からし種 422号 2024年7月

聖霊降臨後第2主日

『安息日は人のため』マルコ2:23-3:6

今日の福音書の箇所は、安息日の律法規定にまつわる、イエス様と反対者たちとのやり取りの場面です。そもそも安息日とは何か。それは旧約の創世記1章に記されている、神様の天地創造の働きと密接に関係しているものです。天地創造の神様が、初めは全くの混沌状態だった世界に、その言葉をもって、一つ一つ創造する毎に、混沌から秩序へと導かれて行った、その事を知らせてくれるものです。そして人間もまた、その神様によって創造されたものであることも、明確にされるのです。創造の御業を終えた後のことを、次のように記します。創世記2章1-3節『天地万物は完成された。第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された』。

この『第七の日を神は祝福し、聖別された』との言葉を受けて、人間は何をするのか。それが『安息日の律法規定』として与えられて行ったわけです。その経緯は次の通りです。かつてエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、指導者のモーセに率いられて、エジプト脱出を果たす。そして、約束の地カナン(今のパレスチナ)に向かう途中のシナイ山上で、神様から律法として、十の戒めを与えられた。その戒めの四つ目が『安息日を守ってこれを聖別せよ』でした。今日の第一日課の申命記5章12節以下に詳しく記されてあります。エジプト脱出を果たしたイスラエルの民は、これから約束の地カナンに入り込んで行くわけです。そこには、約束の地とはいえ、既に先住民がいます。イスラエルの民も、40年も彷徨い続けて、ようやくカナンに入ることになります。それは言わば、二重にも三重にも、天地創造以前の混沌状態の中に、まさに置かれたようです。十戒は、そんな混沌状態のイスラエルの民にとっては、秩序が与えられ、神の民に相応しく生きていきためには、なくてはならないものとなるはずなのです。特に第四の戒めの『安息日を守ってこれを聖別せよ』というのは、混沌から秩序へと導く聖書の神様を、ありありと指し示すものだからです。ですからイスラエルの民は、安息日には礼拝を守り、今の自分たちの混沌状態から解放して下さる神様に信じて、その完成をもう一度、祈る時となるはずですから、なくてはならない日なのです。また同時に、自分たちはあくまでも被造物であり、神様のように振る舞っていたとしたら、そんな傲慢な自分を、戒める時にもなるはずなのです。

こうしてイスラエルの民は、混沌から秩序へと導いて下さる、神様に信じて来ましたが、その混沌は依然として続いていたのです。イエス様の時代もまた、ローマ帝国の植民地化にありました。混沌状態は、様々な様相を呈しながらも、相変わらず続いていたわけです。そんな中で、この『安息日を守ってこれを聖別せよ』とおっしゃられる神様の意図が、違う方向へと捻じ曲げられて行ってしまっていた。安息日を守るために、一切の労働行為をしないようにと言うことでした。では禁止されている労働行為とは何か。そこに余りにも焦点が当てられ過ぎて、イエス様の時代には、何が労働行為に当たるのか、細則のようなものまで出来上がってしまっていました。その細則に則って、労働行為をしないことが、安息日を守ることになるという、言わば形式的なものにもなってしまっていた。今日の福音書の中にも、そんな人々の状態を映し出している様子が記されてあります。マルコ3章2節『人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた』。

何故安息日を守るのか、その意味が見失われてしまっているかのような状態だった。それこそまさに、社会もそうだし、人々の心の中も、相変わらずの混沌状態と言わざるを得ない。人々は、自分自身が混沌状態にあることに、気づいていない。そんな人々の状態を、イエス様ご自身がズバリ指摘されています。マルコ2章27節『安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない』。混沌状態にある自分たちを、あの天地創造の時のように、もう一度秩序ある状態へと、必ず導いて下さる神様を覚えて、更にその信仰を強めて下さるようにと礼拝するために、安息日が与えられている。これが、人のために定められた安息日です。ところが、たとえ形式的であっても、安息日が成立するように、そのために人間は、定められた労働行為を、何が何でもしないようにしなければならない。それでも、安息日に労働行為をせざるを得なくても、咎められないように、様々な抜け道もまた考えられている。そうやって、安息日が守られていることになっているように、体裁を整える。これが安息日のための人間の姿です。

安息日は聖書では、第七の日としています。現代の大方のカレンダーを見ても、日曜日から始まって、土曜日が七番目に当たっています。ですからユダヤ教では、土曜日に安息日の礼拝を守っています。しかしキリスト教会は週の初めの日、すなわち第一の日である日曜日に、礼拝を守っています。それは、あの天地創造の最初の日という、創造の始まりを思い起こさせます。そしてイエス様こそ、その週の初めの日に、復活されたのです。それは人間を、再び創造するためであります。ですから今や、週の初めの日の、キリストの教会の礼拝に与ることは、一つは、相変わらず混沌の中にいる者が、必ず秩序へと導かれることを、確信させられる時です。そして同時にもう一つは、主イエス・キリストのみ名による洗礼に与るという、あの人間の再創造の始まりの時を、繰り返し思い起こす時になるのです。このように、週の初めの日の、キリストの教会の礼拝は、混沌から秩序へという、第一の創造の完成を思い起こさせ、やり直しを可能とする、第二の創造の始まりを思い起こさせるのです。だから今日の聖書の中で、イエス様は語られます。マルコ2章28節『だから、人の子は安息日の主でもある』。

相変わらず、悩みや破れや闇の混沌の中にいる私ですが、あなたはそんな私を必ず、混沌状態から解放して下さいます。そして必ず、新たに生まれ変わらせて下さいます。

聖霊降臨後第3主日

『聖霊を冒瀆』マルコ3:20-35

今日の福音書の箇所は、結局、イエス様が何者なのか、それを巡っての、人々の混乱が描かれています。先週の礼拝で与えられた、マルコ福音書3章1節以下を振り返ります。聖書に記されている律法規定には、一切の労働行為をしてはいけないという『安息日を聖別する』と呼ばれる日が、定められています。しかしイエス様は、安息日に、病気の人を癒されました。癒し行為も労働に当たります。明らかに律法違反です。ユダヤ教の一つの教派になります、ファリサイ派の人たちは、律法を守る事に関しては、特別に熱心な人達でした。ですから、律法を守らないイエス様に対しては、単なる批判を通り越して、憎しみさえも抱くようになりました。マルコ3章6節『ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた』とある通りです。

そんな背景の中で、今日の福音書の箇所では、次のように記されてあります。マルコ3章21節『身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっている、と言われていたからである』。当時のユダヤ人であれば、普通は、あからさまには、律法違反は行なわないものです。違反をしても、うまく立ち回るでしょう。ところがイエス様は、むしろ律法違反を、見せびらかしているかのようです。それで『あの男は気が変になっている』という噂も、立っていたんでしょう。とにかく、十字架以前のイエス様と同時代に生きた人々にとっては、イエス様はまさしく、肉の目に見える人間です。どんなに神がかったかのような、行為や言動があっても、人間は人間なんです。ストレートに神とは言えない。特にイエス様に反感を抱く人間たちにとっては、口が裂けても、神の子だとかメシアだとか、そんなことは言いたくない。別の福音書ですが、ヨハネ9章16節では、次のように記されてあります。『ファリサイ派の人々の中には、その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない、と言う者もいれば、どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか、と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた』。

イエス様が何者なのか、人々の混乱ぶりが伺われます。そこで手っ取り早く考えて、悪霊に取りつかれている、としたらどうか。霊の話だから、理屈で詳しくは説明出来ない。だけどこういう場合には、霊のせいにすれば、取り合えずは皆、納得させられるだろう。しかも悪い霊のせいにすれば、普通の人間なら、やらないことも、その人は、だからそんな悪い事もしてしまうのだろうと、納得させられる。反対者たちは、更には『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』とまで言っている。しかもベルゼブルと呼ばれる、悪霊の頭の固有名詞まで持ち出している。ちなみに『ベルゼブル』とは、直訳しますと『家の主人』という意味です。あるいはまた、今日の福音書では、イエス様の母や兄弟たちという、身内の人たちが登場しています。とにかくこういう面倒な人間は、身内に任せて、どうにかしてもらうしかない。これもよく考えられる対処の仕方です。

ところがイエス様はこの時、そんな無責任な納得の仕方を、皮肉るかのように、霊の働きのことをたとえ話で、敢えて、理屈っぽく解説するのです。『どうして、サタンがサタンを追い出せよう。・・サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう』。悪霊をサタンに置き換えていますが、いずれにしても、内輪だから、悪霊の頭と言えども、相手は仲間の悪霊ですから、徹底的には滅ぼさないだろう。しかし百歩譲って、イエス様をベルゼブルだとするならば、その名の通り、家の主人なんだから、家に押し入っても、まず強い人を縛り上げて、家財道具を略奪するだろう。そうやって、今度はその家の主人らしく、徹底して振る舞う。曖昧な事はしない。ベルゼブルを逆手に取って、強烈な皮肉を投げかけるのです。

しかし悪霊は、イエス様が言うようには振る舞わない。振る舞うものがあるとしたら、聖霊なら、イエス様が言うように、振る舞うと言うのです。当時の人々は、イエス様のことを、肉の目で見ているが故に、イエス様の異端的な振る舞いを、肯定的には受け止められない。だから悪霊のせいに、せざるを得なかった。イエス様は、そんな人々の現実をよくご存じなのです。人間であれば、誰でもそうするでしょう。だから、イエス様はおっしゃられるのです。マルコ3章28節『人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される』。肉の目に見えるイエス様の事を、悪霊呼ばわりしても、赦されるとおっしゃられる。人間だから、仕方のないことなのです。

そしてこの時に、同時にイエス様はおっしゃられました。『しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』。人々は悪霊のせいによって、イエス様の異端的行動に対処しようとした。しかし、いずれにしても、イエス様の行動を理解するために、霊に頼るのは正解なのです。そして霊と言っても、聖霊だとイエス様はおっしゃられる。現代の私たちも、今や聖霊によってイエス様を知る。聖霊によってイエス様の言葉を知らされ、生き方が正しく整えられて行く。そのために私たちは、一瞬一瞬を、様々な決断をして前に進みます。それらの決断に、聖霊が働くのです。

使徒言行録は、別名、聖霊言行録とも呼ばれます。初代教会の伝道者パウロを中心にして、ギリシア・ローマ世界に、キリスト教が伝道されて行くことが描かれています。その際に、パウロ達が何らかの決断をする、その背後に、いつも聖霊の働きが記されています。そしてそれらの決断には、同じ聖霊が働いていても、真逆の決断になることもあります。例えば使徒言行録20章22節です。パウロが、苦難が待ち受けることを承知しながらも、エルサレム行きを決断した時の言葉です。『そして今、わたしは、霊に促されてエルサレムに行きます』。一方、21章4節では、パウロの仲間たちは、エルサレム行きを引き留めています。『彼らは霊に動かされ、エルサレムへ行かないようにと、パウロに繰り返し言った』。

聖霊による決断は、一見、その人の主観や思い込みに拠るものであるかのように、見えるかも知れません。もしかしたら、そういう可能性もあるかも知れません。ですから、決断した後や、それによって起こされた結果の後であっても、あの決断が聖霊によるものなのか、自分の思い込みなのか、検証して行くのでしょう。そしてその検証は、キリストの教会によってなされるものです。キリストの教会こそ、聖霊によって与えられているからです。キリストの教会に拠る事には、様々な形が取られるでしょう。礼拝の場かも知れません。聖書の言葉かも知れません。仲間との会話からかも知れません。聖書研究会からかも知れません。附属幼稚園での様々な活動からかも知れません。

この4月から、毎週水曜日の、キリスト教を学ぶ会が再開されました。元幼稚園の保護者の方々が、出席されております。ちょうど先週の学ぶ会で、一人の出席者の方が、御自分のお子さんが、弓道を習っておられたことを話題にされました。その子は卒園児ですが、試合で不調に陥った時に、ユーチューブを参考にしたりして、何とか自己流で乗り切ろうとしたことがあったそうです。その時に指導の先生から、まずは教本に立ち返りなさい、と言われたそうです。立ち返ることが出来たそうです。聖霊の導きに拠るのも、ややもすれば、気が付けば自己流の解釈に走ってしまう。キリストの教会に立ち返ることと同じようだと、そのお話から考えさせられました。

キリストの教会によって、正しく聖霊の導きに与ります。

聖霊降臨後第4主日

『人々の聞く力』マルコ4:26-34

まず、今日の福音書の箇所の、4章33節を引用します。『イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた』とあります。説教題もここから採用しました。ここで『聞く力』とは何なのか。改めて考えてみたいと思います。まず、それこそたとえを聞くわけですから、伝えたいことは、たとえそのものではありません。たとえの向こうに、伝えたいことが隠されているはずです。ですから『考える』ことが起こされるでしょう。それから『理解する』のでしょう。同時に、分からない、あるいはもう少し突き詰めてみたい、と思って『質問する』ということになるでしょう。そしてここから、いわゆる分かれ道が発生するでしょう。一つは、自分が温めて来た価値観のようなものを『修正する』のでしょう。そしてそれに基づいて『行動を起こす』のでしょう。もう一方は、これまでのものを『温存する』というものです。だから何かをする必要もない。こんなふうに『考える』『理解する』『質問する』そして『修正して行動を起こす』あるいは『そのまま何も起こされない』という二通りがある。これが『聞く力』ということから示されることです。

 そこで今日の福音書は、二つのたとえ話が語られています。『成長する種のたとえ』と『からし種のたとえ』です。いずれも『神の国』がたとえられるのです。そしていずれも植物の『種』が用いられています。二つのたとえにどんな違いがあるのだろうか。考えさせられます。『成長する種』のたとえでは『成長する』ということですから、種から始まって、実が収穫されるまでの、プロセスに焦点が当てられているようです。種、芽、茎、穂、若い実、そして実が熟して収穫される。わざわざ、種から始まって、実が熟すまでを、一つ一つ記されています。それは、芽が出ている。茎が伸びている。穂が出ている。実が付いている。種が成長している徴が、確かに折々に見えるようになっている。その事に気づいて行こう。そして実が熟す時が、必ずあるから希望を持って待とう、そんなメッセージが込められているようです。そしてもう一つ大切な事が、記されてあります。4章27-28節『夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせる』。種の成長には、一切、人間の力は及ばない。人間を超えた働きが備えられているからだというのです。これらのたとえに、神の国が示されている。種は人が用いられて語られる神の言葉です。そして折々に、拡大される神の国の徴は、何気ない毎日の、身近で当たり前だと、見捨てられがちな所に現わされている。そして必ずやって来る、神の国の完成ために、神様が働いて下さっている。だから確信をもって、待ち続けていいと言うのです。人間が出来ることは、ただひたすら、神の言葉を蒔き続けるのです。

 『からし種のたとえ』は、大きさに焦点を当てているようです。からし種は、種の中で、最も小さいものとして、たとえられます。そんな種から出た芽が、成長すると『葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る』ようになると言うのです。ここには、余りにも小さな種ですから、もちろん、芽が出て成長するにしても、可能性として、大きくなるはずはない。よって、頼りになるようなものではない。しかし気が付けば、思いもよらない大きな木に成長したという、驚きが込められています。同時に、小さい故に、見た目で判断して、可能性を測るという、人間的な価値観も戒められるのです。神の国の完成は、人間的な価値観や可能性の延長線上にあるわけではない。ですから、こんな所で、こんな時に、神の言葉なんか語ったって無駄だろう。この事態だから、もっと気の利いた事をするべきだろう。そんな人間的なものと戦いながら、そして戒められながら、ひたすら神の言葉を語って行くように促されるのです。気が付けば、神の国の完成の中に置かれてしまっているのです。

 先週幼稚園では、久しぶりに教育講演会を、水曜日の午前中に開くことが出来ました。講師として『NPO法人鎌倉育ちあいの家』代表の西野奈津子さんをお招きしました。講演題は『子育てが楽しくなる捉え方伝え方』ということで、親子の関わり方を中心にして、更に拡く人間関係が、平和なものになって行くための、方法や気づきを教えていただきました。ホームページに次のような言葉が記されてあります。『孤独感とは、ひとりでいる、ということではなく、例えば都会の人混みの中で、私はひとりだ、と感じてしまうような心の孤独です。日本が、そして世界が平和で幸せになるためには、小さな優しさを多く体験していくこと。そんな思いで活動しています』。講演後一時間程雑談している中で、この『小さな優しさから、世界平和へ』という発想は、高校生の時に教えられた、讃美歌二編の讃美歌26番からだとおっしゃられました。以来この讃美歌をずっと胸に秘め続けて、今の活動にもつながっているとのことでした。それで讃美歌二編26番(ちいさなかごに)をここに紹介させいただきます。

 1番

  ちいさなかごに花を入れ、さびしい人にあげたなら、

へやにかおり満ちあふれ、くらい胸もはれるでしょう。

 あいのわざはちいさくても、かみのみ手がはたらいて、

 なやみのおおい世のひとを、あかるくきよくするでしょう。

 2番

  「おはよう」とのあいさつも、こころこめて交わすなら、

  その一日おたがいに、よろこばしく過ごすでしょう。

 あいのわざはちいさくても、かみのみ手がはたらいて、

 なやみのおおい世のひとを、あかるくきよくするでしょう。

 最後にイエス様はおっしゃられます。マルコ4章34節『たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された』。これは弟子たちにして見れば、冒頭で申し上げました、たとえを聞いて『考える』『理解する』『質問する』そして『修正して行動を起こす』というプロセスが、省かれることになるのでしょう。それは果たして、弟子たちにとっては、良い事になるのだろうか。単に、変な特権意識を生じさせるだけではないのか。実際この後、来週の福音書の箇所になりますが、イエス様と舟に乗っていた時に、突風に悩まされたことが描かれています。弟子たちは、突風を恐れました。そんな弟子たちに向かって、イエス様は言いました。マルコ4章40節『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』。

 私たちはたとえを聞いて、聞く力を養わせて下さい。

聖霊降臨後第5主日

『まだ信じないのか』マルコ4:35-41

先週の礼拝で与えられていたマルコ福音書の箇所は、今日の箇所の直ぐ前の所でした。神の国について、二つのたとえ話が語られている所です。そのうちの一つは『成長する種のたとえ』でした。これを振り返ります。『成長する』ということで、種から始まって、実が収穫されるまでの、プロセスに焦点が当てられています。それは、芽が出ている。茎が伸びている。穂が出ている。実が付いている。言わば、種が成長しているという徴が、折々に見えるようになっていると言うことです。神の国もまた、そのように拡大成長して行くとすれば、折々に徴のようなものが見える、それに気づかされて行こう、とイエス様はおっしゃられるようです。

そこで、神の国の成長の徴として、考えられるものは何だろうか。聖書を見てみます。二週間前の福音書の箇所でした。マルコ3章20節以下です。『ベルゼブル論争』という小見出しが、付けられています。実はこの記事と同じ内容のものが、マタイ福音書12章22節以下にも、記されてあります。そしてマルコ福音書には記されてなくて、マタイ福音書には記されている、次の箇所を引用します。マタイ12章28節『しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ』。つまり、悪霊の追放が、神の国の到来の徴だと、聖書は言っているのです(cf.ルカ11:20も同じ)。悪霊は、人と人との絆を断ち切り、人を孤独に追いやるものです。神の国は、全ての人が等しく神様に繋げられて、神様の支配に置かれている状態を言います。マルコ1章15節で『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と、ここでイエス様は宣教の第一声を上げられました。そして今日の福音書の箇所までの所で、5回に渡って(1:21-,1:29-,1:39-,3:11-12,4:20-)、イエス様の悪霊追放の業に言及されています。その他にも、イエス様が病気を癒された箇所も、4回(1:40-,2:1-,3:1-6,3:10)描かれています。聖書の時代では病も、悪霊のせいだと考えられていますから、癒しも悪霊の追放行為だと言えます。合計9箇所で、悪霊の追放と言う、神の国の到来の徴が、折々に示されている事になります。ちなみに今日の箇所の直ぐ後の、5章1節以下にも、悪霊の追放が語られています。

特にこの、最初の神の国の到来の徴として、1章21節以下の悪霊追放の記事を取り上げます。1章25-27節を引用します。『イエスが、黙れ。この人から出て行け、とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く』。これを、今日の福音書の箇所と比較して見ます。イエス様と弟子たちが、舟に乗って、突風に悩まされている場面です。そこでイエス様が行動を起こします。マルコ4章39節『イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、黙れ。静まれ、と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった』。それに対しての弟子たちの反応です。4章41節『弟子たちは非常に恐れて、いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』。古代社会では、荒れ狂う海や湖は、恐怖の対象でした。悪霊の住みかとさえ見なされる程だったそうです。ですから、この今日の場面でも、イエス様は悪霊追放をしていることにもなるのです。

そんな恐れる弟子たちに対して、イエス様は言われました。4章40節『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』。既に申し上げてまいりましたが、9回にも渡って、イエス様が悪霊を追い出し、神の国の到来の徴を現わされて来たわけです。弟子たちもその場に、立ち会って来たはずです。そんなことを踏まえてイエス様は『まだ信じないのか』と『まだ』を、強調されたのではないかと思うのです。先週の福音書の最後です。マルコ4章34節『たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された』とありました。これは弟子たちにして見れば、返って『考える』ことを阻害されてしまうのではないか。また部外者に対しても、変な特権意識を生じさせるだけではないのか、とも申し上げました。神の国の徴についての説明を受けて、頭では分かっているようでも、ただそれだけではないだろうか。

もう一度今日の場面を考えます。夕方になって向こう岸に渡ろうと、イエス様は提案します。向こう岸は、ゲラサ人という異邦人の地です。宣教するにしても、今でなくとも良いように思われます。と申しますのも、異邦人の地よりも、まだユダヤ人への宣教の段階とも思われるからです。それにこの時間から湖に漕ぎ出すことは、この湖の地形から考えて、必ず突風に出会うことは、明々白々だったからです。弟子たちの中には、元漁師もいました。ですから、そんなことも伝えられていたはずです。実際、突風に遭って、慌てる弟子たちを尻目に、眠っているイエス様に向かって、弟子たちは言いました。4章38節『先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか』。ここに言葉を補ってみます。『そもそも、先生のせいでこんな目に遭っているようなもんですよ。何をのうのうと眠っているんですか。無責任も甚だしい』。

こんな状況を考えますと、この時は、ゲラサ人の地へ行くことが、第一の目的ではなかった。敢えて弟子たちを突風に晒して、困難な状況に置くことが、目的だったのではないか。考えることを疎かにして、ただ頭で分かっているに過ぎないことは、神の国の徴に気づくことは出来ない。むしろ困難な状況に置かれたが故に、考えて気づかされる事がたくさんある。この時も、イエス様は舟に乗って、共にいて下さっている。何事も無ければ、共におられるイエス様が、当たり前過ぎて、意識することも無いかも知れない。しかし、突風に悩まされたからこそ、イエス様に思いを向けさせられた。この方は誰なんだと、真剣に考えさせられた。そうやってようやく、神の国の徴を、意識させられ始めて行ったのだと思うのです。そして、今日の弟子たちの状況は、今の自分には、決して他人ごとでは無いようにも示されます。分かっている気になっていても、実は何も分かっていない。何か事が起これば、相変わらず『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか』と、言われてしまう自分がいるからです。出来れば、困難な目には遭いたくない。でも、困難の中でも、必ず共にいて下さるイエス様だから、こんな自分にも目を留め続けて下さっている。そこに信じ、真剣に応えたいのです。

キリストの教会によって、主は共にいて下さるのだから、困難の中にあっても、むしろ神の国の徴に気づかせて下さい。悔い改めて、もう一度、立ち上がらせて下さい。

聖霊降臨後第6主日

『ただ信じなさい』マルコ5:21-43

今日の福音書は、二人の人間の病気が、イエス様によって癒されたという出来事が描かれています。一人はヤイロという名の会堂長の娘です。これは癒されたというよりも、死んでいたのに生き返ったということです。もう一人は、十二年間も出血が止まらなかった女性です。これまでもマルコ福音書は、この5章までに、いくつかのイエス様の癒し行為を、描いて来ております。それらの場合に、手を置いたり、あるいは手を取ったり、あるいは力強い言葉かけをしたりして、そこに癒し行為が起こされ、まずは奇跡を起こされるイエス様に、聖書は強調点を置くように記されているようです。しかしもちろん、強調点は、イエス様だけではありません。イエス様が奇跡を行う事が出来るのは、当たり前だと考えるならば、むしろ奇跡に立ち会う人間たちの状況を、一方で聖書は強調しているようにも思うからです。今日の場面は、そんなイエス様の癒し行為に立ち会う人間たちに、焦点を当てて聞いてみたいのです。

まず最初に、会堂長のヤイロが登場します。ここは癒された娘よりも、ヤイロの方に注目します。会堂長ということですが、これは言わば礼拝堂の管理を委ねられている人です。宗教生活の中心だった、会堂の運営にあたっていました。ですから、公的礼拝におけるプログラムの提案、聖書の解き明かしをする教師や聖書朗読者の選定、巡回説教者の調査など、礼拝式が伝統的な習慣に適して、執行されているか否かを監督する者でした。また会堂の造営物の監督権も持っていたということです。ちなみに、巡回説教者の調査と、今申し上げましたが、今日の福音書のすぐ後の6章1節以下は、来週の福音書の箇所にもなっておりますが、ここではイエス様がその巡回説教者に指名されて、会堂での礼拝で説教をされたことが描かれています。

このように、会堂長というのはユダヤ教団では、かなり重要な立場にあった人のようです。そんな人が今日の福音書では『イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください』と、記されています。この時点でも、イエス様の評判は、特に奇跡的な癒しを行うと言うことで、かなり広まっていたようです。一方で、それこそ会堂礼拝が行われる安息日に、してはいけない癒し行為を行った結果『ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた』(3:6)ということも記されてあります。ですから会堂長のヤイロが、イエス様にひれ伏してまで願い事をするというのは、立場上、大丈夫なのかなと思ってしまうのです。相当の覚悟を持って、願い出たのではないか。最早、なりふり構わず、批判も恐れず、愛する娘のために、本音でイエス様にぶつかって行ったのか。しかも彼が願い出た時は、大勢の群衆がイエス様を取り囲んでいたようです。ヤイロはそんな人々に、己の身を晒したのです。そして大勢に囲まれながらも、そんな一人の人間に、一方で、イエス様も向き合ってくれた。そこにはあたかも、イエス様と彼しかいないような感じです。イエス様が人間と向き合う時はいつでも、一対一なんだなと、考えさせられます。この後イエス様は、病気の女性との関りがあって、その間に、ヤイロの娘が死んだと言う知らせを受けます。ちなみにこの知らせは、イエス様には直接伝えられていないようです。死んでしまったので、もはやこの事態は自分たちで処理せざるを得ないと思ったのでしょう。しかしイエス様は、その知らせを、ちゃんと聞いて下さっていた。それは途中で、別の人間との関わりが産まれても、ヤイロたちのことはずっと、覚え続けて下さっていたと示されるのです。そしてその時のイエス様の言葉です。マルコ5章36節『恐れることはない。ただ信じなさい』。言わばヤイロはここで、彼の信仰を問われるわけです。この時のヤイロは恐らく『こんな所で、うだうだとしていたからじゃないか。もっと早く駆けつけて下されば、娘は助かったかもしれないじゃないか』そんなことも思ったことでしょう。時間の戦い、イエス様の都合と自分の都合とのせめぎ合いに、葛藤を覚えていたことでしょう。でも最終的には、イエス様の都合に合わせて行くしかないのでしょう。そこが問われていた。しかし一方で、イエス様にひれ伏して願い出た時点で、既に彼の信仰は、イエス様に認められていたと思うのです。ですから彼の信仰とは『なりふり構わず本音で、イエス様に向き合い、自分を退け、イエス様を優先させる』という、ここにあったのではないだろうか。

さてもう一人の、イエス様の癒し行為に関わった人間は、十二年間も出血が止まらない女性です。多くの医者にかかり、中には詐欺的振る舞いをする医者もいたのでしょうか、ひどく苦しめられたということです。ですから、全財産も使い果たすほどだった。それにしてもこの記述から、この女性は相当の財産を持っていたようにも想像させられます。もしこの女性が独り身だとしたら、男性に依存せざるを得なかった当時の社会では、財産を築くにしても、人に言えないような、特殊な職業ではなかったかとも想像させられます。とにかく病気は日に日に悪くなり、とうとうイエス様にすがらざるを得なかった。もっと早くイエス様の所に行けば良いのにとも思われます。でも、何故このような病気になったのか、職業もそうですし、人に言えない事も多々あったのかも知れません。だから医者にも、足もとを見られたのかも知れません。ああすれば良かった、こうすれば良かったと、色々な考えも浮かんでくるかも知れません。で も今日のこの時が、イエス様との出会いの相応しい時だったのだろう。とにかく律法によれば(レビ15:25-)、女性の出血は、宗教的に汚れているということで、その間は人との接触を禁じられていたわけです。だから今日の場面でも、堂々とイエス様の前にも出られない。それで大勢の群衆の中に埋もれるようにして、イエス様に近づいた。それは却って、彼女には都合の良い事になったのかも知れない。そしてマルコ5章28節『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思った。これは古来から、いわゆる奇跡行者の服や持ち物に触れれば、その奇跡に与ることが出来るというような、言い伝えがあったからでしょう。

これに対してこの場面でもイエス様は、大勢の群衆の中でも、この女性だけがこの場に居るかのように振る舞われるのです。この時の弟子たちとの会話に注目します。マルコ5章30-31節『・・群衆の中で振り返り、わたしの服に触れたのはだれか、と言われた。そこで、弟子たちは言った。群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、だれがわたしに触れたのか、とおっしゃるのですか』。そしてご自分で周りをキョロキョロして、服に触れた女性を捜すのです。この振る舞いも、もしかしたら『わざ』とかも知れません。イエス様なら、さっさとと女性を見つけて、声を掛けることだって出来るはずだと思うからです。そんなイエス様の姿を見た女性が、自ら名乗り出るように促すような、そんな所作ではなかったかと思うのです。そして案の定、女性は自ら名乗り出るのです。人と交わってはいけないのに、律法に反して、この場に来てしまった自分を、戒めるために捜しているのだろうと思った。観念するかのようにして『・・震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した』というのです。ここの『すべてをありのまま』というのも、考えさせられる言葉です。単に律法に違反してこの場にいる、と言うことだけではなくて、もっとそれ以前の、自分の職業やそれに纏わって、病気になりここに至ったと言う、12年以上の出来事の全てを、ありのままに話したんだろうと思うのです。それに対してイエス様は言われました。マルコ5章34節『娘よ、あなたの信仰があなたを救った』。ここでイエス様がおっしゃられる『あなたの信仰』とは何だろうか。それは『ありのままの自分をさらけ出して、イエス様に自分を明け渡す』というものではないだろうか。そしてそこに至るまでに、たとえどんなに年数がかかろうとも、イエス様はずっと待ち続けて下さって来られたのだろう。第一日課の哀歌3章31-33節を引用します。『主は決して、あなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない』。

 今日の二人の人間たちから、イエス様は必ず、その他大勢ではなく、私と言う一人の人間と、一対一で関わり続けて下っているお方だと示されます。そして私も、ここに至るまでに、どんなに時間がかかろうとも、待ち続けて下さっている主よあなたに、なりふり構わず本音で、ありのままの自分を差し出して、応えてまいります。