からし種 430号 2025年3月
顕現後第5主日
『わたしは罪深い者』ルカ5:1-11
今日の福音書はルカ5章からですが、その直ぐ前の所で、イエス様が大勢の病人を癒されたことが記されてあります。その後イエス様は、人里離れた所へ出て行かれました。その時に『群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた』ということです。それに対してイエス様は『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ』とおっしゃられて、ユダヤ地方にあるユダヤ教礼拝のための諸会堂に行かれ、宣教されたということです。ここで一つ考えさせられるのは、イエス様を自分たちの所に押し留めない、ということです。そうやって、イエス様を自分たちだけのものであるかのように振る舞って、ひたすらイエス様から望むものを、与えられ続けようとするのは、いわゆる信仰ではないと、イエス様はおっしゃられるようです。イエス様は出て行かれるお方です。ですから私たちも、イエス様に倣って、出て行くものなのかも知れません。
そして今日のルカ5章の場面になります。出て行かれるイエス様を、群衆が追いかけて行ったようです。それはまた、もう一度自分たちの所に、押し留めようとしたということでしょうか。それにしても『神の言葉を聞こうとして』周りに押し寄せて来たという。何か奇跡的な癒しや、いわゆるご利益を求めて来た、とは違うのでしょうか。でも、それらを得るために、神の言葉を聞きに来た、ということも考えられます。神の言葉を聞くとは、どういうことなのだろうか。それで何が得られるのだろうか。あるいは何が引き起こされるのだろうか。それは何か、特別な場所とか、特別な方法で起こされるのだろうか。例えば今日の場面では、神の言葉を語る先生のようなイエス様がいて、その先生に向かって、生徒のような群衆がいる。語る者がいて聞く者がいる。今日の礼拝の場面のようでもあります。
今日の福音書の場面も、似たような場面です。大勢の群衆が湖畔に押し寄せたので、イエス様はそんな群衆から少し離れて神の言葉を語るために、たまたまそこにいた、漁師のシモン・ペトロに、持ち舟に乗せてもらって『岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった』ということです。『そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた』。この小舟には、少なくとも漁師のペトロも乗っていたでしょう。ですから、彼も神の言葉を聞く一人になるでしょう。どの程度真剣に聞いていたかどうか、色々と想像させられます。ペトロを含めてそこにいた漁師たちは、夜通し漁をしたけれども、何も獲れなかったようです。疲れを覚えつつ、網を洗っていた。早く家に帰って寝たい。そんな状況の中での、イエス様との出会いでした。集中して、神の言葉を聞くような、体調ではなかったのではないか。でもここで一つ考えさせられるのは、神の言葉を聞く場所というのは、神殿とか会堂とか、いわゆる神聖な場所ばかりではない。むしろこの場面で言えば、漁師の日々の労働の場だということです。
そしてそんなペトロに向かって、イエス様は言いました。『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』。これに対してペトロは、夜通し漁をして何も取れなかったけれども『お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えました。この時のペトロの心の中は、どうだったでしょうか。『疲れているのに、しかも漁に関しては自分たちの方がプロだし、実際、何も取れなかったんだから、無駄なことをさせるなあ』と思ったでしょうか。それでも表面上はうまく取り繕って『お言葉ですから、網を降ろしてみましょう』と答えたのでしょうか。しかし一方で、そんな後ろ向きな受け留めでは無くて、イエス様の言葉を、真剣に聞いていたとするならば、積極的に言われた通りした、とも考えられます。しかしまたここで、一つ考えさせられます。イエス様は漁師たちに出会った時、不漁だったことはご存じだったと思うのです。ですからこの場面で『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と、漁師たちにいつものような漁をさせるのではなくて、湖や魚たちに向かって命令すれば、大量の魚を産み出す事は、出来たのではないか。実際、他の聖書の箇所には、イエス様が『だまれ、静まれ』と言って、嵐を静めたことが描かれています。そういうことであれば、そこで目立つのは、いつものようにイエス様なのでしょう。一方漁師たちは、傍観者のごとく、ただ奇跡の業を見物する者に過ぎない。実はそれでは、神の言葉を聞く意味が無くなってしまうのです。むしろここは漁師たちに何かが起こり、注目されることが本来の意味なのです。
確かにペトロに何かが起こされたのです。この時、イエス様の言われる通り網を降ろすと、大量の魚が取れました。それを見たペトロは、イエス様の足もとにひれ伏して、言いました。ルカ5章8節『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』。恐らくペトロは、イエス様のお言葉を信じつつも、それでも心のどこかで、イエス様の言葉を疑い、一方で、プロの漁師である自分を、誇っていたとも考えられます。しかしそんな自分が、打ち砕かれた。そして同時に、イエス様に対する畏敬の思いが、今度は真剣に、沸き立たせられた。イエス様は、神の国の福音を告げ知らせるために来られました。それは、自分の偉大さを誇示するためではない。福音に触れた者たちが、自分が何者であるのか、そこに気づかせるためなのです。ペトロは『わたしは罪深い者』だと気付かされたのです。
更にイエス様は、特別に信仰深い人間で、イエス様に従うにも相応しい、資格や人格を備えた人間では無くて、今ようやく自分が何者なのか気づかされた、しかも罪深い者を、これから『人間を取る漁師』という、イエス様の働きの中に招いておられるのです。神の言葉を聞くということは、あるいはその意味は、この場面にまで続いているのです。そしてそれは更に続くのです。漁師たちは『舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った』とあります。彼らも、イエス様を自分たちの中に留めるのではなく、自分たちが出て行くのです。人間を取る漁師という、人間が本当の、あるいは本来の人間として生かされるように、造り変えられた自分たちの生き様を、世に現わし証しする生き方に、生かされて行くのです。彼らは『舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った』ということですから、漁師を止めたのか、あるいは、そうではないのかも知れません。今日の第二日課1コリント15章1-11節は、まさに神の国の福音が語られている所です。そして1節には、次のように記されてあります。『兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません』。福音が、生活のよりどころであって、地位や名誉や財産は、生活の拠り所ではないというのです。漁師たちも、これから漁師に戻るとしても、よりどころはお金ではない。福音によって生かされる者に、更に変えられて行くのです。
キリストの教会によって、神の言葉に聞き続けます。自分が何者であるのか気づかされ、出て行きます。こんな私も神の国の働きのために用いられ、人間の本来の生き方を証し続けさせて下さい。
顕現後第6主日
『天には大きな報い』ルカ6:17-26
今日の福音書の始まりは17節からですが、直ぐ前の所では、十二人の弟子たちを選んで、使徒と名付けられたと記されてあります。いわゆる十二使徒と呼ばれる、イエス様に従う弟子団の中核メンバーです。そんなふうに申し上げますと、余程優秀な人たちで、いわゆるユダヤ教の神学を会得した者たちが、使徒として選ばれたんだ、と想像させられてしまいます。しかし聖書から示されるのは、そう言う事ではなかったようです。それぞれが、普通に職業を持って、例えば漁師たちもいましたが、普通に生活をしていた人たちだった。聖書に拠りますと、短気な人もいれば、あわてんぼうな人もいた。マザコンらしき人もいた。何かに優れていると言うよりも、色々な成育背景を持ち、様々な性格気質を持った、言わば多様性ある使徒たちだったようです。そんな使徒たちがこれから、イエス様の薫陶を受けながら、神の国の宣教の働きに用いられて行くわけです。宣教の対象は、それこそ多様性ある人々です。ですから、多様性を持った使徒たちが宣教するには、うってつけと言えるのでしょう。画一的では、特定の人間たちだけにしか、受け入れられないでしょう。それは不健全です。また、神の国には相応しくないと思うのです。そして十二という数字から、十二使徒とはキリストの教会を指し示すものだということです。
十二使徒が選ばれた後、イエス様は彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになったという。平らな所ならば、体が不自由な人も、どんな人でもイエス様の所に来ることが出来る。そんな配慮を感じさせられます。だから大勢の弟子とおびただしい民衆が、イエス様の所に来たと記されてあります。『大勢の弟子』とあります。先程の十二使徒とは、イエス様から特別な宣教の使命を託された人たちです。しかしこの場面での弟子というのは、言わば単に、イエス様を慕い続けて来た人たち、ということでしょうか。ですから、特別な使命にまでは、意識してはいなかったのでしょうか。とにかく、イエス様から教えを聞いたり、病気を癒していただいていたようです。そのためには、何とかしてイエス様に触れようとしていた。ですからここは、イエス様お一人で、大勢の人達に応対していたのかなと、想像してしまいます。
しかしここで、あの十二使徒たちは何をしていたんだろうか。もちろんまだ、イエス様からの特別な訓練が、始められたわけではない。むしろ、今からかも知れません。大勢の民衆の要望に、十二使徒たちもお手伝いするのだろうか。イエス様お一人で、大勢の民衆に応対しているお姿を見ていて、十二使徒は何を思うだろうか。いわゆる交通整理をしていた者もいたでしょうか。あるいはイエス様に近づくまでに、まだ待たなければならない人には、少し、話し相手になっていた者もいたでしょうか。あるいは、体の不自由な人の介護みたいなことを、していた者もいたのか。あるいは初めて出会った民衆同士の、つながりを援助していた者もいたでしょうか。あるいは大勢の人が集まっているので、喧嘩も起こされた可能性があります。その、仲裁役を買って出た者も、いたかも知れません。そんな中で、無意識にも、神の国の宣教とは、どういうことになるのか、図らずも考えさせられる機会となったのではないか。そういう意味でも、十二使徒への薫陶が、ここから始められたのかも知れません。
そこでイエス様は『目を上げ弟子たちを見て言われた』と言う。この『弟子たち』には、もちろん十二使徒たちも含まれていた。むしろ彼らにこそ、イエス様は伝えたかったのではないか。そして冒頭の言葉です。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである』。一方では『しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である』とおっしゃられています。これはもう、普通の価値観とは、全く違うようです。先程の民衆の中には、貧しい者も大勢いたことでしょう。また富んでいる者もいたかも知れません。このイエス様の言葉を、それぞれはどんなふうに聞くのでしょうか。自分は貧しいけれど、それでもいいんだと、慰められる人もいたでしょうか。自分は貧しくはないけれども、富んでいるとも言えない。だから、とりあえず不幸ではないと、自分で自分を納得させる者もいたか。とにかくこの矛盾する話は、一体何なんだと、もっと分かろうとするのか。それともばかばかしいと言って、離れて行くのか。
あの十二使徒たちも、ここで最初の薫陶を受けることになるのでは、と申し上げました。そう言えば、あの押し寄せて来た民衆の中で、使徒たちは、様々な対応を促されて、色々考えさせられただろう。イエス様に癒しを求めて来た人々と、接したり話したりしていると、それぞれ同じような境遇にある人たち同士が出会い、何かそこに一種の連帯感みたいなものも、立ち会う十二使徒たちは、感じさせられたのではないか。言葉や行動を通じて連帯が生まれ、民衆も、そんな自分たちの姿を見ることになった。そんな連帯の言葉かけと行動から、そこに幸いなものが、現わされて行くのではないか。その渦中の中に、イエス様による癒しがある。イエス様による、常識を覆すような言葉だけれども、十二使徒にとっては、理屈ではなく、体験的に、非常識にはならない言葉となって行くのではないか。貧しさや飢えや、悲しみや迫害から、むしろ理屈を超える人間の感覚が研ぎ澄まされて、人と人とをつなげ、何よりも神様との繋がりを、強いものにしてくれる。これが神の国なのではないか。
ここで改めて、今日のイエス様の逆説的とも思える言葉から、示されることがあります。私たちが求める幸いは、今すぐにここで実現するように考えます。そしてイエス様の言葉を、ややもすれば理想論のように、ずっと先のことであるかのように、棚上げしてしまいがちです。今ここで直ぐに平和が実現するために、力に拠る平和を唱える国の指導者たちがいます。あるいは今ここで直ぐに、安く電力が得られるように、相変わらず地下資源を掘り続けたり、危険も伴う原子力に頼り続けています。それで本当の永続的な平和が得られるでしょうか。安く便利な電力を得て、増々、快適・効率・便利だ、と幸いを思っても、それらが本当の永続的な、幸いになると言えるのでしょうか。今こそ、イエス様の言葉が、今ここで実現しているんだと、キリストの教会と私たちは、聞いて行くように促されているのではないか。
先週の木曜日に、幼稚園では各学年毎の発表会が行われました。合唱、合奏、寸劇、そして『詩の暗唱』も披露されました。それぞれのクラス担任の先生が、自分の感覚で選んだようです。年中さくら組で、披露された詩を紹介します。北原白秋の「ひとつのことば」です。
ひとつのことばで けんかして ひとつのことばで なかなおり
ひとつのことばで 頭がさがり ひとつのことばで 心がいたむ
ひとつのことばで 楽しく笑い ひとつのことばで 泣かされる
ひとつのことばは それぞれに ひとつの心をもっている
きれいなことばは きれいな心 やさしいことばは やさしい心
ひとつのことばを 大切に ひとつのことばを 美しく
言葉の持つ、理屈を超える力、そして今ここで実現される力のようなものが詠われています。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。ヨハネ福音書1章1節が思い起こされました。
顕現後第7主日
『罪人でも同じことを』ルカ6:27-38
今日の福音書の最初の箇所は『敵を愛しなさい』という小見出しが付けられてあります。そしてこの箇所にぶつかる毎に、いつも悩ましく思います。『敵を愛するなんて、そんなことは出来ないなあ』と開き直らざるを得ません。ただし、この箇所にぶつかる毎に、もう一つ考えさせられる箇所があります。今日の説教題にも引用している所です。自分を愛してくれる人や、良くしてくれる人を、愛したり、善くしたりしても、どんな恵みがあるのですか。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあるのですか。それらのことはみんな、罪人でさえも、同じようにしているではないか。確かにそうかも知れない。普段、軽蔑している罪人と、自分も同じことをしている、と言われてしまいますと、偉そうなことは言えないなあと思うのです。
そしてもう一つ、ここの言葉から考えさせられることがあります。結局、自分が気に入った人と、愛し、愛されているという関係です。いわゆる、仲良しクラブ的なものでしょうか。気に入らなくなったら、また逆に、気に入られなくなったら、その関係は断たれるのでしょう。そういうことだと、段々自分の周りから、人がいなくなってしまうのではないか。もちろん関係の回復ということもあるかも知れません。新たな、気に入った人との出会いも無くはない。それより何より、気に入るいらないという、人間的尺度ばかりでは、神様の出番も無くなるのでしょう。
毎週水曜日の聖書研究会では、今、ローマの信徒への手紙を、あるテキストを用いながら、皆で読み合わせています。先週と先々週は、ローマ13章1節以下の所でした。ここは『支配者への従順』という小見出しが付けられてあります。ここで私は、次のような話題提供をしました。第二次世界大戦の時の、当時のドイツルーテル教会は、この箇所をもって、支配者のナチスドイツに沈黙して、結果的に支持したことになってしまったと、評価されている。そんな中で、ボンヘッファーという一人のルーテル教会の牧師が、ヒトラー暗殺計画に加担したということで、処刑される。そのボンヘッファーの行動と決断は、キリスト者として、あるいはこのローマ13章の教えから、妥当かどうなのか、そして今の私たちも、同じような状況に直面した時、どんな決断と行動を取るのか、そんなことを語り合いました。その際に『ナチスに抵抗した聖職者ディートリッヒ・ボンヘッファー』という論文から、彼がどんな思いで、ヒトラーに対峙したのか、以下に要約して見ました。『彼は、ヒトラー暗殺計画に加担したとはいえ、敵を憎むのではなく、あくまでも敵を愛することを真剣に考えぬいた。そこには、苦悩と煩悩もあった。綺麗ごとで済むような状況では無かったからだ。彼にとってのキリスト教は、イエスそのものだった。イエス様はこの世は罪多き所だからいやだ、とは言わず、むしろそんなこの世の罪にまみれるようにして、この世に生きた。それがボンヘッファーのイエスというキリスト教なのだ。イエスは罪を負う必要が無いのに、敢えて罪を負って十字架にかけられた。人を殺せば罪を負うことになる。しかしそれは、自分のためではなく、他者のためなのだ。自分の命を守ることは、いくらでも出来た。ドイツを離れることもその一つだ。しかしこの深刻な事態の傍観者ではなく、当事者としての道を、ボンヘッファーは歩み切った。これが彼の、敵を愛する、という決断と行為なのだ』。
もう一つ、印象的なボンヘッファーの言葉を引用します。『神の前で、神と共に、ぼくたちは神なしに生きる』。特に最後の『ぼくたちは神なしに生きる』と言うのも、不思議な言葉です。私なりに解釈すれば、いわゆる神の正義を振りかざして、破れ多きこの世や人々を裁かない。それは、自分も破れを持つこの世の当事者だからだ。そんな意味に捉えます。図らずも今日の福音書の後半は『人を裁くな』と言う小見出しが付けられてあります。『人を裁くな。人を決めつけるな。赦しなさい。与えなさい』そんな言葉が続いています。敵というのは、ずっと敵のままだと考えがちだが、だとすれば永遠に愛せない。でも、そうでは無いのかも知れない。敵の敵は味方だ、という諺もあります。私にとっては敵でも、私の味方である、あの人にとっては、敵ではないこともある。そう考えますと『人を裁くな。人を決めつけるな』というのも、理想論で棚上げしようとは思わない。まずは極力、時間がかかっても、人を決めつけないようにして行こう、そんな思いに促されます。
先週19日のNHKラジオのある番組の中の、京都大学経営大学院客員教授の竹林一先生のお話が、大変印象的でした。先生は民間企業で活躍され、経営経済を教えておられます。お話のタイトルは『森に入ろうイノベーションの極意』というものでした。イノベーションというのは、革新とか、これまでにないものを産み出す、ということだそうです。先生が指導した、あるワークショップでのお話です。対象者は社会人と大学生、そして幼稚園児でした。どんなワークショップかと言いますと『モンスターがいる森を舞台にして、自由にオリジナルな物語を作ろう』ということで、それぞれに物語ってもらったそうです。まず幼稚園児は、次のような物語を作りました。『とにかく、どんなモンスターがいるのか、まずは興味津々で、森に入って行きました。モンスターを見て、石を投げたり、色々なアクションを取りましたが、どうにも出来ないと判断して、一旦退却します。そして作戦を練りました。どんな作戦かと言うと、モンスターの好きそうなお菓子を持って行こうとか、結局、モンスターとお友達になるようになって、モンスターを連れ帰りました』。
大学生や社会人はどうだったか。まず、森に入ろうとする人は、幼稚園児を10割とすれば、6割に減って、4割は入らなかったそうです。大人になればなる程、森には入ろうとせず、どうしたらリスクを回避できるかを考えて、そのために、例えばコンサルタントに相談するとか、業務委託をしようとか考える。とにかく、まずはワクワクして、どんなモンスターがいるのかという、実際に触れる行動が取れなくなっているというのです。とにかくモンスターは怖い、という決めつけが、その後の行動を縛るのです。よく、情報を得るために、アンテナを張ると言うけれども、それは自らは動かない、というものです。そうではなくて、自ら動いて、例えばレーザー光線のようなものを照射して、そこから起こったことを目の当たりにして、更にそこからどうするのかを考えて行く。これがイノベーションが起こされる、根本原理なのでは、というのが先生のお話でした。
幼稚園児には、決めつけが無くて、あるのはただただワクワク感。最後は相手の好きそうなものを持って行って、お友だちになってしまう。まさに最初から、モンスターなんていないんだなあと、思わされてしまいます。それは、自分の敵も、同じことなのかも知れません。
戸塚ルーテル教会には、イエス様によって、たくさんの子どもたちが集められています。裁かず、決めつけず、ワクワク感が一杯の子どもたちと共に『敵を愛しなさい』とのイエス様の言葉に、どっぷりと、与り続けてまいります。