からし種 446号 2026年7月

聖霊降臨後第2主日

『求めるのは憐れみ』マタイ9:9-13,18-26

このマタイ福音書の5章から7章には『山上の説教』と呼ばれる、イエス様の教えが記されてあります。その教えを聞き終えた時の、群衆の反応が興味深いです。マタイ7章28-29節『・・群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』。律法学者は過去の偉い人の言葉を引用して『あの偉い人がこう言ってますから、そうしましょう』とか、上から目線で、傍観者のように語ります。聞いた者は、ごもっともです、でも、それが出来れば苦労しません、となるでしょうか。しかしイエス様の教えが、権威あると言うのは、人が動かされてしまうからです。欠点だらけの自分をよくご存じで、その上で、欠け多き者と、どこまでも共感して寄り添って、分かり合おうとされるからです。

今日の福音書の場面も、そんな共感、寄り添い、理解のイエス様だからこそと、考えさせられます。収税所に座っているマタイと言う人に『わたしに従いなさい』と声をかけたら、彼は従った。収税所というのは、いわゆる通関税にあたるものを徴収する、植民支配していたローマ政府が作った役所でした。街道沿いにあって、行き来する者から徴収したのです。マタイはそこの徴税人でした。徴税人と言うのは、ユダヤでは異教徒のローマの手先として働き、しかも神の子と自称する、ローマ皇帝の像が刻んである貨幣を扱う者だと言う。ユダヤ人なのに同胞からは、汚れた罪人として、差別されていました。不当に税を徴収する事もあったでしょう。そんなマタイが、イエス様の声掛けに応えて従った。道行く多くのユダヤ人からは、蔑みの目で見られていたでしょう。まともな会話も無かったでしょう。恐らくイエス様の、それなりの噂は聴いていた。そんなお方が、自分のような者に声を掛けくれた。他の会話は記されておりませんが『マタイさん、話でも聞かせてくれますか』みたいな雰囲気もあったのではないか。共感、寄り添い、理解のイエス様です。マタイも動かされたのではないか。

この後マタイは自分の家にお連れして、一緒に食事をします。他の徴税人や、やはりその他の理由で、罪人として差別されて来た人たちもいた。マタイが声を掛けたのか、マタイが同席出来るんだから、自分たちも出来るだろうと、押しかけて来たのか。マタイも彼らの気持ちに共感出来るから、拒否することもなかった。そしてイエス様の弟子たちも、同席しました。この、あってはならない状況を作ったイエス様に、腹を立てた人たちがいました。ユダヤでは、食事の席には、神様も同席するという信仰がありました。そんな聖なる場に、罪人を同席させるとは、律法違反です。律法を大切にする、ユダヤ教の一派のファリサイ派の人たちは、イエス様の弟子たちに詰問しました。『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人一緒に食事をするのか』。弟子を持つイエス様は、一応、律法の教師と見なされていた。そんな人が律法違反をしている。それを直接、イエス様に問わないで、弟子たちを介している。威嚇し易い者に上から目線で迫る、傍観者です。

イエス様からは、確信に溢れた勢いを感じたのでしょう。一方、同席する弟子たちの中には、イエス様と一緒とは言え、居心地の悪さも感じていた者もいたでしょう。そんな負い目も秘める弟子を選んで、問い質したのかも知れません。弟子を介したのか、直接聞き取ったのか。ここは、問い質す側の抱える問題にも共感して『あなたたちのことも分かっているよ』と、イエス様は答えられたのです。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない、とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。この『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』というのは、今日の第一日課ホセア6章6節からの引用です。ここでは、次のように訳されています。『わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない』。神様に対して犯した罪を赦していただくために、牛や羊などを身代わりの犠牲にして、神殿に捧げるという、犠牲祭儀が定期的にユダヤでは行われていました。心からの罪の自覚と赦しの願いが、そこに込められるはずでした。しかし、次第に形式化しました。心の中はどうでも、ただいけにえを捧げれば、神様は良しとするでしょう、という思い込みです。神様と私との関係が、何だか事務的な感じがします。そこには、共感し、寄り添って、互いに分かり合おうとする、生きた感情のやり取りが無いのです。それはイエス様の時代でも、同じような状況でした。事務的なら、時間もかけずに、効率的で便利です。一方、生きた感情のやり取りは、時間を要します。だからイエス様は『行って学びなさい』と、おっしゃられるのではないか。そして、既にそのやり取りに招かれている者も、気が付けば再び形式に、流されてしまいがちです。だからこのやり取りは、イエス様が共にいて下さるから、一生、続けられて行くのではないか。

この後、今日の福音書は、死んでしまった、ある指導者の娘を生き返らせた出来事や、長患いをしていた女性が、イエス様の服に触れて癒された出来事を記します。イエス様は、自分を尊大に見せるために、奇跡を行なうわけではありません。癒された本人は元より、その業に立ち会う周りの、全ての人たちとの、生きた感情のやり取りを、そこから始めようとされるためなのです。こんな業を行なう者は何者なのかと、人はきっと考えさせられるだろう。そしてそこから、自分は何者なのかと、問わせられて行くだろう。結局、イエス様の奇跡の業とは、一生続けられる人間の造り変えなのです。

受験塾を経営する、教育家の小川大介さんの記事が、日経新聞に連載されています。6/1日には、中学受験の相談でよく耳にするとして『塾の先生に言われると聞くのに、親が言うとすぐに反発するんです』という話題を取り上げていました。それで結論として小川さんは、次のように書いています。『親が言うとダメなのは、親が悪いからではない。親が分かってほしい相手だからだ。反発は、親子関係が壊れているサインではない。自分を見てほしい、という、子どもの願いでもある。心配をそのまま言葉にする前に、まず子どもの今を受け止める。それが、子どもの才能を生かす第一歩だ』。共感と寄り添いと分かり合いが、身近なところでも、現わされていると思いました。

キリストの教会のイエス様の言葉によって、いつも共感し、寄り添って、分かり合える、神様との関係に、保たれて行きます。

聖霊降臨後第3主日

『ただで受けた』マタイ9:35-10:8

イエス様が『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた』というのです。羊の習性は、臆病で自衛力が無く、方向感覚が乏しいので、迷い易いのだそうです。ですから羊飼いは羊にとっては、無くてはならない存在なのです。そこから聖書では、神様と人間との関係を、羊飼いと羊との関係に、しばしば譬えられているのです。それで『群衆が飼い主のいない羊のよう』と言うのは、一言で言えば、神様から離れて、行き場を失い彷徨っている、ということになるのでしょう。更にもう少し具体的に考えれば、様々な価値観に翻弄されて、どれを絶対的な拠り所として良いのか、右往左往している人たちなのか。あるいは逆に、絶対でもないのに、そんな価値観を画一化して、そこに当てはまらない自分に悩み、存在の意味が分からなくなっている人たちなのか。いずれにしても、一人一人の多様性が尊重され、そんな中で、誰もが絶対だと一致出来るものを、それぞれに、模索し続けることが出来る関係や環境を、イエス様は弟子たちを用いて、働かれるのではないか。

そこで『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』と、おっしゃられます。ここで『多い』『少ない』と言われていますが、量的な多い少ないを問題にしていることもありますが、もう一つ、質的な多い少ないも、問題とされているのではないか。質的とは、多様性が保たれているのかどうか。弱り果て、打ちひしがれている人たちは、まさに多様な背景を持っている。そこに画一的な価値観や、画一的な弟子たちが向き合っても、一人一人が抱く悩みや痛みには、共感し難いでしょう。人数よりも、多様な弟子たちが求められるのではないか。

この後イエス様は、十二人の弟子を呼び寄せました。どんな人間たちだったのか、聖書から、彼らの人となりを類推してみます。まずペトロです。聖書にはたくさん登場します。何と言っても、イエス様が十字架に向かわれる時に、鶏が鳴く前に、三度、イエス様を知らないと言うと予告されて、死んでもそんなことは言いませんと啖呵を切った。しかし、その通りになってしまいます。その時にイエス様の言葉を思い出して、激しく泣いたとあります。喜怒哀楽を隠さない、真っすぐで、どことなく憎めない印象です。続いて弟のアンデレです。イエス様に出会って、一緒に宿泊した後、兄のペトロに、イエス様の事をメシアだと紹介しました(ヨハネ1:35-)。豊臣兄弟の弟の秀長のような、サブ的な感じがします。そしてゼベダイの子の、ヤコブとヨハネ。彼らも兄弟です。『雷の子ら』(マルコ3:17)というあだ名がありました。その通り、自分たちの言うことを聞かない人たちを、天から火を降らせて、焼き滅ぼそうと、イエス様に提案したこともありました(ルカ9:51)。また彼らの母親は二人と一緒になって、イエス様が栄光の座に着いた時には、兄弟を右大臣と左大臣にして下さいと願っています(マタイ20:20)。能力もあって、典型的な上昇志向で、弱さよりも強さを誇る、猛烈社員のようです。フィリポとバルトロマイは、聖書の中ではいつも並んで記述されています。バルトロマイは、ヨハネ福音書ではナタナエルという名前で出ています(ヨハネ1:45)。フィリポがナタナエルに、イエス様をメシアだと紹介します。ナタナエルは聖書知識から、それを否定します。一方は、見えるものを絶対視し、一方は見えないものにも目を注ぐようです。トマスもまた見えるもの重視派です。そして、人の顔色もよくうかがうタイプのようです。マタイは徴税人で、差別されていました。そんな人間の気持ちにも、共感出来そうです。アルファイの子ヤコブは小ヤコブ(マルコ15:40)とも呼ばれていたようです。タダイもそうですが、これ以上の事は分かりません。熱心党とはユダヤの、いわゆる超保守的団体で、力づくでも外国勢力を排除することを是としていました。シモンはいわゆる熱狂主義的だったのでしょう。そしてイエス様が逮捕処刑される、直接的なきっかけを作ったユダですが、彼の方こそ、イエス様に裏切られたと強い反発があったのでしょう。思い込みや決めつけが、極端に強い人物だったのではないか。

こんなふうに弟子たちのことを見てまいりますと、まさに多様性を持った人たちです。この時イエス様は、異邦人や、サマリア人の所には行かないで、同胞であるユダヤ人の所に行きなさいと命じています。これを聞いた十二人はどう思ったでしょうか。『イエス様も見捨てているのかな』。『あの人たちとは関わりたくないな』。『同胞のユダヤ人の方が、こんな自分たちを受け入れるのか心配だ』。ここで思うのは、異邦人だとか、サマリア人だとか、変なレッテルに目を奪われないように、それが弟子たちの多様性を損なう。だから、まずはそこに行くなと、言われたのかも知れません。あらゆる先入観を振り払って、飼い主のいない羊のような人たちに、等しく向き合いなさい、ということなのでしょうか。そして、様々な病気に対する癒しの業を、弟子たちは、ただで受けたという。これはいわゆる『賜物を与えられた』という意味です。だから与えられた賜物を、お返しするように、人々に使いなさい、と言うわけです。これは、一人は病人をいやし、一人は死者を生き返らせ、一人は皮膚病を癒し、一人は悪霊を追い出すという、いわば分業体制なのです。そこに弟子たちの多様性が現わされる。そしてこれが、キリスト教会の原点なのではないか。

日経新聞の夕刊で、先週は、森美術館館長の片岡真実さんのエッセイが連載されていました。8日の第一回目の記事です。片岡さんのお父さんは聖公会の牧師だそうです。両親は京都の神学校で出会って、結婚されたそうです。ところどころ引用します。『・・母には母の信念があり、・・小学校の絵具箱は女子が赤、男子は青と決まっていたが、色には男も女もない、と青い方を私に持たせた。・・所属したハンドボール部では、礼拝がある日曜の試合や練習に参加できなかった。・・つらくはなかったが、難しいと思っていた。なんとなく自分が社会全体の大きな流れの中に、属していない感じがあった。そのためだろうか。すみっこから世の中を観察する態度が、自然と身についた。全体像を俯瞰してとらえる視点は、いまの仕事につながっているかもしれない。父からは、対価を求めるな、とも教わった。就職して給料をもらうことについて悩み、資本主義社会で、父に授けられた物差しは使えないのではないか、と混乱した。父に疑問をぶつけると、この世で、使いやすい物差し、を渡した覚えはない、と返された。弱き者に寄り添う隣人愛、自分の物差し。幼い日に育まれた価値観は、私のなかに深く根を降ろしている』。

数ではなく、多様性のあるキリスト教会の働きに、こんな私ももう一度組み入れていただきます。

聖霊降臨後第5主日

『受け入れる人』マタイ10:40-42

今日のマタイ福音書は10章の最後の部分です。今日を含めて3週に渡って、マタイ福音書10章を日曜日の礼拝では読んでまいりました。改めて10章全体を振り返りますと、キリスト教会の出発点と、そこに関わる人間の存在の意味が示されているように思います。またそれらから、今の教会と自分を考えさせられる所でもあると思うのです。

まず教会を考える時に、イエス様抜きには考えられません。そしてイエス様が来られたのは、私たち人間を、だめな者だと切り捨てるためではなく、どんな人間も大切な存在として生かされて、更にはそのような者を用いて下さるために来たと、聖書から聞くのです(cf.ヨハネ3:16-17)。マタイ福音書9章36節でも、次のように記されてあります。『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた』。そしてただ憐れむだけでなく、活動を起こされるのです。その際に、人間をお用いになるのです。ここにキリスト教会の出発点が現わされます。

弱り果て、打ちひしがれているのは、特別な理由を持った、一部の人間だけに限らない。結局、全ての人間は、弱り果て、打ちひしがれていると、イエス様は見るのです。そんな全ての人間に、イエス様の深い憐みが伝えられるように、人間をお用いになるのです。打ちひしがれている人間同士の出会いだから、互いの悩みや苦しみや問題に共感させられるのではないか。ここでイエス様が『収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』と、弟子たちに言ったという。実は弟子たちも、弱り果て、打ちひしがれている者だった。そんな彼らだから、打ちひしがれている者に共感しながら、その人のために、本当にイエス様の憐れみを取り次いで伝えられるようにと、祈ることが出来る者なのではないか。他人ごとでは無い。自分事になるから、本気で祈れるのではないか。

そんな弟子たちは、どんな人間だったのか。十二人の弟子が召し出されます。ちなみに聖書は数字を使って、物事を象徴します。十二は『全て』を象徴します。全ての弟子たちということは、全ての教会を象徴するようです。ペトロは喜怒哀楽を隠さない、感覚人間のようです。弟のアンデレは、NHK大河ドラマの豊臣兄弟に登場する、弟の方の秀長のような、サブ的な感じがします。ゼベダイの子の、ヤコブとヨハネは短気で強さを誇る、上昇志向の猛烈社員のようです。その他にも、見えるものだけを絶対視したり、人の顔色をうかがうタイプだったり、お金に目が無かったり、正義感が溢れすぎて、不寛容であったり、思い込みや決めつけが極端に強い、自己絶対化人物だったり。

そんな十二人を、打ちひしがれている人々との、出会いのために派遣する。そのための、諸々の指図をされるわけです。それは全ての教会に向けての、指図にもあたるものでしょう。しかしなかなかしんどい指図です。見知らぬ人の所よりは、知っている人の所にまず行けと聞く指図は、辛いです。増してや、家族の所にも行けとなると、自分の弱さをよく知っている人たちに、その上で、イエス様の事を伝えるのが怖いのです。弱さや悪事に触れられることなく、伝えられないかと、思っているからでしょう。人を恐れたり、波風が立つのを恐れたり、誰のための派遣なのか。結局は自分のためではないか。『群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた』という、イエス様の問題意識があっての教会なのに。出発点からはずれてしまっている自分を見てしまいます。

夜7時半からの、NHKテレビ番組の『クローズアップ現代』で、先週火曜日は『病から老いの悩みまで “最期の相談”をAIに』というテーマでの放送が為されていました。病や老い、家族のみとりなどの不安や悩みを、AIに相談する動きが広がっているというのです。誤情報や、利用者の状況を理解しないまま、回答する課題も指摘される中で、がん患者や、1人暮らしの高齢者に寄り添う、最新のAIの開発も進んでいるそうです。がんで余命宣告を受けるなか、相談相手にAIを選んだ86歳の女性は、頼った理由は、家族に迷惑をかけたくない、からだったそうです。AIを利用する理由で、飛びぬけて一番多かったのは『人に迷惑をかけたくない』ということでした。以前は、農業とかいろいろな作業は、大勢が共同して行わなければならなかった。しかし現代は、一人でも便利に暮らせる時代になった。だから、人と人との距離が希薄になって、老いてから誰かに委ねるという事が、出来にくくなったのではないかという解説でした。それでも、人がAIに勝るものは何ですかと、最後に司会者が尋ねました。出席されていた医師の、小沢武俊さんは『人の弱さにある』と答えられたのが印象的でした。弱くて力になれないからこそ、誰かとのつながりを求めて、寄り添おうという思いが生まれて来る。そういう『たおやかな力』が人にはある。100点を取れない自分が、なお、困難の中で、人と人との弱さを誇りに思いながら、歩んで行くのでは、ということでした。

今日イエス様は最後に『わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける』と言われます。小さい者でしかない、こんな自分を通しても、イエス様が現わされて、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人が与えられるならば、こんな嬉しい事は無いのではないか。そんなふうに思えて来ました。実は先週の月曜日に、YMCA東戸塚学童保育で、礼拝奉仕に行ってまいりました。そこでは、久しく礼拝と言う形の時間は持てて来なかったそうで、今回、清水が声を掛けられて、これから継続して礼拝を守る、その試みのスタートになれば、ということでした。登録人数が、小学1年から6年まで80名くらいで、その中には、YMCA東戸塚保育園の卒園児もいるのだそうです。私はその保育園の礼拝奉仕に、毎月呼ばれて来ているので、このような機会も与えられたわけです。礼拝が終わって、帰りかけた玄関先に、一人の3年生くらいの女の子が声を掛けてくれました。『今度は幼稚園の子どもたちを連れて来て』。私は『どうして』と尋ね返すと『一緒に遊びたいから』と答えてくれました。それだけの会話でしたが、ものすごく嬉しかったです。

『受け入れる人』はどんなに小さな子どもでも、そして『あなたがた』は、どんなに小さな者でも、そこから『イエス様』へ、そして『父なる神様』へと導かれる。どんなに長い道のりであっても。何故なら、この時の弟子たちはまだ派遣されていない。なのに、それに先立って先導して下さるお方がおられるのです。マタイ11章1節『イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された』。