からし種 449号 2026年10月
『わたしの名によって集まる』マタイ18:15-20
今日の福音書の箇所の少し前の所です。16章18節になります。イエス様に従って来ている弟子のペトロが、イエス様から『私のことを何者だと言うか』と問われて、神の子メシアだと告白しました。それに対してイエス様は『あなたがそのように告白出来たのは、決して人間的な経験や知識や願望や思い込みからではない。天の父なる神様からのものを受けて、告白させられた事だ』と言われました。そして、人間的な経験や知識や願望や思い込みに拠らず、父なる神様からのものを受ける者たちが集められて、それが教会となるとおっしゃられました。更には、集められた教会の全員が、父なる神様からのものを、100%受ける者たちばかりだから、その神様が持っておられる罪の赦しの権威は、同じようにその教会にもあると言われました。例えば99人は神様のものを完璧に受けていて、一人だけはそうではないとなると、神様と同じ罪の赦しの権威は、与えられていないことになる。多数決にはならない。しかし、この地上にある現実の教会は、99%どころか、50%も怪しいのではないか。そう考えますと、神様と地上の教会との一致は、もはや不可能ではないのかと思ってしまいます。
ところが今日の福音書は、神様と同じ権威を頂く教会であるように、その道筋を示してくれるようなのです。まず冒頭で『兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい』と、イエス様が言われます。この兄弟というのは、真っ先に思うのは、同じ教会の教会員ということでしょう。ですから、教会の中には、罪を犯す者がいることを、イエス様は前提とされている。それでも教会としてくれている。『あなたに対して』という罪とは、より具体的なもので、悪口を言ったとか、嘘をついたとか、暴力をふるった、ということでしょうか。それは結局、神に対しての罪なのでしょう。
忠告するとは『罪を認めさせる』と直訳します。とりあえず私という個人に対する罪ですから、陰口をされ、それだけに止まらずに、その結果、あらぬ濡れ衣を着せられて、計り知れない憤りを抱えさせられていたとしたらどうだろうか。果たして、忠告をする気持ちになれるだろうか。相手だって、100%自分のせいで、私との関係がこんな状態になっていると、自覚しているとは限らない。それなりの言い分もあるかも知れない。そうすると、忠告はスムーズに行かないのではないか。返って、火に油を注ぐ事になって、結局、けんか別れしてしまう事も多々あるのではないか。ただしここで『二人だけのところで忠告しなさい』と言われるのは、相手の問題ばかりではなく、逆に自分の振る舞いの事も、少しは考えさせられてしまうこともあるかも知れない。そうやって、この忠告し合う二人は、それぞれが何者なのかと、時間を要しても、建設的に考えさせられる機会となれば、地上の教会が神様の御心に沿う教会になって行くその一歩に、わずかでもなって行くのかも知れない。
そうは思いつつ、なかなか出来ない自分がありますが、実は今日の第一日課も気にさせられています。特にエゼキエル33章8節です。『わたしが悪人に向かって、悪人よ、お前は必ず死なねばならない、と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める』。忠告しなさいと言われても、腹を立てながら忠告したって、相手は聴く耳を持たないだろう。とにかくどういう状況であれ、自分の憤りを晴らすためではなくて、相手のために、立ち返ってほしいと建設的に忠告しなさい、と言われているとしたら、これはもう一人では出来ないと思ってしまいます。
そこで聖書は忠告を『聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい』と言われます。これは何となく、理に適っていると思います。当事者同士一対一で向き合ってしまうと、水掛け論になってしまったり、結局、けんか別れの可能性も大きいと思っている。そこに第三者のような立場の人が加わってくれますと、かなり冷静に話し合えるような気がします。しかしそれでも、悪い方向に向いてしまう危険性も考えてしまいます。結局、罪を押し付け合うことになって、どっちに誰が付くのか見たいにもなって、気が付けば教会の中に、仲良しクラブの派閥のようなものが、いくつか出来上がってしまう。聖書はここで『それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい』と言っていますが、人数が多くなればなるほど、返って分裂騒ぎまで起こされてしまうのではないか。それでは全く、神様の御心と一致する教会なんて、増々不可能なことになってしまう。しかしまたここでも、当事者に限らず、教会の一人一人が、自分が何者なのかを、考えさせられる機会にさせられて行くことになるのも否定出来ません。
そして最後に『教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい』と言います。ここは直接的には、ユダヤ人の兄弟姉妹に語る所なので、ユダヤ人にとっては、異邦人や徴税人は罪人と結論付けられていますから、交流は断たれている人たちです。その人たちと同様にするとは、つまり交わりを断つということです。ここでイエス様がそんな事をおっしゃられるのは意外です。全ての人たちの救いを完成させるお方だと思うからです。でもまずは、イエス様の事を、あれこれと解説評価出来る自分ではありません。地上の教会も同じです。ここはそもそも、この最終段階に至るまでの、三度までのそれぞれの段階で、本当に相手のために忠告出来ていたのか。それどころか、最初から相手を無視して、交わりを断ってしまう自分がいます。そしてそこには、だから祈りがあるのではないか。今日の最後の言葉が、改めて響いてまいります。そしてここに救いを見ます。『どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』。
この地上の教会に集められて、それでもイエス様は共にいて下さいますから、小さな所でも、相応しく忠告し合うことが出来るように、祈り合ってまいります。
聖霊降臨後第16主日
『仲間を憐れんで』マタイ18:21-35
三週間前の8/23日の主日礼拝では、福音書はマタイ16章13-20節でした。新共同訳聖書では『ペトロ、信仰を言い表す』という小見出しが付けられてあります。イエス様に従って来ている弟子のペトロが、イエス様から『私のことを何者だと言うか』と問われて、神の子メシアだと告白しました。そしてそのように告白出来たのは、人間的な経験や知識や願望や思い込みからではなく、天の父なる神様からのものを受けて、告白させられた事だと言われました。ところがその後、イエス様が十字架の死と復活の予告をされたとき、ペトロは、そんな縁起でも無い事を言わないようにと思って、イエス様を諫めました。それに対してイエス様は、ペトロをサタン呼ばわりして、あなたは人間のことを思っていると戒められました。イエス様は、御自分のことを何者だと、人々は言っているのかと尋ねられましたが、それは裏を返せば、弟子たちやまた人々は、自分自身を何者だと思っているのかと、問われているようです。そう考えますと、ペトロの姿とこの自分自身が、同じ者であるかのように重なって来るのです。ペトロは『あなたは神の子、メシア』だと答え、それは父なる神様から示された事だと言われましたが、それでもどこかに、ペトロ自身の人間的な願望や思い込みもあったのでしょう。だから、イエス様が死ぬなんてことを聞いて、自分の思いとは違うので諫めた。それにしてもそんな思いを黙っていないで、よく口に出せたなあ、とは思います。良くも悪くも、信仰者にありがちな熱心さも考えさせられます。
そこでペトロは、叱られたままでは終われないと思ったのでしょうか。今日の福音書の場面になります。それまでにイエス様は、罪の赦しについて教えられて来ました。ここで名誉挽回とばかりに『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』と尋ねました。赦しの出血大サービスです。今度こそ文句は言われないだろう、そんな意気込みも伝わって来るようです。ところがそんなペトロの意気込みを挫くかのように『七回どころか七の七十倍までも赦しなさい』と言われたのです。罪を被った怒りを、耐えて耐えて、何とか七回までは赦せばいいだろうと思ったのに『七の七十倍までも』と言われてしまった。赦しと忍耐はセットのように考えがちですが、次の天の国の譬えから、では、誰が誰のための忍耐なのか、考えさせられます。
譬えの内容は、王様に、莫大な借金を負っていた人が、それを帳消しにしてもらった。ところがその彼が、今度は、自分に借金をしていた仲間に出合って、返済猶予を願ったのに、それを拒否した。そんな経緯を見ていた他の仲間たちが、王様に一部始終を報告した。王様は怒って、仲間の返済猶予を拒否した彼を、牢屋に入れたというものです。王様は神様、家来は人間、借金は罪、ということなのでしょう。この譬えの始まりは『ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした』という所からです。これを今の私たちに当てはめますと、私たち人間は、神様に罪を犯している者だ、ということが大前提になっています。自分はそういう神様に対する罪人かどうか、まず考えさせられます。続けて、そのままで、生きられる者かどうか。生きられないなら、どうすれば罪赦されるか。赦された後の生き方はどうなのか。
今日の譬えの中で、印象深い所があります。改めて聖書から引用します。マタイ18章31節『仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた』。あれだけの借金を帳消しにしてもらった人間が、今度は仲間の僅かな借金の、返済猶予を拒否するなんて、あり得ないじゃないか。感謝の思いは無いのか。自分だったら、喜んで仲間の返済を待てるようになるんじゃないか。帳消しにしてあげても良いとさえ、思う者は思うかも知れない。もっとも、無責任な傍観者のつぶやきかも知れません。ただここで、もう一つ考えさせられることがあります。罪を借金というお金に譬えていることです。神様に対する罪は、もはや絶対に返済不可能な、莫大な借金に相当すると、心から感ずるかどうか。そしてまた、それに比べたら、人間同士の間での罪は、それ程のものではないから、七の七十倍までも赦せるだろう。でも、そうとは行かないのが現実です。借金は、借りる方は1円でも無しになるのは嬉しい。貸す方は1円でも無駄なく返してほしいと思う。これがまた罪に置き換えますと、自分は100万円に相当する罪を被ったと思っているのに、相手は10円程にも思っていない。これじゃ赦せるはずが無い。また傍観者的立場になると、100万円は大げさだよ、千円位じゃないの、今回は見逃してあげたらと、言えてしまう。ところが当事者になると、たとえ千円だとしても、見逃すわけには行かない、ということになってしまう。人間同士の罪は、神様から見れば五十歩百歩なのに、人間の側では、明確な優劣があるのです。
先日、ある幼稚園の園長先生が、少し配慮が必要なお子さんがいるクラスで、教員の補充がしばらく出来ないでいて、それを知ったその子の保護者から、そのための加配の補助金を貰っているのではと、クレームがあって悩んでいるとおっしゃられていました。私も他人ごとでは無いなあと聞いておりました。それぞれの立場で言い分があって、なかなか解決しない。どこかで折り合わなければならない。権利の主張のし合いばかりでは、社会がギスギスしてしまうなあと思いました。いずれにしても私たち人間は、一人で生きているのではなく、大勢の中で生きています。ちょっと街に出たり、電車に乗れば、それを実感させられます。結局、互いに迷惑を掛け合って生きている者です。その迷惑を互いに赦し合って、寛容を働かせて行きたいのです。聖書から聴こえて来る、罪の赦しから見れば、余りにも小さな小さな、次元のものかも知れません。でも毎日毎日、繰り返し起こし、起こされる迷惑です。そこから寛容をもって、赦しを現わして行きたい。附属幼稚園の子どもたちから、毎日『ごめんね。いいよ』という声を聴かされています。自分も出来るようになろうと、勇気を与えられています。
今日聖書から示された、罪と人間との根本的な課題について、自分は神様に対して罪人、しかし、罪人のままで生きられるのか、だめなら、どうすれば罪が赦されるのか、キリストの教会によって、共に吟味し続けて行こうではありませんか。
聖霊降臨後第18主日
『分からない』マタイ21:23-32
いわゆるユダヤ教徒であるユダヤ人にとっての、信仰の拠り所は聖地エレサレムであり、そこにあるエルサレム神殿でした。イエス様はそこで宗教指導者として、過激とも思われる教えや行動をされた。それで、ユダヤ教の指導者たちからは、強い反感も買っておられた。今日の福音書に出て来る、祭司長や民の長老たちというのは、まさにその指導者たちでした。そんな彼らが『何の権威でこのようなことをしているのか』と詰問しました。彼らが言う『こんなこと』とは、直接的には今日の福音書の箇所の直ぐ前の、マタイ21章12節以下のことでしょう。神殿の境内で働いていた両替人や、神殿での礼拝で、犠牲の供え物として捧げられるための、鳩など動物を売っていた人たちを追い出されたのです。当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地下でした。そこに流通するローマの通貨は、神の子と自称するローマ皇帝の像が刻まれていました。神殿礼拝で捧げられる献金には、そんな冒涜的な貨幣は使えません。ユダヤの貨幣に両替する必要がありました。また神殿礼拝には、遠方からの巡礼者もいます。動物は連れ歩けません。神殿に犠牲の供え物用の動物があれば助かります。ユダヤ人の信仰生活にとって必要不可欠なものを、否定するかのような、イエス様の過激な行為でした。ですから教団の指導者たちは『だれがその権威を与えたのか』と、問わざるを得なかったのです。これは、イエス様に従って来た弟子たちにとっても、信仰を揺るがされるような行為だったでしょう。それだけに、むしろ、これだけは伝えたいと言う真剣な、命を賭ける思いが、この行為にも込められているようです。
大きな波紋を引き起こしたイエス様です。しかし何の動揺も無いかのように、逆に問い返します。『ヨハネの洗礼はどこからのものか』。むしろここに真の権威が隠されているようにも思います。『ヨハネの洗礼』とは、マタイ福音書3章1節以下に記されている、洗礼者ヨハネのことです。イエス様が本格的に宣教活動をする前に、そのイエス様の登場を前触れした人物です。彼は悔い改めの徴としての、水の洗礼をヨルダン川で授けて、イエス様をお迎えする準備をしなさいと宣言しました。このヨハネのことは、旧約聖書で預言されていた、昔の預言者エリヤの再来だと言う人々もいました。それで『天からのもの』か『人からのもの』かと、問い返されたのです。ユダヤ教の指導者たちは、どっちに転んでも、イエス様に上げ足を取られると考えて『分からない』と答えました。
指導者たちが言う『権威』とは、そして私たちもそうかも知れませんが、言わば『人を強制的に従わせる』力のようなものを考えます。強制的な権威が働いて、人間社会の秩序が保たれるのです。その強制的権威は『天から』のものと言われても、人を苦しめる場合もあります。『人から』のものと言われても、安心して生活出来る場合もあります。指導者たちは、自分たちの立場を守って、上げ足を取られないように『分からない』と答えました。しかし『天から』とか『人から』とか『あれ』か『これ』かでは、答えられないこともあるのではないか。彼らが『論じ合った』というのは、思い巡らして、心の中でも対話して、必要なら考え直すことも出来た。その結果なら、本当に『分からない』でも良かったのではないか。もっとも指導者たちが、本当に『分からない』とは、知られたくないことも、想像出来ます。
イエス様は神殿で、まさに強制的な力ずくで、ユダヤ教団のしきたりを排除した。その結果、増々、指導者たちの反感を買い、十字架の死への道を、早めさせた。しかしまたむしろそのことで、本当の権威を示そうとされたのではないか。それは、強制的力ずくではなく、自発的に動かされてしまうような、イエス様の権威なのではないか。今日の第二日課フィリピ2章6節以下は、伝統的に『キリスト賛歌』と呼ばれている所です。その中で特に、次の言葉が印象的です。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』。イエス様が教え現わして下さる真の権威は、身を低くして、共感して、寄り添い続けて下さる所に示されるのです。
この後の今日の福音書では『二人の息子のたとえ』が話されます。兄と弟がそれぞれ、ぶどう園へ行って働きなさいと言われました。兄は最初は拒否しましたが『後で考え直して出かけた』。弟は承知したのに、出かけなかった。『後で考え直して』という言葉に注目させられます。この言葉は、もう一回出てまいります。兄は先に生まれた者ですが、父の命令に対しては後のものになり『後で考え直して』先になります。弟は後に生まれた者ですが、父の命令に対しては、まずは先のものになり、それから後のものになります。『この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか』と、尋ねられました。彼らは『兄です』と答えました。このやり取りにも注目させられます。彼らとは『祭司長や民の長老』たちでしょうか。しかしこの場にいた弟子たちや、この今の私たちでもあると思います。『兄です』と答えましたが、それに対するイエス様の、直接的な応答が無い。余韻を感じます。
そして、話題が代えられて『徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう』と、おっしゃられました。『徴税人や娼婦たち』は『あなたたち』が罪人として、断罪して来た人たちです。この『あなたたち』とは『祭司長や民の長老』たちなのでしょう。しかしこの場にいた弟子たちや、この今の私たちにも、無関係ではないのではないか。『徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入る』理由は、ヨハネが示した義の道を、信じたからだと言います。このヨハネは、冒頭でも触れました、洗礼者ヨハネの事です。彼は先に登場しましたが、後から来られるイエス様を前触れして、後のものになります。そんなヨハネのことをイエス様は、次のようにもおっしゃられています。マタイ11章11節『およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』。ここにヨハネという人間を通して示された、義の道が表されているように思います。そして今日のイエス様の、最後の言葉が印象的です。『徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった』。ヨハネを信じなくても、ヨハネを信じた人を見て、後で考え直して信じればいい。先になり後になり、後で考え直して、先になる。
キリストの教会のキリストの権威によって、互いに共感し互いに寄り添い、後で考え直しながら、先になり後になり、導かれてまいります。