っていて、それを振りかざして来る程です。自嘲気味に言わせていただければ、牧師のようにやって来るかも知れません。この第一の誘惑に対してイエス様は、旧約聖書の申命記8章3節を引用して『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と応えたのです。これまでにも申し上げて来ましたが、イエス様が不思議な奇跡の業を行うのは、御自分を偉大な者に見せるためではありません。そんなイエス様に触れた人間たちが、むしろ自分は何者なのかを、考えさせるためなのです。この場面は、人間たちは誰も立ち会っていません。もっとも聖書の読者は立ち会っておりますが。いずれにしてもこの悪魔の誘惑は、まさに人間を抜きにして、イエス様ご自身のためだけに働かせようとする誘惑です。
そしてここでもう一つ注目させられるのは、申命記から引用していることです。申命記は、まさに昔のユダヤ人たちが、荒れ野を40年間彷徨って、ようやく行けと言われた約束の地カナン、今のイスラエルの地を目の前にして、指導者のモーセが語った説教集だとも言われます。荒れ野の彷徨いの中で食べる物が無くて、ユダヤ人たちが不平を言った。それに対して、マナと呼ばれるパンが与えられた。その時に、モーセを通して語られた神様の言葉が、この8章3節です。このマナというパンが与えられた時の詳しい様子は、出エジプト記16章に描かれています。ここで興味深いのは、このパンを多く集めたものは余ることなく、少なく集めたものも不足することなく、それぞれが必要な分だけになっていたということ。それから余分に集めて、翌朝までため込んではならないと言われたのに、それをした者のため込んだものは、虫がついて臭くなって、食べられないものになったというのです。『人はパンだけで生きる者ではない』。決して、パンは必要ないとはおっしゃれてはいない。ここで気づかされるのは、自分はどうしても人よりも多くかき集めようとし、それを目一杯蓄積しておきたい、と思ってしまうことです。そこには他者の存在が無くなっている。結局、言葉よりもパンを大切にする自分。そしてそのパンも、人よりも多く集めてため込んで、一人悦に入っている自分。それが何者だと言われる自分なのです。
続いて第二の誘惑です。悪魔はパンよりも神の言葉が大事なんだなと決めつけて、今度は神の言葉を持ち出すのです。イエス様を神殿の屋根の端に立たせて『神の子なら、飛び降りたらどうだ。神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える、と書いてある』と、詩編91編12節を引用するのです。それに対してイエス様は、ここでも申命記6章16節を引用して切り返すのです。『あなたの神である主を試してはならない』。これも詳しい事情は、出エジプト記17章に描かれています。飲み水が無いと言って人々は不平を言い、指導者のモーセと争った時のことです。そんな人々に向かって、モーセが言ったのです。2節『なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか』。そして7節『イスラエルの人々が、果たして、主は我々の間におられるのかどうか、と言って、モーセと争い、主を試したからである』。神様を試すなんて、それは既に自分が神様の上に立って、神様をコントロール出来るかのように思っていることになります。また自分の筋書き通りにしてくれない神様を、本当にあなたは私の神様なのかと、疑ってしまう自分をも、ここで見せつけられます。また思い通りに、直ぐにしてくれない神様の働きを、忍耐して待てない自分。まさに快適効率便利の沼にはまって、言わば神様を、信仰生活の自動販売機であるかのように扱ってしまっている自分なのです。
そして最後の悪魔の誘惑です。『非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言ったのです。非常に高い山に登るのも、しんどいし、時間もかかります。更に、世のすべての国々の繁栄と言いますが、これだって、長い時間をかけて築き上げられて来たものでしょう。悪魔にひれ伏せば、しかも形だけでいい、心の中はどうでもいいから、見た目でひれ伏して拝めばいい、と言っているようです。そうすれば、面倒な事は一瞬にして解決して、ほしいものが与えられるというのです。まさに結果結論のみを追求し、面倒なプロセスを省くように考えてしまう自分がいます。それに対してイエス様は、ここでも申命記6章13節から引用するのです。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』。これは約束の地カナン、今のイスラエルを目の前にして、これから入植して行く地は、色々な神々や価値観があって、それらに目を奪われないように、というモーセの説教からです。特に『ただ主に仕えよ』という『仕えよ』という言葉に注目させられます。それは言わば、時が良くても悪くても『従い続ける』というものです。ですから、自分の都合によって、神様に着いたり離れたり、別のものに乗り変えたり、そんな根無し草のような、自分の信仰の在り様をも考えさせられます。
そして最後に『悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた』とあります。先程の第二の誘惑の中で、高い所から飛び降りても、神様は天使を送って守って下さると、聖書に書いてあると悪魔は言いました。そしてこの場面でも、天使たちが来て、イエス様に仕えたという。それは天使たちが、悪魔を排除したわけではない。ここにも、イエス様に対する自分のイメージが問われるのです。イエス様は、苦しみや悲しみを予防したり、厄払いするかのようには働かれない。むしろ苦しみや悲しみなど悪いと思われるものが、自ら離れ去って行くかのように、そしてそこには、イエス様だけが、どんな時にもいつも変わらず、共にいて下さるということではないか。今はそんなイメージを抱かされています。
これからも教会によって、イエス様を問い、自分を吟味して行きます。