からし種 447号 2026年8月

聖霊降臨後第6主日

『今の時代』マタイ11:16-19,25-30

今日の福音書の直ぐ前の所は『洗礼者ヨハネとイエス』という小見出しが付けられてあります。洗礼者ヨハネは、イエス様が救い主として、人々の前で伝道活動をされるのを、前もって先触れをする役目を担った人物です。その際に、悔い改めたことの徴となる、洗礼という洗い浄めを、ヨルダン川の水で人々に施していました。そうやって、イエス様の登場を迎え入れる準備をしなさいと、宣べ伝えていました。それで通称『洗礼者ヨハネ』と呼ばれていたわけです。それなりに洗礼を受けた人々もいましたが、結局、ヨハネの存在は、人々の悔い改めのための働きとしては、大きなうねりにはなりませんでした。増してや、先触れしたイエス様が、救い主だなんていうことも、人々は受け入れられなかった。洗礼者ヨハネでさえも、イエス様が救い主だと先触れしたのに、次第に自信が無くなって来たようです。自分は逮捕されて牢屋に入れられていたので、弟子をイエス様の所に遣わして『あなたは救い主ですか』と尋ねさせた程でした。

そんなこの今の時代の状況を、憂いていたのでしょうか。イエス様は或る時、子どもたちが歌っている童歌に、今の時代に思いを馳せさせられたのです。その歌は次のようです。マタイ11章17節『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』。これは子どもたちが、二つのグループに分かれて向かい合い、歌の掛け合いをしながら、前に進んだり、後ろに下がったりして遊んでいたもののようです。日本でも『かってうれしいはないちもんめ、まけてくやしいはないちもんめ、・・あの子がほしい、この子がほしい、・・』という童歌があります。これと似たようなものだと思います。『笛を吹いた』というのは、目出度い結婚式の招きなんでしょう。がしかし、一緒にお祝いしてくれない。一方、葬式があっても、一緒に悲しんでくれない。どっちに転んでも、他人ごとのようで、自分事としては何も考えない、共感してくれない、そんな人々の様子を、詠ったものなのでしょうか。そこにイエス様は、今の時代と重ね合わせられたのです。

ヨハネは旧約聖書に描かれる、昔の預言者の恰好をして、いなごと野蜜を食べ物にしていたと、聖書は記しております(マタイ3章4節)。そんな時代がかったヨハネを見て人々は、自分を見つめ直して、悔い改めるどころか、ヨハネが悪霊に取りつかれていると、評論家のように解説する。片やイエス様に対しては、律法の教師ともあろう者が、あんな罪深い連中と、一緒になって飲んだり食ったりしていると、やはり評論家のように解説する。自分を見つめ直しもしなければ、そんな自分はどうすれば良いのかも考えない。悩みもしなけりゃ苦しみも、自分と関係が無ければそれでいい。上手に避けてさえいればそれでいい。矛盾とも思える社会状況も、自分事としては考えられない。もちろん、それでもそんな人間を見捨てない。最後に言います。『しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される』。人々が考えて気づかされて行くには、時間がかかるのです。むしろ『私は待っているよ』と言う声が、この言葉からも聞こえて来るようです。

洗礼者ヨハネが何者なのか。そしてナザレのイエスが何者なのか。これについて父なる神様は『知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』というのです。冒頭の童歌は、まさに幼子たちが歌うものです。その幼子たちの歌声から、イエス様は今の時代に思いを馳せた。幼子たちは、今の時代を観察しているわけではない。増してやイエス様に教えようとして、歌っているわけでもない。でも幼子たちの歌を通して、今の時代が見えて来るという。それは、見えなくしているものを、幼子たちは持っていないからかも知れません。大人や強い者が持つ、知識や経験や先入観や理屈が、むしろ見えなくする。そう考えますと、この『幼子のような者』とはいわゆる『無力な者』とも、言い換えられるのかも知れません。

今、水曜日夜の聖書研究会では、ㇽ―テル学院大学の江口先生が書かれた『ルター入門』と言う本をテキストにして、皆で読み合わせています。先週は第12章の『ルターと親鸞』と言う項目の箇所からでした。ルターはドイツ人修道士で、1517年の宗教改革の端緒を切った人物です。親鸞は1173年生まれの日本人で、鎌倉時代前半から中期にかけての僧侶です。鎌倉仏教の一つの、浄土真宗の宗祖とされる人です。その江口先生の本の中で、宣教活動のために、16世紀に来日した、カトリック教会の宣教師による、日本の実情についての報告が、次のように紹介されていました。『浄土真宗の仏僧は、阿弥陀や釈迦が、人々に対していかに大いなる慈愛を示したかを強調し、救済は容易なことであるとし、いかに罪を犯そうとも、阿弥陀や釈迦の名を唱え、その功徳を確信さえすれば、その罪はことごとく浄められる。従ってその他の修行等はなんらする必要がない。・・これはまさしくルターの説と同じである』。両者とも、いわゆる救いは信仰のみであって、行いは救いには関わらない、という共通点があるようです。

聖研に出席された一人の方が、次のような感想を述べられました。『難しい宗教的教理の事は別として、私が注目させられるのは、両者とも、徹底的に自分の内面を見つめて、どうすることも出来ない自分の罪深さに、悩み苦しみ、考え続けた所です。更には矛盾する社会の状況も、自分事として考えさせられて行った事です。そこから結局、自分の無力さを知らされた。だから、ただ人智を超えたお方の意志に、すがらざるを得なくなって行ったのではないか』。更に聖研の中では、では何故両者が、そこまで悩み苦しみ、考えるようにさせられて行ったのか、話題になりました。生きた時代も300年の差があり、場所も日本とドイツです。皆で話したのは、それぞれの時代背景にある、疫病や戦争による社会の混乱の影響があったということです。死や地獄への恐怖、生きている事の意味、どうしても悪事を行ってしまう自分や社会。どうしたらそんな悪事を避けられるのか。これと同じような深い悩みを、今日の第二日課のローマの信徒への手紙7章19節でも、著者のパウロが告白しています。『わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている』。この私たちと、私たちの今の時代はどうなんでしょうか。今日、最後にイエス様はおっしゃられます。『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる』。

キリストの教会によって、悩み苦しみつつも、まず自分を見つめ直し続け、主よあなたに問い続けさせて下さい。

聖霊降臨後第9主日

『天の国』マタイ13:31-33,44-52

今日の福音書は、イエス様がまず天の国を、からし種にたとえるところから始まります。イエス様はよく、たとえ話を語られます。それによって聞く者は、何を言わんとされるのか、つい考えさせられます。それも意図されておられることかも知れません。

さて天の国ですが、これはあの国この国と言うような、場所的なものでは有りません。聖書が言う天の国とは、神様が支配されている状態、を言います。ですから今私が、ここは神様が支配されていると信じるならば、ここは私にとっては天の国なのです。ただしこのままでは、多分に、自己満足の天の国になりがちです。その『天の国はからし種に似ている』とイエス様はたとえられます。からし種はどんな種よりも小さいけれども、成長すると、鳥が枝に巣を作る程に大きくなる、そういう状態に天の国は似ていると言うのです。人間的な価値観からすれば、小さな事は評価されにくいです。しかし時間が経てば、必ず大きくなるというのです。天の国の価値観では、目先の今の状態を、結果結論として評価しないということでしょうか。時間が経てば、今は目に見えないが、必ず大きくなる将来を結果結論とするという。またその長い時間も、芽が出た、葉が出た、こんなに太くなったと、折々のプロセスに感動し、大切に思う事も、このたとえから考えさせられます。

歴史が好きだった私が、初めて歴史の書物として聖書を読んだ時『なんと、神様中心の本なんだろう』と、びっくりさせられました。それまで自分は、人間が中心で、全ては人間の力で成り立っていると思って来ました。居もしない神様に頼るなんて、それは弱い人間のすることだとも、聞かされていたからでしょう。どこで、からし種みたいなものが、自分の心の中に蒔かれたのかは分かりません。初めて聖書を読んだ時かも知れません。あるいは人との出会いからかも知れません。それから時間を経て会社を止めて、聖書の学校に入り直してしまいました。とにかく今は、こうして皆様の前で、聖書の話をする者にさせられています。鳥が巣を作る程に大きな木に成長しました、なんて言いません。言った途端に、枯れてしまいそうです。とにかくまだ、結果結論は出ていないでしょう。そしてこれまでのことを振り返りますと、そのプロセスでの出会いや出来事にも、意味があるように思います。

そんな成長途上の自分が、天の国に生かされているとしたら、その意味は何なのか。次のたとえ話が、そのことを考えさせるように思います。『天の国はパン種に似ている』というのです。パン種というのは、酵母菌のことです。存在するのでしょうが、人間の目には無いかのようです。しかしパン生地に働けば、確かに膨らませてパンになる。見えない酵母菌だけれど、膨らんだパンによって、その存在が分かる。自分一人が天の国の住人ではなくて、そんな自分は、社会と言う大きな所で、生かされている者だとすると、また色々と考えさせられます。酵母菌のように、いるのかどうか分からない自分でも、そこに存在することで、何かが起こされていることが分かった時、それでも自分の存在の意味が示されて行くのではないか。私は今、戸塚ルーテル教会附属幼稚園の、園長もさせていただいています。思いもよらないことでした。そしてこんな私のことを、今でも、覚え続けていてくれる卒園生がいます。来月8月には、卒園生の一人が、昨年に続いてフルート演奏を披露してくれます。相変わらず、見えない小さな酵母菌のような自分ですが、それでも幼い子どもたちの成長を通して、自分の存在の意味を、垣間見させていただいています。そしてその子どもたちの成長こそ、大切で感動のプロセスだとも思っています。

更に天の国が、畑に隠された宝を見つけた人が、その喜びで、持ち物を売り払って、そのまま畑ごと買うことに譬えられています。天の国では、その予測を超えた発見故に、大きな喜びが与えられるというのでしょう。人間には偶然としか言いようが無いことも、偶然では無いのかも知れません。そこにずっと存在し続けていて、ただ気がつかなかっただけだからです。そしてこれからも、見えていなくても、そこにあり続けるという確信だけで、新たに喜びが起こされ続ける。あの時自分が、聖書を読んだ事も、偶然と言えば偶然かも知れない。しかし、今となっては必然かも知れません。また幼稚園の仕事をしていて、毎日、当たり前のように、同じことの繰り返しだとも思っていましたが、実はそこに思いも拠らない喜びが隠されているのです。当たり前ではなかったのです。

 続けて次の天の国のたとえは、高価な真珠を一つ見つけた商人が、持ち物をすっかり売り払って買うというものです。商人ですから、どんな真珠が高価なのか、よく分かっていたでしょう。しかしここで見つけた真珠は、今までの自分の経験を超える程だったのでしょうか。だからもはやほかに探す必要が無い程に、この真珠が唯一絶対だと示された。ここで考えさせられるのは、天の国では、人間による評価や判断は、いずれにしても相対的で、絶対ではないということです。天の国で絶対は神のみです。毎日の様々な出来事や、様々な人間関係の中で、一喜一憂して落ち込んだり、浮き沈みの激しい人間です。しかし天の国は、どんな出来事も、人間がそれらを絶対とは決めつけられない。まだ次がある。絶対は神様だけがお決めになることです。

 こうしてイエス様の天の国のたとえから、繰り返し失敗をしたり、破れが多い自分でも、それでも天の国は、それを結果結論としない。むしろプロセスを大切にして、そこから造り変えられて行くのを、待ち続けて下さる天の国の神様。改めて、そんな神様の支配される状態、それが天の国だと考えさせられます。もちろんそこに安住して、自分に都合の良い神様を、無意識にも造り上げてしまう弱さもあります。だから聖書は世の終わりの、裁きのことも語っています。その時には、神様は結果結論を出される。良し悪しの判決は下される。その時こそ一切のの人間の力は入り込めません。そのことはイエス様が登場される以前の、旧約聖書の時代から言われ続けて来ています。それで最後にイエス様は言われます。『天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』。ここの学者と訳されている言葉は、直接的には聖書を学んでいる者のことです。新しいものとはイエス様の教えです。古いものとは律法を代表とする旧約聖書です。同じマタイ福音書5章17節でも、イエス様は次のように言います。『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。古いからと言って、旧約を無視するわけではありません。更に遡って、マタイ福音書1章には、イエス様がお生まれになる時に、お父さんのヨセフが夢の中で、生まれる子を『イエスと名付けなさい』、その意味は『神は我々と共におられる』と告げられた場面があります。欠け多き弱い人間は、そのままでは裁かれざるを得ません。しかしイエス様は自ら、欠け多き弱い人間と同じになって、そんな人間と共に、イエス様も悩み、苦しみ、悲しみ、喜んで、歩んで下さると信じます。これが新しくもあり古くもあり、新しいものと古いものとが補い合う天の国です。

キリストの教会によって、これからも天の国を学ばせて下さい。そうやって、現実の私たち人間が、何者なのかを問い質されながら、だからこそイエス様の神様は、こんな私に関わって下さることに、気づかせて下さい。そうやって天の国の住人とさせて下さい。