からし種 438号 2025年11月
『取るに足りない僕』ルカ17:5-10
今日は10月の第一日曜日です。そして10月は、あのドイツ人修道士マルティン・ルターを通して、1517年10月31日に始まったと言われる、宗教改革を記念する月でもあります。宗教改革はいわゆる信仰の再点検、ということでもあります。そこで今月は改めて、信仰のことを考えて行きたいと思います。信仰とは、神様と人間との間で、正しい関係に保つもの、と言えるでしょう。そういう信仰に、量だとか、あるいは質だとか、そういうことが問題になるのか。そしてまた人間の側では、しなければならないことがあるのか。
そこで今日の福音書の箇所です。まず冒頭で、使徒と呼ばれる弟子たちが『わたしどもの信仰を増してください』と言いました。まさに、信仰の量を問題としています。それはそれとして、まずは彼らが何故、信仰を増し加えてと言ったのか。それは今日の福音書の箇所の、直ぐ前の所から類推出来ます。ルカ17章4節『一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、悔い改めます、と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい』と、イエス様から聞いたからでしょう。人を赦すことは、被った被害感情にもよりますが、なかなか出来ないものです。この時の弟子たちもそうだったのでしょうか。でも彼らが偉いと思うのは『主よ、そんなことは出来ませんよ』と、開き直らなかったことです。もっとも、イエスの弟子だという立場もあって、開き直りたくても、不適切だと考えたのでしょうか。
それに対してイエス様は『からし種一粒ほどの信仰』があればいい、とおっしゃられた。量を問うなら、ほんの微量で良いということでしょうか。それだけの信仰で、桑の木に命じて、その通りにさせられると言うのです。そこまで言われますと、今度は、質が問われるのではと、考えてしまいます。この場面のイエス様の言葉から、どっちに転んでも、量だの質だのと、あたふたとしてしまいます。そんな人間を、むしろ皮肉るかのような、今日の言葉でもあります。そうやって、信仰で何かを果たそうとする、そんな人間も浮き彫りになります。おかげ様で、信仰によって、七回までも人を赦す事が出来ました。ああ、信仰者としての面子が保てましたと満足するのか。信仰って、自分が何かを実現させるための、手段や道具なのか。そもそも『増し加えて下さい』と願っているのですから、信仰は与えられるもののはずです。それをあたかも、自分の持ち物のように扱っている。そこでイエス様は、次の話をされるのです。
主人と僕の話です。命じられた仕事を終えて帰って来た僕に対して、主人は『さあ来て、食事の席に着きなさい』とは言わない。むしろ今度は夕食の用意をして、主人のために給仕をしなさいと言う。その後に、自分の食事をしなさいと言う。そして結論は、自分に命じられたことをみな果たしたら『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言うだけ、と言う話です。ここの主人と僕との関係は、神様と人間との関係に譬えられます。冒頭で、信仰とは、神様と人間との間で、正しい関係に保つもの、と申し上げました。そしてその関係は、主人と僕のようだと言うのです。そしてその関係が正しく保たれるということは、神様の命令を受けた人間は、神様の思いがどこにあるのか、問い尋ね計って行くのです。そんな問い尋ねには、祈りであったり、悩みであったり、賛美であったりするでしょう。そして、神様の思いが示されたと決断して、言葉や行為を通して、神様の思いを表して行く。これが信仰の在り様です。ですから、表されたものはどこまでも神様の思いであって、人間の思いや業績でもない。人間が誇るべきことは何も無いから『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言う他は無いのです。
いわゆる具体的な信仰生活においては、神様の命令や思いは、様々に表されるのでしょう。がしかし、それらの原理原則なるものを、聖書は私たちに教えていてくれます。それは旧約聖書の創世記に示された、天地創造の時の神様の言葉です。創世記1章27-31節『神は御自分にかたどって人を創造された。・・男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。・・神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった』。『神は御自分にかたどって人を創造された』というのは、まさに神様と会話が出来る、特別な関係に人を創造された、ということです。だから人は神様に祈り、礼拝をし、神様の思いを問い尋ねることが出来るのです。そしてまた、地を従わせ、生き物をすべて支配せよという命令を、常に思い起こします。『支配』という言葉は、人間には誘惑的です。どのように支配するのか。そのためには、神様の思いをいつも問い尋ね続けなければなりません。その思いの原点は『見よ、それは極めて良かった』という所に示されます。神様が造られたものは全て、人間も含めて、極めて良かった。その神様の思いを忘れずに、今も起こされ続けている、あらゆる出来事を通して『見よ、それは極めて良かった』という所に、まずは立ち返るように命じられるのです。
冒頭で宗教改革に触れましたが、その改革者の一人の、マルティン・ルターに関する書物の『ルター入門』を、水曜日のキリスト教を学ぶ会で、用い始めました。出版されたばかりですので、5年前のコロナ禍の事を念頭に置いて、ルターの時代のペスト禍のことも取り上げられています。ルター著作の『ペスト書簡』と呼ばれるものから、ペストからの避難の問題と実践上の諸注意を語るルターの考えが、紹介されています。神様の思いを問い尋ねて、決断して表す信仰の在り様を、深く考えさせるものです。『まず第一に、避難の問題。町にペストで苦しんでいる人がいるのに、自分だけ逃れていいのか。ルターの答えは、どちらでもよい。ただその人の立場と情況による。その際、責任と隣人愛がポイントです。たとえば政治家や牧師や医者やエッセンシャルワーカーなど、どうしても責任のある人は留まる責任があろう。責任と隣人愛の問題なのです。第二に、実践上の諸注意。ルターは極めて理性的に、具体的に語っています。医療に頼り、助かるために必要なことは何でもしなさい。家や庭、通りを燻しなさい。不要不急の外出を避け、人に会うのも避けなさい。コロナ下でも通用する忠告です』。
キリストの教会によって、神様と人間との間に、正しい関係が保たれ続けてまいりますように、そしてこんな私も、取るに足りない僕であり続けさせて下さい。
聖霊降臨後第18主日
『あなたの信仰』ルカ17:11-19
先週も申し上げましたが、10月は、あのドイツ人修道士マルティン・ルターを通して、1517年10月31日に始まったと言われる、宗教改革を記念して、改めて、信仰のことを考えて行きます。信仰とは、神様と人間との間で、正しい関係に保つものと申し上げました。その際には、ややもすれば信仰のことを、量だの質だのと言って、正しい関係を保つための、道具か手段であるかのようにもしてしまいがちです。それでは信仰が、あたかも自分の力で勝ち取ったものになってしまいます。そうではなく、信仰はあくまでも与えられるものです。信仰によって、神様の思いを問い尋ねながら、示されたことを決断して、言葉や行為に現して行くのです。そこに人間の生き方が示されます。称賛されるのは、ただ神のみです。
さて今日の聖書からは、信仰とイエス様の存在とを、考えてみたいと思います。今日の福音書の箇所は、重い皮膚病を患う十人の人たちが、イエス様と出会う場面です。その十人のうち、九人はユダヤ人で、一人はサマリア人でした。サマリア人とは、元々ユダヤ人なのですが、紀元前6世紀に、ユダヤ北部のサマリア地方が、外国のアッシリア人に占領されたことがありました。その時から、ユダヤ人とアッシリア人との混血化も進んで、以来、南部の正統派ユダヤ人を自称する人たちからは、異教徒の血が混じった汚れた人たちだと差別されて、侮蔑を込めてサマリア人と呼ばれて来たわけです。とにかく十人は、その病の故に村人からは隔離され、村の外で共同生活を営んでいたようです。同病相憐れむ、という言葉がありますが、この一人のサマリア人は、どんな思いで過ごしていたでしょうか。隔離されながら、更に追い打ちをかけて、差別の中にいたことも想像させられます。しかし彼らの村の近くに来たイエス様を見て『わたしたちを憐れんでください』と、叫んだという事です。『わたしたち』ですから、サマリア人も含まれていたのでしょうか。いずれにしても、イエス様はどんな思いだったでしょうか。今日の大切なポイントになります。
十人の呼びかけに対してイエス様は『祭司たちのところに行って、体を見せなさい』と、唐突とも思えるように応えられました。ここで『祭司に見せる』ということですが、これは旧約聖書のレビ記13章に記されていることに由来します。ユダヤ教の祭司が、その人が病気になっているかどうかの、決定権を持っているのです。今日の場面でも、病気が治っているかどうか、祭司に見てもらいなさい、ということです。更にレビ記14章によれば、治ったという宣言の後も、治ったと言う徴として、見える形で証明する、清めの儀式も定められてありました。この時の十人は、既にイエス様の評判も聞いていたのかも知れません。ですから、イエス様に『憐れんで下さい』と叫んだのでしょう。そして、唐突ではありますが、そのイエス様が『祭司のところに行け』と言ったのです。きっと、既に祭司と話しをつけていたのではと、思ったのかも知れません。とにかく、藁をも掴むような思いにいる彼らでしたから、言われた通りにしたのでしょうか。
ただしここで、サマリア人の彼には、深い懸念もあったでしょう。行きなさいとイエス様に言われましたが、こんな自分も、一緒に行っていいのだろうか。行ったはいいけれど、結局『お前だけはだめなんだよ』と言われるかも知れない。ここでは祭司は、ユダヤ人の祭司を想定しているでしょう。サマリア人の自分は、そもそもだめではないか。実はサマリア人独自の、サマリア教団もありました。ですから、サマリア教団の祭司の所に、行かなければならないのだろうか。そんなもやもやとした心配を抱えながらも、サマリア人は他の九人と一緒に、とりあえずは走り出した。そして『彼らは、そこへ行く途中で清くされた』と聖書は記します。更に続けて聖書は、次のように記します。ルカ17章15-16節『その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった』。
どうでしょうか。とにかくここは『その中の一人は』に始まって、最後に『この人はサマリア人だった』と聖書は描きます。実にお芝居のような、劇的な描写だなあとも思います。サマリア人の感極まった喜びが、ひしひしと伝わって来るようです。しかもこの喜びは、この場面の一サマリア人だけのものではない。全ての人間たちもまた、きっと同じような喜びに包まれていると、伝えられるべき喜びだと、聖書は言うようです。十人は途中で癒された。サマリア人も同じように癒された。彼は、自分だけはのけものにされるかも知れないと、ずっと思っていた。ところがそうでは無かった。癒しの詳しい経緯は分からない。しかしそんなことよりも、とにかくイエス様は、こんな自分を差別しないで、目に留めていて下さった。それだけは確信出来る。目に見える癒し以上に、イエス様の自分に対する、目に見えない深い愛を感じて、彼は喜んだ。それが『大声で神を賛美し、イエスの足もとにひれ伏して感謝した』ということではないのか。他の九人も、もちろん、癒されたことを喜んだでしょう。しかし彼らには、大切な手続きが残されていた。祭司に見せて、お墨付きをもらって、更には癒されて清くなったことを証明する、清めの儀式という見えるしるしを示さなければならなかった。それから誰が癒してくれたのか、考えればいいのだろう。
『ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか』と、実に厳しいイエス様の言葉です。しかしこの言葉もまた、この九人だけに向けられた言葉ではない。今もこの聖書を読んでいる、私たちにも向けられる言葉のように聞くのです。目に見えるものに頼り、評価し、裁き合う現実を、少なからず私たちも、相変わらず抱え込んでいるのではないか。このサマリア人は、もちろん祭司の所に行ったって、まともに相手にされないことは分かっていた。だからそんなところに行くはずも無い。しかしそんなことよりも、こんな自分にも、神様の深い顧みがあることを確信させられた。イエス様がその確信を与えて下さったのだ。そのことが彼を、喜びと感謝へと導いて行ったのだ。
最後にイエス様は、その人に言われたという。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。サマリア人と言わずに『その人に言われた』というのに、注目させられます。この言葉も、この場面のサマリア人だけに、向けられているのではない。読者である今の、この私たちにも向けられているのではないか。そして『あなたの信仰があなたを救った』というのも、注目させられます。あなたが勝ち取った信仰によって、あなたは救われたのだと言うならば、それは信仰の量だの質だのと、相変わらず、信仰を、自分を高める手段や道具と化してしまうことになる。そうではなくて、この時のサマリア人の確信のように、およそ自分なんて、神様からは見捨てられているような者だと思っていたのに、こんな自分でも、むしろ最初からずっと、心に覚え続けられていたと示された。そんな神様の、目に見えない深い愛を受けて、喜んで感謝して促されて、これから立ち上がって行く。これが『あなたの信仰』なのだ。まさに『見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ』(cf.2コリント4:18)信仰なのです。そしてそこに、救いが現わされて行く。そして、あなたに起こされる救いは、完結していない。これからも起こされて行くものです。何故なら、この信仰による救いは、そんなあなたを通して、これからも周りの人たちにも、伝え現わされて行くものだからです。
キリストの教会によって、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、主イエス・キリストの信仰に生かされてまいります。
聖霊降臨後第19主日
『神は速やかに』ルカ18:1-8
1517年10月31日に、あのドイツ人修道士マルティン・ルターから始まった宗教改革を記念して、今月は信仰のことを考えて来ました。今日も同じように、聖書から信仰のことを聞いて行きます。そして来週26日には、宗教改革記念主日を迎えます。
信仰とは、神様と人間との間の、正しい関係を保つものだと申し上げて来ました。そして信仰は、あくまでも神様から与えられるものであり、人間が量だの質だのと評価は出来ない。人間が出来ることは、信仰によって、神様の思いを問い尋ね続ける。そして、示されたと決断した神様の思いを、言葉や行為に現して行くのです。
更に信仰とは、例えば体を洗ったり、修行を積んだり、いわゆる清めの儀式と呼ばれる、目に見える徴のようなものは求められない。見た目ではなく、目に見えない心の中が問われる。だから聖書は言います。2コリント4章18節『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます』。目に見えない心の中は、どうしようもなく、汚いものなのに、それでもこんな自分にも、イエス様だけは見捨てないで、顧み続けて下さっている。このイエス・キリストに示された、目に見えない愛に委ねて、生かされて行く。これをキリストの教会は、イエス・キリストの信仰と呼びます。
そして今日の福音書からは『気を落とさずに絶えず祈る』という言葉から、信仰が問われています。それを教えるために、イエス様はたとえを話されました。概観します。神も畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。そんな裁判官に、夫を失ったからと言って、無力な自分に、不法な行為で攻める相手を、法に従うように戒め、正当な権利を保証するように願ったのです。結局この女性が、しつこく願い出続けるので、彼女の主張が聞き入れられたという話です。この話から祈りについて、いくつか考えさせられます。
まず何かを祈る時に、その祈りが効かれるかどうか、可能性を計ってしまう。恐らく無理だろうけど、まあ効かれなくて元々、効かれれば儲けもの、そんな祈りにしていないか。何だか真剣味の無い祈りです。よほど無謀だと思えば、そんな祈りを神様にぶつけるのは、返って失礼になるでしょうか。そう思ったら、祈らないかも知れません。しかし、どうしても実現させてほしいと思ったら、可能性は脇に押しやられて、ひたすら祈るのでしょうか。であれば神様も、喜こんで聞いて下さるのかも知れません。
今日のたとえ話の中の裁判官は『神も畏れず、人を人とも思わない』人ですが、こんな人が、どうしたらまともに、人の訴えを聞くようになるのだろうか。そうは言っても、苦しんでいる人を見れば、どんな人間でも、同情心は湧き起るのではないか。ところがこの裁判官の、訴えを聴くことになった理由が、意外です。同情ではないのです。むしろ、うるさくて、うるさくて仕方ないから、応対する気になった、と言うのです。この事から示されるのは、周りの状況や人間の条件がどうであっても、とにかく祈りたい祈りは、必ず効かれるようになるということです。増して相手が神様なら、なおさらでしょう。
しかしここでもう一つ考えさせられるのは、先程は効かれる可能性でしたが、ここでは祈りが効かれるまでの、経過時間なのです。短時間であればあるほど、祈りがいもある。しかし、何年も先延ばし状態だと思えて来ますと、不安と疑いが生じてしまう。そこで今日の聖書は、説教題にもなっておりますが、ルカ18章8節『言っておくが、神は速やかに裁いてくださる』と言うのです。しかし実際には、この『速やかに』が問題です。神様がお決めになる『速やか』なのでしょう。しかし人間には待ち切れない『速やか』だったらどうしましょうか。どこまで行っても、祈りを挟んで、神様と人間とのせめぎ合いのようにも思ってしまうのです。
そこで今日の第一日課、創世記32章23-32節は、まさにそのせめぎ合いを、ビジュアル化したようです。物語の主人公はヤコブです。双子の兄弟の兄エサウを出し抜いて、父から受け継ぐべき長男としての祝福を、策略によって次男の自分に受け継ぐようにしてしまったのです。それで兄はヤコブの命を狙う事になり、ヤコブは逃亡生活に入るのです。時が経って、神様に示された兄との和解の道を、進もうとします。兄もそれに応える様子です。しかしヤコブは最後まで、祈りつつ不安に悩むのです。この川を渡れば、いよいよ兄のいる土地です。一族全員にこの川を渡らせ終わって、ヤコブ一人が残ります。そこに何者かがやって来て、ヤコブと夜明けまで格闘したと言うのです。最後はヤコブが勝ちます。同時に彼は傷を負います。悩み疑い不安に駆られつつの祈りが、神様との格闘なんだと聖書は言うようです。そしてその格闘に勝つように祈りが効かれ、進むべき道に押し出されて行く。しかし、痛みも伴うという。それは祈りの効かれ方も、自分の思う通りでなかった、ということもあるということだろう。それでも、祈りが効かれたと、受け入れさせられて行く。そこに痛みも伴うということなのだろう。そしてその痛みの意味も、いずれ知らされて行くのだろう。
先週13日の日経新聞朝刊の『春秋』というコラムの一部を引用します。『宮城県で一昨年2月に見つかった人の骨の一部が、東日本大震災で行方不明になった岩手県の山根捺星さん、当時6歳、と分かり、家族のもとに戻る(16日)という。震災からもう14年あまり。それでも何かの拍子に誰かの目に触れれば、帰るべき場所に帰る仕組みを社会が持っているのは、考えてみればすごいことではなかろうか。家族の談話に、ボランティアで清掃していた人、分別して骨を発見した人、調査をした警察への、感謝の言葉があった。様々な場面での気働きを想像する。日々の仕事や生活でやるべきことを丁寧にやったり、加えて少しの気遣いをしたり。それはする側にはちょっとしたことかもしれないが、してもらった側にとっては命拾いに近いようなことがあるものだ。落とし物などなくしてしまった大事なものが、戻って来た経験のある人なら、そのありがたみが分かるのではないか』。
『神は速やかに裁いてくださる』との言葉が、快適、効率、便利な世界にどっぷり漬かっている自分に臨み、更に『果たして地上に信仰を見だすだろうか』との言葉が、追い打ちをかけるようです。新聞記事の話から、信じて、委ねて、待つ信仰を示されますが、更にその信仰は、一人で祈り続けるものではなく、また一人で待ち続けるものでもないと示されます。
キリストの教会によって、社会の中の一員として、示されたことを丁寧に果たしながら、一人一人の祈りが、つなぎ留められて、必ず効かれて行くと信じ続けます。
宗教改革記念主日
『義とされる』ルカ18:9-14
今日の福音書の箇所は、イエス様のたとえ話です。たとえ話は、聞く者に対して、よく考えさせ、自分を吟味するように促すものです。今日の場面では、こんな人たちに聞いてほしい、と特定するように『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々』に、たとえを話されたということです。随分ひどい人間たちもいるもんだなあと、他人ごとのように考えてしまいます。これまでの聖書の話を聞く限りは、具体的に、あの人たちのことだろうなあ、とも考えてしまいます。たとえの中の登場人物は、ファリサイ派の人と、徴税人です。『ああ、やっぱり』と思いました。そのファリサイ派の人たちです。これまでにも、イエス様と対立して来た人たちです。対立の根本原因は、ファリサイ派の人たちが大切に思っている、神様からの律法を、イエス様がしばしば守らなかったからです。一切の仕事をしてはいけない安息日に、治療行為という仕事を、イエス様はしばしばして来ました。あるいは、律法を守らない、それ故に罪人だと、完全に決めつけられてしまっていた、徴税人や娼婦たちと、イエス様はしばしば食事を共にしていました。罪人と食事を共にすることも、律法違反でした。しかし、イエス様と対立しているというだけで、ややもすると、聖書を読む現代の私たちは、そんな人たちは極悪人だと、イメージしてしまいがちです。がしかし、実際は、そんなことはありません。変な先入観の無い、普通の人たちから見れば、いわゆる信仰熱心で、敬虔な人たちなのです。ただその熱心さが行き過ぎると、律法を守らない人たちに、厳しい目を向けてしまいがちになるのです。
まずファリサイ派の人の祈りが取り上げられています。まさにその敬虔さが表わされています。特に、週に二度断食し、全収入の十分の一を献げているなんて、私には到底出来ません。奪い取ってない、不正をしていない、姦通を犯してない、何て言うのも、いわゆる敬虔さの表れでしょう。ただこの点に関しては、屁理屈を言えば、捉え方によっては、完璧ではないと、言われてしまう余地もあるかも知れません。いずれにしてもここは『心の中』で祈っています。周りの人は何を祈っているのか分かりません。分かっているのは神様とイエス様だけなんでしょう。ただ自分もこれらの祈りを、声に出して祈れるかどうか、自信がありません。神様と言うよりも、周りの人たちに聞かれて、どう思われるかと考えると、怖さもあるからです。
しかしファリサイ派の人は、きっと自信があって、人に聞かれても何ともないのでしょう。神様にも、大いに聞いてもらいたいのでしょう。そこまで自分の敬虔さに自信があるのは、凄いことです。しかしこの自信が仇になることもあります。自分自身を時々再吟味することを、妨げるからです。このファリサイ派の人の祈りの中に、うぬぼれはないだろうか。他人を見下している所は無いだろうか。『わたしはほかの人たちのように』と、他人と自分を見比べています。『この徴税人のような者でもない』とまで言い切っています。『ほかの人たち』や『徴税人』よりは、自分は優れているのでしょう。だからと言って、絶対的に正しい自分だと言えるでしょうか。あくまでも比べればそうでしょうが、絶対ではない。『うぬぼれ』と言う言葉の意味を辞典で調べますと『実際以上に自分がすぐれていると思って、ひとりで得意になる』と出ていました。信仰の熱心や自信や敬虔が、本来見るべき本当の自分を、返って見させなくしているのではないか。ふとこんなことを思い出させられました。かつて、色々な教会が配布する、催し物を知らせるポスターやチラシに『私たちはキリスト教です。エホバの証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教とは関係ありません』という文言を見かけることがありました。この戸塚教会でも、同様にしたことがありました。信仰の熱心や自信や敬虔が、本来見るべき本当の自分を、見させなくしていると申し上げました。ファリサイ派の人は、目に見えない心の中での祈りをしました。がしかし、その中身を見ると、結局、目に見える他の人たちを見ているのです。
一方、徴税人は大きくは無いでしょうが、恐らく声に出して祈っていたと思われます。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』。声に出して祈るには、なかなか勇気のいる言葉です。聞いている人には『何を気取って、嘘までついるんだ』と、思われてしまうかも知れません。しかし徴税人は、そんな、目に見える他の人には、目もくれないようです。ひたすら目に見えない神様が、聞いてくれさえすればいいのです。自分の罪深さは、周りの人たちには、目に見えるようになっているので、見下しているのだろう。しかしそれよりも『周りの人たちの目には見えない、本当の自分を、神様どうぞ見て下さい。それで、神様が思うようにして下さい。神様がなさることなら、私はそれに喜んで従います』。そんな祈りの声にも聞こえて来るようです。
今日は1517年10月31日に、あのドイツ人修道士マルティン・ルターから始まった、宗教改革を記念する主日です。神の救いは、目に見える行いによるのではなく、目に見えない信仰によってだと、ルターは聖書から、改めて示されました。宗教改革は、目に見えないものに目を注ぐように、促される改革です。だからと言って、ルターは、目に見えるものを軽んじてはいません。何と言っても、聖書は目に見えるものです。教会も地上の教会、天上の教会と、区別して言うことがあります。この他にも重複しますが、対照的と思われるものを羅列します。神と人間。聖霊のバプテスマと水のバプテスマ。信仰と律法。信仰と理性。主観と客観。そして主イエス・キリストは、神であり同時に人。このように、目に見えないものと、目に見えるものとを、どちらにも、偏り過ぎないようにと、ルターの働きから示されます。ただし人間は、どうしても目に見えるものに傾きがちです。目に見えるものに傾き過ぎると、人間はどうなるのか。それが今日のイエス様の言葉に示されます。『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している』者になるのです。
改めて宗教改革を記念するとは、一人一人の生き様の自己吟味を、倦まず弛まず行って行くことだと示されます。そしてその自己吟味は、自分は今、目に見えるものと、見えないものとの、どちら側に、傾いているのだろうかと、心に留め続けることです。