からし種 443号 2026年4月

四旬節第3主日

『その水をください』ヨハネ4:5-42

今日は教会独自のカレンダーで、四旬節第3主日です。四旬節は悔い改めのための期節です。それは、神様に対して自分は、何者なのか、どういう姿勢で向き合っているのかいないのか、それを問うのです。ここで少し遡って、四旬節が始まった週の、変容主日の聖書箇所を振り返ります。2月15日でしたが、マタイ17章1-9節からでした。イエス様が山に登った時、そのお姿が真っ白に輝いて変容したという場面でした。弟子たちの中の、ペトロとヤコブとヨハネの三人が、この場面に立ち会いました。実は、この場面の直ぐ前の所のマタイ16章で、イエス様が何者なのか、御自分に対する人々の評判を、弟子たちに尋ねたことがありました。旧約聖書に出て来る、何人かの有名な預言者たちの名前が上がりました。そして今度は、弟子たちに向かって、あなたがたは私のことを何者だと言うのか、と問われて、ペトロが代表して『あなたはメシアです』と答えました。大正解です。ところがこの後、イエス様が、御自分の十字架の死と復活を、打ち明けました。それに対してペトロは『主よ、とんでもない。そんなことあってはなりません』と諫めました。それに対してイエス様は『あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』と正しました。

イエス様が何者なのか、それを考える時に『自分は何者なのか』それをまず問い質すように促されます。あの変容の場面で、イエス様の偉大さに、圧倒されたかのような三人の弟子たちでしたが、そんな彼らに向かって、イエス様は言われました。『人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない』。彼らがこの時直ぐに、今見たことを話すとしたら、どんなふうに話すだろうか。『イエス様はあの有名な、モーセとエリヤと話し込んでいたぞ。やっぱりイエス様は凄いお方だ。自分たちはそこに立ち会うことが出来たんだ。おれたちも、捨てたもんじゃないぞ』。相変わらず『神のことを思わず、人間のことを思っている』者たちのようです。イエス様が現わしたい事は、御自分の偉大さでは無い。イエス様に接する人間たちが、自分は何者なのかと、気づかされる事です。そういう自分を知らされた者たちが、十字架の死と復活のイエス様から、真のイエス様に出合うのです。

今日の福音書は、まさに自分を知らされ、真のイエス様に出合う、一人の人間が描かれています。サマリアの女です。旅に疲れたイエス様が、サマリアを通りかかって、正午ごろに井戸の傍に座っていた。そこにちょうどサマリアの女が水を汲みに来た。イエス様は『水をください』と頼みました。これに対して女は『ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリア人の私に水を頼むのか』と言ったのです。その理由も、聖書は記しています。歴史的には元々、同じユダヤ人でしたが、紀元前8c頃に、サマリアが異教徒のアッシリア人に占領され、混血化が進んだのです。それでエルされレムを中心とする、正統派と称するユダヤ人からは、サマリアに住む人々を、宗教的に汚れたユダヤ人として、サマリア人という蔑称で呼ぶようになったのです。以来、反目し続けて来たわけです。そんな民族的な壁が両者の間にはありました。更に、見知らぬ男女が昼日中に会話することは、当時の習慣ではあってはならないことでした。更に、水汲みは女性の仕事でしたが、普通は朝に汲みに来るものです。正午ごろに水を汲みに来る女性は、少なくとも人目をはばかるような生き方をしていたでしょうか。このように、二重三重にも、生まれるはずも無い会話が、両者の間で始められたのです。それは、純粋に水を求めたイエス様の行動から始まったのです。

拒否するかのような女に対して、イエス様は更に話しかけられました。『もしあなたが、私が何者なのか知っていれば、あなたの方から、私が与える生きた水を求めるだろう』。これは聞いた者には、全くちんぷんかんぷんでしょう。この言葉は、裏を返せば、次のように言われているようです。『あなたは、自分の事を何者だと思っているのか。それをまず吟味しなさい。そうすれば、私が何者なのか気づかされる』。しかし女は、依然として自分を吟味することなく、相手に問い続けるのです。あなたは水を汲むものがあるのか。あなたは先祖のヤコブより偉いのか。それに対してイエス様は『私が与えるは水を飲む者は、決して渇かない』とおっしゃられた。

この言葉から、何か女の琴線に触れたのでしょうか。自分の問題を垣間見始めたようなのです。『渇くことが無いように、またここに水を汲みに来なくともいいように、その水をください』。どこまでイエス様がおっしゃられたことを理解したのか分かりません。ただ分かるのは、ここに水を汲みに来たくない、ということです。何故か。労力も大変でしょうし、何よりも人目をはばかる自分も、見たくなかったのではないか。今まで相手のことばかり吟味して来たのに、自分を問い始めた、端緒を見るようなのです。

そこで、この女が自分を見つめ始めた好機と見たのでしょうか。いきなりとも思える話題を、イエス様は持ち出します。『あなたの夫をここに呼んで来なさい』。それに対してどう答えるかは、色々あるでしょう。しかし『私には夫はいない』と答えた。正式な事が問われれば、いないのは事実かも知れない。しかし正式でなければ、夫のような人はいるかも知れない。相変わらず、曖昧な取り繕いに走ることも出来ます。とにかく、思い巡らさせられたでしょう。しかしイエス様は『ありのままを言った』と、肯定的に受け留めてくれた。『夫はいない』という言葉の他に、語られなかったあらゆる思い巡らしを含めて『ありのまま』とおっしゃってくれたのです。

ここから女は、ありのままの自分を正直に見据えて、自分が何者なのか、示されて行ったのではないか。そして次の両者の対話が印象的です。ヨハネ4章25-26節『わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。それは、あなたと話しをしているこのわたしである』。女は、知識としてメシアを知っていた。しかし今や、自分が何者だと気づかされた時、メシアに出合うことになった。更にこの女から、自分の事をイエス様が全て言い当てたという証言を聞いて、町の多くのサマリア人がイエス様の事を信じたと記されてあります。それはあたかも、イエス様の奇跡的な業に人々が動かされたかのように聞こえます。しかしこの後、人々はイエス様に更に二日間、ここに留まるように頼み、イエス様の言葉を聞いて、多くの人々が信じたと記されてあります。この二日間は、それぞれが自分が何者であるのか、気づかされた二日間だったと想像されます。

自分が何者であるのか、それを問う作業には終わりがありません。先日の幼稚園園児礼拝で子どもたちから、改めて、自分が何者であるのか、思い知らされました。これからも、子どもたち、そして、周りの多くの人たちと共に、自分を問う作業を続けさせていただきます。

四旬節第4主日

『あの方は預言者』ヨハネ9:13-30

教会独自のカレンダーで四旬節は、特に悔い改めのためとして定められています。神様に対して自分は、何者なのか、どういう存在なのか、どんな姿勢で向き合っているのかいないのか、それらを問うのです。そしてまたイエス様は、いわゆる奇跡の業を行われています。それはイエス様が御自分を、何か偉大な者に見せるためではなく、奇跡を行なうイエス様に出合う人間たちが、自分は何者なのかと、気づかせるためです。今日の福音書も、まさにイエス様が奇跡の業を行っています。そしてそこに立ち会う人間たちも登場します。

まず、生まれつき目の見えない人です。それを見た弟子たちが、イエス様に尋ねました。『この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか』。これは当時のユダヤ社会には、いわゆる障害を負った人たちに対する偏見があったようです。罪という言葉から、神の裁きも念頭にあるようです。この目の不自由な人は、物乞いをしていたということですから、苦しい人生を強いられたでしょう。社会からは必要とされない、存在価値の無い者のようでした。本人も、人からの施しを当てにする、まるで自分が無いような生き方でした。ところがイエス様は、本人や両親の罪のせいではなく、神の業がこの人に現れるためだとおっしゃられました。冒頭でイエス様の奇跡の業は、それに立ち会った人間たちが、自分が何者なのか、気づかせるためだと申し上げました。立ち会うとは、当事者として、自分事としてその出来事に与るという意味です。傍観者のように、野次馬のように立ち会うのであれば、イエス様は凄いお方だなあ、で終わってしまう。『神の業がこの人に現れるため』とは、まさに当事者として、イエス様がなさる神の業に立ち会うのです。

その神の業とは、イエス様が唾で土をこねて、目の不自由な人の目に塗り、シロアムの池に行って洗いなさいと言われたので、その通りにしたら目が見えるようになったという、ここまでの事なのでしょうか。あるいは唾だの土だの、そういうものは抜きにして、とにかく目が見えるようになった、これが神の業なのでしょうか。しかし聖書を読み進めますと、ただ単に目が見えるようになった、ということだけに留まらないようです。

イエス様が目の不自由な人を、見えるようにされた日は、安息日でした。安息日は、一切の労働行為をしてはならない日です。医療行為も労働になります。目の治療行為をしたのであれば、それは律法違反で、罪に定められます。律法を厳しく守ろうとする、ユダヤ教の一派のファリサイ派の人の中には、次のように言う者もいました。ヨハネ9章16節『その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない』。更には、目が見えるようになった人を捕まえて『どうして見えるようになったのか。罪ある人間に、そんな奇跡的な事が出来るはずが無い。目が見えるようになったというのは嘘で、以前から見えていたんだろう』と、繰り返し詰問し、どうしてもイエス様がなさったことを認めようとしないのです。目が見えるようになった人の、次の言葉が印象的です。ヨハネ9章25節『あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです』。イエス様が罪人かどうかは分からないし、イエス様が何者なのかと言うよりも、事実として、この自分は見えるようになった、これが自分だと知らされた。そしてその事を、はばかることなく、自分の言葉で言い切ることが出来るようになった。

この一連の、目が見えるようになった人と、ファリサイ派の人たちとのやり取りが印象深いです。ファリサイ派の人たちは、とにかく聖書の知識を駆使して理性で、罪人にそんな奇跡的な事が出来るはずが無いの一点張りです。イエス様を評価の対象とするような傍観者なのです。ところが、目が見えるようになった人は、もはや知識や理性の問題では無い。とにかく事実として、自分の身に起こされた、この体験と感覚が全てなのです。神の業がまさに自分を通して働いたのです。こんな自分であっても、神様が働かれる器として用いられた。この確信と喜びが、誰をはばかることなく、自分の身に起こったことを、大胆に告白する事が出来るようになった。ここまでが、あの時イエス様がおっしゃられた、現れるべき神の業なのではないか。

イエス様の奇跡の業に立ち会うのは、傍観者である限り、その業は単なる知識や理性で処理されてしまいがちです。ですから評価として、肯定も否定もされ得るだろう。そうやって、本当のイエス様には、いつまで経っても、出会うことは無いのではないか。ところが、当事者のように立ち会う時、奇跡の業は、私にとっては誰も否定し得ない、正真正銘の神の業になるのです。そんな彼が『お前はあの人をどう思うか』と問われて『あの方は預言者です』と答えています。預言者とは、神の言葉を届ける者です。しかも、この私の中に、神の言葉が働くように、届けてくれるのです。目が見えるようになったその人は、どんな神の言葉が、その人の中に働いたのか。『あなたは神の業が働く、大切な器です。必要な人間です』と聞くのではないか。

さて現代の私たちは、イエス様の奇跡的な業に、直接立ち会うことは出来ません。どうすれば良いのでしょうか。それは聖書を通して、立ち会うのではないか。しかも聖書を知識や理性で処理しようとすると、分からない事ばかりになるのかも知れません。ところが聖書の中の誰かに、当事者として自分を置いて見ると、今まで見えなかったことが見えて来るのではないか。関東学院から毎月送られてくる機関紙『いんまぬえる』の、3月号では卒業特集号として、その巻頭言で、宗教主任の先生が、次のようなことを書かれていました。一部を引用します。『これは自分のために書かれている本ですか?中学から入学して六年間、毎日礼拝で聖書を読み、授業でも聖書について学んできた生徒の一人がつぶやきました。卒業を目前にして創世記を読んでみたら、自分のことをよく理解したうえでこれからの自分に必要な言葉が語られているように感じたというのです。・・入学当初の様子を思い出すと、授業の度に、先生、聖書に書いてあることって本当ですか、先生は聖書を丸ごと信じているんですか、と何度も何度も質問された状況がよみがえります。宗教なんて自分には必要ないし、聖書はよくわからないという気持ちと、何か気になってしまうという好奇心とが混ざり合っていることを感じました。・・あなたのために書かれた本、聖書の魅力に気づいてしまったみなさん。卒業しても神の言葉は皆さんと共にあることを心に留めておいてください』。

キリストの教会によって、聖書を通して、これからもまだ気づかされていない自分に、出合ってまいります。

四旬節第5主日

『神の栄光のため』ヨハネ11:1-16

神様に対して自分は、何者なのか、どういう存在なのか、どんな姿勢で向き合っているのかいないのか、それらを問い質されながら、悔い改めのために定められた、この四旬節を過ごして来ております。先週は、生れつき目の不自由な人が、イエス様の業によって、目が見えるようになった出来事を、聖書から聞きました。その出来事は、一切の労働行為をしてはいけない日と定められていた、安息日に起こされました。ここから、波紋が起こされました。神様の律法に忠実であろうとして来た、ユダヤ教の一教派であるファリサイ派の人たちは、その律法知識や理性によって、目が見えるようにされた、言わば奇跡の業を認めようとはしませんでした。安息日を守らない、罪を犯すようなイエス様が、そんな神業のようなことを、行えるはずが無いと断罪したのです。しかし目が見えるようになった人は、事実として自分の中に、神様の業が働いて、目が見えるようになったと主張したのです。知識と理性で、イエス様を傍観者のように、評価の対象とした結果、イエス様が何者であるのか、見失ってしまうのです。同時に自分が何者であるのか、それも分からないままになってしまうのです。ところが目を癒された人は、イエス様の業が自分の中に働く、まさに当事者になって、イエス様が働いて下さる器として用いられたので、イエス様が何者なのか気づかされたのです。そしてイエス様の奇跡の業は、不特定多数の人に分からなくてもよい。むしろ当事者になる、その人だけにとっての、奇跡の業になるとしても、その方を望まれるのです。そして繰り返しますが、その人が本当のイエス様を知らされ、自分も何者なのか、気づかされて行くのです。

さて現代の私たちが、イエス様が何者であるのか、そして自分が何者であるのか、気づかされるために、イエス様の奇跡の業の当事者になるには、どうすれば良いのだろうか。それは聖書を通して果たされるのではないか。聖書の中に登場する人々の一人に、自分を置き換えて、イエス様の働きの当事者にしていただくことではないのか。今日の福音書は、病気のラザロの死を巡って、色々な人間たちが立ち会い、イエス様とのやり取りが描かれています。自分はどの人物に置き換えるのだろうか。とにかくこの場面は、人間の死に直面した周りの人間たち全員が、死を恐れ、悲しみ、否定的な反応を示しているのです。それは読者であるこの自分も、全く同じ反応をするでしょう。いつかは必ず死ぬはずの者なのに、分かってはいるけれど、今はそんなことは考えられないのです。見て見ないふりなのです。しかしイエス様は違うのです。ラザロは眠っているだけなので、起こしに行こうと言うのです。死ぬことが、何かそれ程重大な事ではないかのような、死ぬことが楽観的に聞こえるのです。眠っていると聞いた弟子たちは『眠っているなら、助かるはずだ』と言いました。どこまで本気で『眠っている』と、弟子たちは思ったかどうか分かりません。いい加減に口裏を合わせただけかも知れません。そんな弟子たちを捉えてイエス様は、敢えて続けて『ラザロは死んだのだ』と強調されるのです。更には、ラザロの死の際に、イエス様が立ち会わなかったのは、弟子たちにとって良かったとまで言われた。それは、弟子たちが信じるようになるためであり、だから今からラザロのところへ行こう、とおっしゃられた。

弟子たちとイエス様とのやり取りを見ると改めて、大きなズレを感じさせられます。弟子たちは、いずれは死ぬはずの者なのに、それでも死ぬことはあってはならない、悲しむべきことだとしている。それに対してイエス様は、死ぬことは眠っているようなものだと、楽観的なのです。それから、ラザロの所に行って、ラザロを生き返らすから、そこに立ち会うあなた方が、イエス様を信じるようになる。だから良い事だと言います。しかしここでイエス様が言う『信じる』というのは、イエス様の何を信じるのか。あるいはイエス様を何者だとするのか。そこにもズレを感じるのです。相変わらず、死人を生き返らせた、奇跡行者のようだとするのか。それとも、人々が考える死ではない死を指し示す方だと言うのか。

ここで弟子の一人のトマスの言葉が興味深いです。ヨハネ11章16節『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』。何を思ってトマスは、こんな事を言ったのか。単に『あなたがたにとってよかった。さあ、彼のところへ行こう』というイエス様の言葉に、分かったふりをして、本当はそんな気も無いのに『行って、一緒に死のうではないか』と言ったのか。普通なら、本気では言えない言葉です。しかしイエス様が考える死は、まさに『行って、一緒に死のうではないか』と、本気で喜んで言えるものではないのか。ヨハネ福音書はこのトマスの言葉から、イエス様が言う死の意味を、暗示するかのようです。そうすると、今日の福音書の中で、自分はどの人物に置き換えるのか。もしトマスが、本気で『行って、一緒に死のうではないか』と言ったのならば、イエス様の業の、当事者にしていただけるかも知れない。死ぬことの意味が示されるかも知れない。そう言えば、実際に死んで、当事者になった人間がいる。ラザロです。

ラザロの発言は、聖書には何も記されておりません。ただ静かに、イエス様の為さる業に、身を委ねているだけのようです。そしてその存在によって、多くの人がイエス様を信じたり、一方で、殺意を抱く人間たちもいたと聖書は記しております。イエス様の十字架への道の、そのきっかけは、ラザロの出来事から始まったのです。ラザロの死は死で終わらない、神の栄光のためと聖書は言うのです。とするならば、やっぱりここは、ラザロに自分を置き換えるように促されます。こうしてこんな自分の死も、神の栄光のためだと告白出来るようにしていただけるのではないか。

宗教改革者のマルティン・ルターが『死ぬこと』について、こんな言葉を残しています。『死はこの世と、この世のすべての営みからの別離である。・・こうして地上のあらゆる人々に別れを告げたあとは、ただ神のみを目あてとしなければならない。死の道は神へと通じている』。それからルターは6人の子どもを与えられましたが、長女は生まれて8カ月で死に、次女は13歳で死にました。その次女のマグダレーナが死んだ時の言葉です。『愛するレニッヘン、おまえはよみがえって、星や太陽のように輝くだろう。おまえは安らかにしているし、万事申し分ない、ということを知っていながら、しかも実に悲しいなんてなんと不思議なことだろう』。

死を悲しむことが不思議だと、こんな私もまずは告白出来るように、キリストの教会によって、死ぬことの本当の当事者にさせていただき、自分とイエス様を知るようにしていただきます。

受難主日

『大勢の婦人たちが』マタイ27:45-56

今日から教会独自のカレンダーでは受難週に入ります。そして特に今日は受難主日として、イエス様の死を聖書から見て行きます。死は人間にとっては、最大の脅威です。人間誰しも、必ず迎えるはずの死です。なのに、気が付けば、あたかも無いもののように、過ごしてしまいがちです。見て見ないふりをしている、とも言えるでしょうか。それだけ、出来ればあってほしくないこと、起こされれば、本人はともかく、周りの人間たちは、深い悲嘆に晒されます。今日の福音書でも、昼間なのに、まず全地が暗くなり、3時頃まで続いたということです。絶望的な状況を予表するかのようです。ただイエス様が死に直面して『神様、何でわたしをお見捨てになるのですか』と、おっしゃられたということです。それを大声で叫んだというのです。絶望的ですが、一方で、神様に向かって大声で、そんな風に言えるのは、何かその絶望を振り払うかのようにも感じさせられるのです。

そして、イエス様が息を引き取られた時にも『大声で叫んだ』というのです。『神様、何とかしてくれよ』でしょうか。それに釣られるように『神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った』ということです。何とも不思議な出来事です。が、むしろ、何か人間的なあきらめや絶望感を、逆に払拭させるかのような、躍動感のようなものも伝わって来るようなのです。『落ち込むな。絶望じゃないよ。もはや、あなたがたが縛られている、常識や価値観から解放されるんだよ』そんなふうにも、イエス様の大声から、伝わって来るようなのです。

それから『百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、本当に、この人は神の子だった』と、聖書は記しているのです。『いろいろな出来事』というのは、イエス様の二度までの大声や、神殿の垂れ幕の事などだと思われます。それらは恐怖の出来事なのですが、それでも彼らが『本当に、この人は神の子だった』と言ったのも、何か絶望の中の、希望の光にも見えるようなのです。百人隊長は、神の子と自称する、ローマ皇帝に仕える者です。ですから、皇帝以外の者を神の子だなんて、告白するはずの無い者です。ましてや十字架に掛けられた、ユダヤ人のイエス様に向けて告白しているのです。それは、万が一にもあり得ない事です。それが引き起こされたと、聖書は言うのです。

更にはこの十字架の光景を『大勢の婦人たちが遠くから見守っていた』と聖書は記します。恐らく、イエス様の弟子たちを始め、仲間の男性たちは、絶望してどこかに逃げ去ってしまったのでしょうか。ところが、遠くからでも見守っていたのは、大勢の婦人たち。彼女らの姿には、やはり絶望の中の希望の光を暗示するようなのです。そして遠くから見守っていた婦人たちは、復活の日に、イエス様が葬られた墓を見に行ったと、聖書は記しています。復活が遠くの人間を、近くに寄せ集めるのです。ここにも何か、絶望から希望への転換を見させられるのです。

今日の礼拝では、これから聖餐式が執り行われます。聖餐式とは、イエス様が十字架に掛けられる前に、いわゆる『最期の晩餐』と呼ばれる食事を、弟子たち共にした、その食事に由来するものです。その食事では、パンとブドウ酒も頂きました。その際にイエス様が言われた言葉が、今日の聖餐式の中でも唱えられます。パンとブドウ酒を頂く人間たちの中に、イエス様が共におられて、養い働いて下さることを、信仰において確信させられるのです。その言葉はお手元の式文にもある通り、次のように唱えます。まずパンを取って言われました。『取って、食べなさい。これは、あなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい』。ぶどう酒も指して言われました。『取って、飲みなさい。これは、罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々ために流す、私の血における、新しい契約である。私の記念のため、これを行いなさい』。

この聖餐式の中のイエス様の言葉を巡って、宗教改革の頃に、様々な解釈が生まれました。その宗教改革者の一人のマルティン・ルターは、次のような解釈をしました。ルター研究所所長の、江口再起先生の著書『ルター入門』から引用します。『ルターはあくまでもキリストの言葉、これは私の体である、の、~である、にこだわりました。聖餐のパンは、キリストの体の、しるし、ではなく、現実にキリストの体そのものなのです。しかし同時にパンそのものでもあるのです。・・ここで大事なのは、ルターの現実(世界)の見方なのです。現実とは何でしょうか。パン(物)がある、これが我々の現実の世界です。しかし、その奥に(あるいはその基底に)神の恵みがある。この新しい二重の見方、これがルターの現実(世界)の捉え方です。・・それゆえパンはパンだが同時にキリストの体である、とルターは主張したのです』。

今日の第二日課は、フィリピ2章5節以下の、いわゆるキリスト賛歌と呼ばれて来た所からです。その2章6-8節を引用します。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』。江口先生の言葉を借りれば『キリストは人間と同じ者だが同時に神と等しい者である』。

私たちの毎日の現実生活は、嬉しいことや楽しいこともありますし、また、苦しいことや悲しいこともあります。そんな様々な現実を、社会の当事者として引き受けて、見据えながら、一方で、その向こうに示される、主イエス・キリストの神様の恵みを信じて、この世の務めを果たし続けて行こうではありませんか。