からし種 448号 2026年9月

聖霊降臨後第10主日

『あなたがたが彼らに』マタイ14:13-21

今日の福音書は『イエスはこれを聞くと』で始まります。何を聞いたのか。それは今日の福音書の直ぐ前の、14章1節以下の所に記されてあります。イエス様が本格的に伝道活動を始める前に、そのイエス様が間もなく登場しますよと、前触れをする人物が登場しました。洗礼者ヨハネと呼ばれる人です。彼はイエス様をお迎えするための、悔い改めのしるしとしての、水の洗礼を授けていました。それで洗礼者ヨハネ、と呼ばれていました。そのヨハネが、ユダヤのガリラヤ地方を治める、ローマの傀儡領主ヘロデの反感を買って、殺害されました。ヨハネの死を聞いて、イエス様は『舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた』というのです。

これは一見、ご自分の身の危険を恐れての、逃亡のように見えます。しかしこの後のイエス様の言動を見ますと、もっと深い所での動機も、想像させられるのです。このヨハネ殺害の事件から、権力欲、物欲、肉欲など、人間に湧き起る、あらゆる欲望をイエス様は見て取られた。そしてそういう人間の状況に、深く心を痛められた。そして『ひとり人里離れた所』で、そんな人間の弱さ破れのための、執り成しの祈りを捧げようとされたのではないか。しかし大勢の群衆が後を追って来たので、一人にはなれなかった。けれども、また『群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた』のです。ここの『深い憐み』は、ヨハネの事件でも感じた、人間界の悲惨さから受けたものと、全く同じだと思うのです。ですから今日の福音書の箇所は、この『深い憐み』がキーワードだと示されます。

この『深い憐み』は聖書では、イエス様を描写する時に使われる言葉です。ギリシア語から直訳すると『はらわたが揺り動かされる』というものです。日本でも、似たような言い回しがあるでしょう。『はらわたにしみる』『五臓六腑にしみる』『はらわたが煮えくり返る』など。とにかく全身全霊で受け留め感じる、と言う表現です。そしてこの『深い憐み』は、次の出来事にも続くのです。イエス様の周りに、男性だけでも五千人の群衆が集まりました。そんな群衆を前にして、夕暮れになったので、弟子たちは食事の心配をします。群衆を解散させて、自分で村へ食べ物を買いに行かせるように、イエス様に提案しました。ところがイエス様は『行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい』と言われたのです。弟子たちは困りました。ここには、パン五つと魚二匹しかないからです。しかしここにも、イエス様の群衆に対する『深い憐み』が、実は込められていた。だから、群衆に食べ物を買いに行かせようとされなかったのです。しかしその分、弟子たちに負担が掛けられることになりそうでした。それもイエス様はよく分かっておられた。弟子たちを困らせて、試そうとしたわけではない。増してや『お前たちには信仰が無い』なんて、裁こうとも思われなかった。こんな事態に直面して、いやこれからも、何とかしなければならない事には、何回も出会うであろう。その度に、弟子たちやそしてこの私たちも、悩み、苦しみ、不平不満も覚えるだろう。だからここでイエス様は『深い憐み』を、力強く伝え、示そうとされたかったのではないか。

五つのパンと二匹の魚を手に取ったイエス様は『天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった』という。天を仰ぐお姿や、賛美の祈りの声や、弟子たちにお渡しになる時の様子などから、それを目の当たりにする弟子たちもまた、次第に群衆一人一人に対する『深い憐み』を、彼らなりに感じ取らされて行ったのではないか。もちろん最初は、相変わらず『これしかないのに、何をされようとするんだ』と、悲観したり、怒りも感じていたかも知れません。しかしそんな弟子たちも、少しづつイエス様の『深い憐み』に揺り動かされながら、自分たちも、群衆の一人一人に対して、憐れみ促されて、食べ物を配って行ったのではないか。そして、憐みに動かされた弟子たちの行動から、またそれに接した群衆の一人一人も、動かされてしまった。そんな動かされた一人一人がまた、互いに憐れみ動かされて、いただいたものを分け合うように、促されて行ったのではないか。動かされた者の中には、元々持っていたものを、差し出すようになった者もいたかも知れない。あるいは、買い出しに走って戻って来て、イエス様に直接、買った物を渡すようになった者もいるかも知れない。また、一生懸命に食べ物を配り回る弟子たちの輪に、加わって行った者もいるかも知れません。そうやって、有り余るほどの食べ物が、人々の間に行き渡って行ったのではないか。そして同時に、もう一つ大切な、そして見えないものが、人々の間に行き渡って行った。それは『深い憐み』ではなかったか。

五つのパンと二匹の魚から、五千人以上の人々が満腹するようになった。これは、イエス様による奇跡だと、言われて来ました。しかし今日は『深い憐み』に揺り動かされた、人間たちの働きにも、着目します。そして私はここに、もう一つの目に見えない奇跡が、示されていると思うのです。それは、自分中心の欲望に囚われている人間であっても、心の中に『深い憐み』が、必ず起こされる、ということです。それでも、憐れみとか共感とか同情とか、それ程に特別なことではないように思うかも知れません。でも私たちが、何かに一生懸命に取り組んでいる人を見て、心も身も動かされて行くというのは、果たして当たり前の事だろうか。いや当たり前に見えても、それが奇跡だとしたら、むしろこれほどの安心と確信を与えられる奇跡は、ないのではないか。

二週間程前の、障碍者福祉関連のテレビ放送に、物まね芸人のコロッケさんが出演されました。小学生の頃の中耳炎で、片耳が聞こえないのだそうです。そんなコロッケさんが、東日本大震災で、ボランティア活動のために、現地に行かれた時のお話です。行く前には『神様はおられないのか』と、憤りも抱えていたそうです。ところが現地での、お店を経営していたという被災者の人たちが、行方不明の自分の親族を捜さないで、まず自分のお店の品物で、炊き出しやら品物の提供をしていたそうです。それを見て、ここに神様はおられると思ったそうです。そんな人たちにも動かされて、ボランティア活動に、更に勇気を与えられて行ったということでした。先週、熊本で大きな地震が発生しました。厳しい暑さの中での、この瞬間も、救出作業や復興作業が行われ続けています。

主よ、あなたの『深い憐み』によって、全ての人たちが揺り動かされて、復興再生の力の輪を、増々、拡げさせて下さい。

聖霊降臨後第13主日

『人間ではなく』マタイ16:13-20

今日の福音書の箇所では、イエス様が何者であるのかという人々の噂を、弟子たちに尋ねられています。これまでの間でも、イエス様は様々な教えや不思議な業を、人々の間で行って来ました。そしてそれらに対する、この人は一体何者なんだとか、人々の驚きや疑問が、描かれて来ました。それで、冒頭のような問いを、弟子たちに発せられたのでしょうか。それにしても何故この時点なのか、そんな疑問もあります。人々の噂を聞いて、イエス様ご自身が悦に入る、ということは考えられません。むしろイエス様の弟子たちが、人々の噂から、自分たちを誇ることからの思い違いを、ここでひとまず浮き彫りにさせる、ということも考えられます。それはこの後の、ペトロの告白からも想像させられます。

イエス様が尋ねた時『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』と言われました。この『人の子』とは、聖書の中では、イエス様が自称する時に、多く使われています。何故、自分という言葉を使われなかったのか。弟子たちと話す時にはしばしば、ご自分のことを『人の子』と言っていたのかも知れません。弟子たちも違和感が無かったのか。『人の子』という言葉は、ユダヤの伝統では、いわゆる歴史の終わりの最後の審判の際に登場する、救済者メシアを指すものとされて来ました。この時の弟子たちも、ユダヤの伝統の中に生きて来た者です。どこまで歴史の終わりを意識していたかは分かりません。いわゆる終末は、知識としてはあるが、他人ごとになりがちです。終末は救いに関わることですから、自分事です。しかし彼らなりに、イエス様に対しては、メシア的なものを感じていたのかも知れません。

人々の噂は、洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人だ、というものでした。いずれも歴史の終わりという終末の時に登場する、メシアを先触れする者だと信じられて来た人たちです。ですから、弟子たちも人々も、イエス様に出会って、大なり小なり、終末を覚えさせられていたことは共通しているようです。ただ人々は、イエス様はメシアの先触れ役だと思ったのでしょう。弟子たちはメシアそのものだと感じていた。それにしても、終末は他人ごとにしない。そして来週もイエス様は、十字架の出来事を予告します。これこそ他人ごとでは無い。救いに関わる自分事だからです。

そこで今度は弟子たちに向けて『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と問われます。筆頭弟子のペトロが代表して『あなたはメシア、神の子です』と、すかさず答えたと、敢えて申し上げます。人々の噂の延長線上の中で『あなたたちは先触れ役だと思っているかも知れないが、自分たちはメシアだと信じている』と、勇んで答えているようです。冒頭で申し上げました、弟子たちの誇らしげを、ここに感じるからです。ここでは『神の子』という言葉が使われています。これもユダヤの伝統では、神の代理者を指す言葉として使われます。先程の『人の子』はイエス様の自称に使われる。一方『神の子』は、周りがイエス様を呼ぶ時に使われるようです。図らずもイエス様が、人であり神だと、指し示すようです。

そんなペトロの応答に対してイエス様は、まずは肯定的に受け留めるようです。ただ気になる言葉があります。『あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』。このイエス様の言葉を、ペトロはどのように聞いたのか、今日の福音書には記されてありません。それは、来週のマタイ福音書の箇所に記されてあります。先程、ペトロの応答が、人々の噂の延長線上の中で『あなたたちは先触れ役だと思っているかも知れないが、自分たちはメシアだと信じている』と、勇んで言っているように聞こえる、と申し上げました。人々は、自分たちがこれまで聞いて来た聖書の教えや、自分なりに観察した結果の、知識や経験からの見解なのでしょうか。それは、弟子たちも同じだったのではないでしょうか。だから自分たちこそイエス様のお側にいて、人々以上に知識や経験も豊富だ。だからイエス様も認められる答えを出すことが出来た。それは増々、人間が現す言葉になって行くようです。

この後イエス様は、ペトロの受け留め具合に関係なく、教会を建てる話を進めます。『ペトロ』という名前は『岩』を意味します。直接的には、ペトロの上に教会を建てる、ということでしょう。しかしその『ペトロ』とは、あくまでも、人間ではなく、父なる神様が現わされたものを、受け取る者たちの群れです。それが教会です。更にその教会の使命が語られています。天の国の門を開けたり閉めたりする鍵を授ける、というのです。具体的には、地上の教会には、父なる神様と同じ、人の罪の赦しという救いを宣言する権威が、委ねられるというのです。もちろんその権威と罪の赦しの宣言は、父なる神様から現わされたものからです。しかし、人間から受けたものを、さも神様から受け取ったものだと、思い込んでしまうことも多々ありがちです。今は未だ、そんな色々な状態の人たちの群れが、現実の地上の教会です。その事を戒めるように、今日の最後の言葉があります。マタイ16章20節『それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた』。

この最後の命令は、現代の教会も、傾聴するに値するものがあります。天の父なる神様と、地上の教会との、100%の一致があって、天の国の鍵の権威が、教会にもあると言えるものだからです。しかし相変わらず地上の教会も、また個々の教会の中でも、罪の赦しに関わる一致があるとは言い切れません。また人類全体の一致まで拡げて考えますと、そんな一致はもはや不可能だと、言わざるを得ない状況です。しかし今日私たちは、天の父なる神様と、人類全体の一致の希望を捨てずに、歩んで行きたいのです。そしてまず教会が出来ることは、不完全ながらも、人間ではないものから受け取っているのか、互いを尊重しながら、吟味し合って歩んで行くのではないか。99匹ではなく1匹をも大切にするという、イエス様の譬え話が今、響きます。多数決主義に走らないように、全員一致は時間と忍耐を要します。教会を通して、イエス様の言葉を受けて共に、その長い忍耐の時を、歩んで行きたいのです。

 先日、長崎大学医学部の先生だった永井博士によります、被爆した時の状況を記録した『長崎の鐘』という著書の、出版の経緯がテレビで放送されていました。題名を『長崎の鐘』とする前の原稿では『戦争を防ぎ、原子力を平和的に利用して頂きたい一念から』と、執筆動機が記されてあり、題名を『原子時代の開幕』としていたそうです。しかし日本占領時の、連合国軍最高司令官総司令部の検閲により、すぐには出版許可が下りませんでした。結局、日本軍によるマニラ大虐殺の記録集『マニラの悲劇』との合本を条件に、1949年1月に出版されたとのことでした。原爆投下の責任を、日本軍の虐殺行為とで、均衡化する狙いがあったようです。しかし永井博士の意図は、人間の対立に、原子力が悪用されないように、警鐘を鳴らすことにありました。合本を、相当悩んだそうです。子どもたちには、対立の無い世界平和が、必ずやって来るとの希望を伝えて来たのに、それが嘘だったと思われたくない。失われない希望のために、まずは合本での出版を決断されたそうです。特に最後の『子どもたちに伝えた希望が嘘にならないように』という言葉に心打たれました。

 キリストの教会によって、子どもたちの希望のためにもある、この長い忍耐の時を、互いに吟味し正され続けてまいります。

聖霊降臨後第14主日

『人間のことを』マタイ16:21-28

今日の福音書の直ぐ前の所では、イエス様が、御自分についての評判を、弟子たちに尋ねていました。そこで出て来た名前を見ますと、みんなユダヤの伝統で、いわゆる終末と呼ばれる歴史の終わりに登場すると言われて来た人たちでした。更にイエス様は御自分のことを『人の子』と呼ばれ、弟子たちは『神の子』と呼びました。これらも、終末に登場すると信じられて来た『メシア』を指す言葉でした。このことから、イエス様は弟子たちに、終末の事に目を向けさせる意図があるのかなと、考えさせられます。

 そして今日の福音書の箇所です。いわゆる十字架の死と復活の予告の場面です。この出来事と終末を、重ね合わせようとされるようです。歴史の終わりと言われても、個人的にはなかなか身近に受け留められません。しかし私という個人の歴史の終わり、つまり私の死と置き換えますと、ぐっと身近になって来ます。これはもう自分の力ではコントロール出来ない。必ずやって来る。今は都合が悪いから、ちょっと待って、とも言えない事だからです。歴史の終わりも、まさにそうだと言う。そしてまた、歴史の終わりには、神様の裁きが伴うとも信じられて来ました。裁きと言えば、日本の伝統とも重なります。閻魔大王による、極楽か地獄かという裁きが思い浮かびます。今日の福音書の中でも『人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである』と記されてあります。

 そこでまず弟子たちは、そして今の私たちもそうですが、神様が裁かれるという自分の罪のことや、死ぬこと、裏を返せば生きることを考えさせます。また神様の目に相応しい生き方なのか、自分勝手なものなのか、そんなことも考えさせられます。聖書が言う罪とは、神様に背を向けた状態だと言います。そしてサタンとは、神様に背を向けさせるものだと言われます。今日の場面でも、弟子のペトロが『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』と戒められています。ペトロがこんなふうに戒められたのは、イエス様が、特に死ぬだとか、しかも周りの人たちにも聴かれてしまうかのよう話されたので、そんなイエス様を諫めたからです。その時のペトロの言葉です。『そんなことがあってはなりません』。直訳すると『神様はあなたを必ず守って下さるはずです』。とにかくペトロにして見れば、イエス様には今この段階で死んでほしくない。これからまた色々と、自分たちの願望を実現してもらわねばならない。そもそも神の子なんだから、神様は守ってくれるはずだ、ということでしょう。『死』が余りにも重すぎて『復活』のことは、耳に届かなかった程なのでしょう。

 この時のペトロは、イエス様の本当ことは、まだ分かっていなかったでしょう。そうであっても、とにかく、心から深く信頼し切っているお方だ。そのお方が、自分が描く筋書きとは違うかのように振る舞い始めると、慌ててしまうでしょう。ペトロのように、その慌てぶりを、正直に言えるのは、むしろ凄いなと思います。自分にとって、良かれと思う筋書きを脅やかすものは、苦難や悲しみや病気や死や、とにかく起こってほしくないことです。そんなことが無いように、信頼するお方は守って下さると信じて来た。しかしそうではないのかと、疑いや失望が湧き起こると、まずは何とか納得出来るようにしてくれと願う。それでも、もはや期待出来ないなと思うと、極めて辛いことですが、自分の筋書きを変更せざるを得ない。それはやっぱり不本意となれば、筋書きに沿わせてくれそうなものに、乗り換えるしかない。

 恐らくイエス様はここで、そんな人間の疑いや迷いを見据えて、次のように言われるのだと思います。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』。『自分の筋書きを持つ』ということは、そこに言わば生きる意味を置いているのだと思います。しかしイエス様について行くのは、まず自分の筋書きを、せめて脇に追いやって、気が付かなかった、あるいは無視して来た、別の筋書きを、問い続けて行くことなのか。そして『命』という言葉が、何回も使われています。今日はこの言葉を『生きる意味』という言葉に置き換えて見ます。

 先週、目も耳も不自由な、大学教授の福島智さんのことが、テレビで放送されました。9歳で視力、18歳で聴力を失い、通訳者の指で言葉を伝える『指点字』で、周囲とコミュニケーションをとるようになり、世界が広がり、障害やバリアフリーについて研究を重ねてきた。あの極限の苦悩のなかで、福島さんが点字で、友人に書いた手紙です。『この苦渋の日々が俺の人生の中で、何か意義ある時間であり、俺の未来を光らせるための土台として、神があえて与えたもうたものであることを信じよう。俺にもし使命というものが、生きる上での使命というものがあるとすれば、それは果たさねばならない』。

こうして苦悩の中に使命を見出そうとしていた時に、母親の令子さんが、点字を打つタイプライターの指の動きを参考に『指点字』を考え出した。孤独を癒すものがコミュニケーションであり、指点字による言葉かけが、光を一筋注いでくれた。これなら本当に、みんなの中に復帰できるなという思いから、次の詩を作った。

<ぼくが光と音を失ったとき、そこにはことばがなかった。そして世界がなかった。ぼくは闇と静寂の中でただ一人、ことばをなくして座っていた。ぼくの指にきみの指が触れたとき、そこにことばが生まれた。ことばは光を放ち、メロディーを呼び戻した>。

障害を持って生きるのは、何らかの苦悩を経験しながら生きることだ。けれども、その人生を生き抜くために、どんな状況でも自分が生きていることには意味があり、価値があると信ずる。そして近くに誰かがいる。その誰かは私の存在を気にかけている。私はあなたが生きていることを、あなたと一緒に喜びたいという、様々なメッセージを含んだ交わりがある。そして、苦悩の中で生きる上での力になる。苦悩を一生経験しない人はほぼいない。全ての人が何らかの意味で、苦悩を抱えて生きて、そして死んでいく。姿がない。声も聞こえない、だけど存在はある。そして言葉がある。苦悩とともに、どう生きるか。福島さんは今も、周囲の人たちとの交わりを通して考え続けている。

 今日の福音書の最後の、イエス様の言葉です。『はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる』。終末はそれが結果結論であっても、そこに至るまでのこの毎日には、結果結論は無い。どんなに良い事をしても、どんなに罪を犯しても、それが結果結論では無い。そしてまた、私の死という終末が起こっても、それは世の終末ではないだろう。

 私もキリストの教会によって、交わりを通して、苦悩と共に、あなたからの生きる意味を、一緒に問い質され続けてまいります。