からし種 445号 2026年6月

復活節第5主日

『業そのものによって』ヨハネ14:1-14

今日のヨハネ福音書の箇所は、イエス様が十字架に掛けられる直前に、弟子たちに向けて語られた、いわゆる告別説教と呼ばれる所です。ヨハネ13章33節では、十字架の死を暗示するものですが『私はいなくなるけれども、あなたがたは私の行く所に来ることは出来ない』と、弟子たちに語られました。それを受けて弟子たちは、どこへ行くのかと不安になり、かわるがわる問い尋ねるわけです。この時点では、十字架の死も、ましてや復活の事も、弟子たちには全く理解出来ていないことでした。ただ弟子たちにして見れば、この方こそ自分たちユダヤ人を、ローマの圧政から解放してくれる、力強いメシアとして期待して、従って来たわけです。ところがどうも、いなくなるみたいだ。そうしたら、自分たちはどうすればいいんだ。こんな人に従って来て、失敗だったのか。早々に見切りをつけた方が良いのか。色々な不安や疑問が沸き起こって来てしまった。頼るべきお方に不信感を抱いてしまうのは、現代の私たちにも、あり得る事でしょう。この宗教を信じて来たけれども、どうなんだろうか。これから信じたいのだが、間違ったらどうしようか、とか。

イエス様が十字架に死なれたのは紀元30年頃でした。それから20年位して、新約聖書の中に含まれる、各書物が書かれ始めました。最終的に新約聖書と呼ばれる、27巻の聖典書物に定まったのは、紀元397年でした。福音書はイエス様の言葉と、十字架の死に至るまでの生涯が記されているものです。大体、70年から100年頃までに、四つの福音書が書かれました。マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネです。それぞれの福音書は教会を通して、生前のイエス様の活動や言葉を、思い起こしながら書かれて行きました。そして、そうせざるを得ない動機がありました。

ヨハネ福音書の成立年代は、紀元100年位と言われます。いわゆるユダヤ教とキリスト教とが、はっきりと別の宗教として、分かれて行った時期と重なります。この際に、よくあることですが、ユダヤ教本体からは、異端として退けられ、迫害も生まれて行ったようです。一方でキリスト教会側からすれば、自分たちの信仰の正当性を、もう一度問われることになります。そこでヨハネの教会は、改めてイエス・キリストとは何者なのか。そんな問いと再確認が、書かれる動機になって、イエス様の言葉や業を思い起こし、福音書が与えられて行きました。

今日の福音書の箇所は、まさにそんなヨハネの教会の状況をも、想像させられるような、イエス様の言葉が語られて行くようです。異端ゆえに迫害を受ける中で、教会を離れて行こうとする人たちも、多く出て来たのでしょうか。そんな人たちにも向けられるような言葉です。『心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい』。更には、父なる神様の所には、住む所がたくさんある。あなたがたのために、その場所を用意したら戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える、と言います。この『住む所』というのは、今日の箇所の後の所、ヨハネ15章4節『わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている』という『つながっている』という言葉と、語根が同じギリシア語原文になります。『つながっている所』とも訳せます。ですからここでも『わたしを離れず、つながっていなさい』と、イエス様は強調されるようです。また『わたしは道、真理、命であり、わたしを通して、父なる神を知る』と言われます。更には『わたしと父なる神様とは一体だ』とまでおっしゃられています。これはもう、自分は異端の神様を信じて来てしまったのではないかと、不安と疑問に満ちた信者たちにとっては、大きな拠り所になる言葉です。

そして『わたしが言うのを信じないなら、業そのものによって信じなさい。・・わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる』と言います。ここでイエス様が言われる業とは、復活と罪の赦しと教会の誕生だと示されます。それはヨハネ20章19節以下で、復活されたイエス様が語られています。『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。・・だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』。繰り返しますがヨハネの教会は、自分たちがメシアと信じるイエス・キリストに、疑いを生じさせられ、動揺が走った。しかしもう一度、イエス様の言葉と行いを思い起こしながら、信仰の揺らぎを克服させられて行った。そしてまた、教会の存在意義にも疑問が生じた時に、それを示す教会の使命にも、改めて立ち返らせられた。教会は罪が赦される喜びも、赦されないまま残る苦しみも、身に沁みて分かる群れです。教会が存在する意義と使命とは、人々に寄り添って、共感して、本来の人間の生き方へと、祈りつつ連帯して、共に導かれて行くことです。迫害のさ中に、力には力で、との思いも湧き起りますが、そんな戦いによるな、という声も聞かされたようです。ここにキリストの業、教会の業、そして大きな業が込められているように示されます。そして、一人ではないのです。でも時間も要するでしょう。

先日、ある方からこんなお話しを聞きました。『自分の性格として、途中で支障が無いように、事前にしっかりと準備を整えてから、物事を前に進めるようにしています。洗礼の事も同じで、受洗してから疑問が生じて、引き返すことのないように、信仰の問題や疑問を、事前に解決しておきたいと思ってしまうのです。なかなか受洗に至りません』。この言葉を振り返りながら、今日私はこんなふうに思っています。石橋をたたいて橋を渡る、という諺がある通り、事前準備は大切です。特に、一人で進む場合には、必要なことでしょう。しかし教会は一人ではありません。ヨハネの教会も、問題や試練に晒されたとき、もう一度イエス様の言葉と行いに、大勢で立ち返りながら、福音書が与えられて行きました。こうして福音書の成り立ちにも思いを寄せますと、次のように示されます。失敗や問題を起こさないようにと、聖書を読むのではなく、問題が起こされた時にどうするのかと、聖書に聞くように促されるのです。

たまたま先週、幼稚園でイースター献金を募り、年々金額が減少していることが、話題になりました。色々な事情もありますが、個人的には、献金の意味も、しっかりと伝え切れて来なかったなあと、反省させられています。献金は災害の時だけのようにも思われがちです。でも教会では、毎週行われます。イースターのような行事にも、行われています。人は独りで生きるものではなく、いつでも連帯して生きている者であることを、献金を通しても証しされるものだからです。献金は連帯の生きた徴になるのです。ここにも教会の意義と使命が示されます。そして今日の福音書の最後に『わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう』と、イエス様は言われます。誰のための願いであり祈りなのか。自分のための祈りもあるかも知れません。しかしもっと大きな業、他者のために、社会のための執り成しの祈りを、教会によって、大勢でするよう促されます。

これからも、疑問が生まれても、試練に晒されても、キリストの教会によって、大勢で聖書の言葉に立ち返りながら、次の第一歩を示されて行きます。

聖霊降臨日

『生きた水』ヨハネ7:37-39

教会独自のカレンダーがありますが、今日は聖霊降臨日と呼ばれる日曜日です。今日の使徒言行録2章1節以下に描かれている事です。冒頭『五旬祭の日が来て』とあります。これは、過越祭という、もう一つの祭りから数えて、五十日目の祭り、という意味です。五旬祭も過越祭も、ユダヤ三大祭りの中の二つです。この過越祭は、古代ユダヤ人が、移住先のエジプトで、奴隷状態にあった時に、神様がモーセと言う指導者を立てて、エジプト脱出させた時の事に由来します。特に、いよいよ脱出すると言う時に、食べる食事の事を細かく、神様は命じます。屠った羊の血を家の鴨居に塗る。羊の肉は焼いて食べつくす。パンは酵母を入れない等。これを守って、災いが過ぎ越されて、首尾よく脱出出来たのです。これらの神様の働きを記念する祭りです。イエス様はこの過越祭の最中に、十字架に掛けられました。その直前には、弟子たちと一緒に、過越祭の記念の食事を取りました。これが、いわゆる最後の晩餐と言われるものです。その際にイエス様は、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。『取って、食べなさい。これは、あなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい』。また杯をも同じようにして言われました。『取って、飲みなさい。これは、罪のゆるしのため、あなたがたと、多くの人々のために流す、私の血における、新しい契約である。私の記念のため、これを行いなさい』。このイエス様の言葉は、今や日曜日の礼拝の中で、聖餐式の言葉として、唱えられ続けています。

五旬祭は、先程触れました、モーセに引き入れられてエジプトを脱出したユダヤの民が、今のパレスチナという土地に行く途中にあるシナイ山で、いわゆる十戒という律法を与えられたことを、感謝して定められたものです。その際に、新しい土地に入って、律法を守って、神様と共に生きるように、神様との契約が立てられました。これがいわゆる旧約と呼ばれます。ところがユダヤの民は、律法を守れずに、契約を破り続けました。そんな人間たちのために、旧約に対して、新約が立てられるのです。そのことを、前もって約束している、神様の言葉があります。旧約聖書のエレミヤ31章31-34節『見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。・・しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。・・わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない』。旧約の律法は石の板に書かれていました。では『わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す』という新約は、どのように果たされるのだろうか。

キリスト教会の草創期に活躍した伝道者のパウロが、ローマの信徒への手紙2章の中で、改めて書いています。律法の一つとして、割礼を取り上げての、彼の言葉です。割礼を受けて、それを徴として、ユダヤ人になることが、当時は信仰者として認められていた。パウロは言います。27-29節『・・あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです』。今日の聖霊降臨日は、まさに聖なる霊によって、人々の心に律法が書き記された日になるのです。そして新約になります。

ユダヤの三大祭りの三つ目が、今日のヨハネ福音書の場面になります。『祭りが最も盛大に祝われる終わりの日』とあります。この祭りが仮庵祭です。エジプトを脱出したユダヤの民が、仮小屋を建てては、荒れ野を彷徨い旅した苦しみと神様の導きを、記念するものでした。祭りの終わりの日には、雨の恵みを求める祈りが行われ、池から水を汲んで、神殿の祭壇に水を灌ぐのです。この水の行事の起源となる出来事が、旧約聖書の出エ17章1-7節に記されてあります。荒れ野で水が無いというので、民は喉が渇いたと不平を言います。更には何をしてくれるんだと、神様を試したと言うのです。このエジプト脱出の旅を、不平の旅とも呼ばれています。ことあるごとに、あれが無い、これが無いと、不平を並び立てていたからです。その祭りの最高潮に達していた時、イエス様は立ち上がって、大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は・・その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』。ヨハネ福音書ではしばしば、聖霊が注がれることを、水が流れ出ることにも譬えています。教会ではイエス様を救い主と信じる者に、イエス様のお名前による水の洗礼を授けます。見える水を通して、見えない聖霊が注がれるのです。そして教会の群れの一員になるのです。それにしても、いくら大声とはいえ、祭りの最高潮のさ中に、誰が聴き留めているだろうか。いや聞こえたとしても、誰が理解するのだろうか。しかし人々の状況はどうであれ、それでも、イエス様の言葉がそこにあり続ける。

祭り行事は、神様が為さる業に注目し、感謝したりお願いしたり、対象は全て神様です。しかしイエス様が関わられる毎に、神様を対象にしつつ、同時に人間自身をも対象とさせられるのです。過越祭では聖餐式が生まれ、五旬祭では心に律法が刻まれた信徒の群れが生まれ、仮庵祭では不平不満の心渇きが、イエス様の言葉によって癒される。ルーテル教会では、教会とは、信徒の集まりであり、そこでは説教と、洗礼と聖餐とがある、と告白します。教会によって、自分自身の中に何があり、何者であるのか、だからこんなことが起こされるのか、考えさせられ続けるのです。

最後にイエス様は言いました。『その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』。言わば、受けた聖霊が、自分だけに留められずに、更に自分から溢れ出て、周りに行き渡って行くというのです。しかもここで言うその人とは、教会です。この聖霊の溢れは、見えないくらいに少ないとしても、イエス様が源泉ですから、尽きることなく溢れ続ける。そして見えない聖霊の溢れは、見えるものに働いて行くとき、次第に分かるようになって行く。

戸塚ルーテル教会では、教会学校や附属幼稚園を通じて、東日本大震災で被災された福島県の、児童養護施設のお子さんたちや、卒園生の人たちのための、支援献金を続けています。先週イースター献金に対するお礼の手紙が届けられました。一部紹介させていただきます。

『今年もイースター献金を頂きありがとうございます。2011年3月の震災と原発事故の時に施設にいた、一番小さかった子どもは、4月に高校2年になりました。・・今は原発事故が原因でおきる病気になっている人はいないです。でももっと大きくなってから、病気が出て来ることも考えられるので、健康に困ったことが相談できる窓口を開いています。・・この活動が、15年前に子どもだった人が、大きくなっても続けられるようにお祈りをお願いします。そして皆さんが大きくなっても、原発事故のことを忘れずにいて下さい』。

聖霊降臨と教会によって、生きた水の聖霊が、あまねく世界に注がれ続ける、こんな私も、その一滴にでも含まれてまいりますように。

三位一体主日

『命じておいたこと』マタイ28:16-20

三位一体とは、父と呼ばれる神様と、子と呼ばれるイエス様と、聖霊なる神という三つを、まとめて表現するものです。なおかつ、神様が3人いるかのような、存在を言い表すものではありません。存在ではなく、働きを表します。働かれるにあたって、どんな性質を持たれているのか、三つの中の、一つ一つから考えます。まず父なる神様から示される性質は、絶対です。時代や場所が変わっても、様々な有力と思える価値観が登場しても、決して変わることの無い絶対です。子なるイエス様からは、愛です。傍観せず、傷を負わせられ、血を流して、死に至るまでの、寄り添いと赦しの愛です。聖霊なる神様からは、自由です。見えない霊が、見える人間の群れに働いて、誕生した教会が孕む、多様性の自由です。

三位一体が聖書の神様の働きを言い表すとして、更に具体的な働きは何か。それは人間の再創造です。再創造ですから一度目があります。それが、今日の第一日課の創世記に描かれる天地創造です。この中で、三つの言葉に注目させられます。まず1章1節『初めに、神は天地を創造された』。聖書の一番最初です。神がおられ、全てを創造された。神様以外は全て造られた。この神様以降に、どんなに優れて見えるものが登場したとしても、まずこの神様が第一。あらゆるものの規範となる『神』です。次に注目すべき言葉は、第一の日から始まって、第六の日まで、一つ一つ神様は創造されながら、造り終える度に『良しとされた』と言う。特に最後の第六の日に、全てが完成した時には『極めて良かった』と言われました。造られたもの全部、極めて良かった、というこの『良し』です。そしてその第六の日に人間も造られた。その際に人間に使命が与えられるのです。1章28節『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』。この『従わせよ』『支配せよ』です。ここに人間が存在する意味と使命が示されます。

第一の創造で与えられた使命の、特に『地を従わせよ』とか『生き物をすべて支配せよ』という言葉は、今や人間にとっては、極めて誘惑的です。創造された後、人間は食べてはいけないと、神様から言われていた木の実を食べて、神様に背を向けるという罪に陥りました。案の定『地を従わせよ』とか『生き物をすべて支配せよ』という言葉は、神様のためではなく、人間の都合の良い、人間のための、地を従わせ、生き物を支配する、ということにしてしまった。人間のために山をけずり、木々を伐採し、川をせき止め、海を埋め立て、土地や海を奪い合い、いらないものは山に捨て、川に流し、海に捨てる。その結果なのか、神様が創造されて、極めて良かったとおっしゃるには、一体どこが極めて良かったのか、見えなくしてしまっているのではない。人間はもう一度、原点に立ち返って、誰のための使命なのか、向き合う時が来ている。三位一体の神様の働きによって、人間の中を、互いにまずはしっかりと見つめ直すように促されるのです。

今日の福音書ですが、十字架に死んで復活されたイエス様が、ガリラヤの山で、集まった弟子たちに、言われました。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、全ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け』なさい。この言葉から、三位一体の神様の、人間の再創造は、今や、キリストの教会を通して果たされると示されるのです。この際に聖書は、集まった弟子たちの中で『疑う者もいた』と言います。直訳すると『二つの方向を見る』と言う言葉です。それは神と富の二つでしょうか。建前と本音の二つでしょうか。人間の再創造のために働く、三位一体の神様が関わられるのは、破れや疑いを抱える者たちです。教会は、聖霊の多様性に包まれますから、教会の群れには、色々な人間がいる。この三位一体の神様は、評論家の如く、人間を品定めするのではない。色々な人間の中にまみれて下さるのです。

そんな弟子たちに向けて『あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』と言われる。イエス様がここで言う『命じておいたこと』とは、このマタイ福音書に拠れば、5章から7章にかけての『山上の説教』と呼ばれる教えです。この教えの全てから、何か教えを守りなさいと言われるよりも、まず、自分が何者なのかを考えさせられてしまいます。そして、そんな人間の現実をよく分かっていて下さるイエス様だと思うと、むしろ安心させられてしまうのです。いくつか教えを引用します。『人にばかと言うのも、人殺しと同じなんだよ』。『心の中でみだらな思いで他人の妻を見たら、それも姦淫だよ』。『見える法律違反はしなくても、見えない法律違反をしているでしょ』。『仲間だけを愛しても、そんなことは泥棒でもしているよ。敵を愛し、敵のために祈ろう』。『人に見せたり聞かせたりする善行や祈りは、偽善だよね』。『神と富との両方に仕える芸当はしないでね』。『他人の目の中のおが屑よりも、自分の目の中の丸太に気づこうね』。『人にしてもらいたいと思う事は、人にもしようね』。『快適効率便利よりも、狭い門から入ろうか』。これらの教えの最後に、イエス様は言われます。マタイ7章24節『わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている』。この教えを聞いて、明日から守れるものでもないし、むしろ時間をかけて、三位一体の神様の再創造に、皆で一緒に委ねて、共に力を合わせて行こうと聞きます。

そんなイエス様の言葉を、聞き終えた群衆の反応もまた興味深いです。マタイ7章28-29節『・・群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』。律法学者は過去の偉い人の言葉を引用し『あの偉い人が言うのだから、その通りにしなさい』と、あたかも上から目線で、傍観者のように教えます。ですから、おっしゃることはごもっともでも、それが出来ないから問題なんですよと、開き直らざるを得ないのです。しかしイエス様の権威ある教えは、人を動かす。破れ多い自分たちのことをよくご存じで、その上で、破れる者と共に破れ、悲しむ者と共に悲しみ、罪ある者と共に罪に死に、どこまでも寄り添い、分かり続けて下さるからです。イエス様は『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる』とおっしゃられる。人間たち本来の生きる使命を知らされる教会は、三位一体の神様によって、人間が抱える破れに、互いに寄り添い続けるように召されています。一歩一歩、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝して、一人ではなく群れの皆で、歩んで行くのです。

先日のあるテレビ放送でした。高齢のお母様が夕食には、毎日とんかつばかり作るのでと、困っている息子さんが友人に相談したら『じゃ一緒にとんかつ屋さんをやろう』と言われて、お母さんにそこで働いてもらったら、とても評判が良く、お店が繁盛したということでした。お母様もお役に立てると、生き生きと働いているというのです。自分が持つ狭い価値判断を、考えさせられました。そして、社会には更に似たようなことが起こされていて、切り捨てられているものが、再創造の導きによって、切り捨てる必要の無い事が示されて行く。こうして絶対の神様の『良し』が、思いも拠らないようにして、現わされて行くのではないかと思いました。

キリストの教会によって、良いものも悪いものも、あらゆる多様性を生かしてつなぐ聖霊の働きと、そのために赦しと寄り添いのイエス様の言葉に守られて、神様の揺るぎない絶対の良しを、皆で現わし伝え続けて行こうではありませんか。