からし種 450号 2026年11月

聖霊降臨後第19主日

『自分たちのことを』マタイ21:33-46

今日の福音書は『もう一つのたとえを聞きなさい』という言葉で始まっています。ということは、その前にもたとえが語られていたわけです。今日の福音書の直ぐ前、マタイ福音書21章28節以下の『二人の息子のたとえ』という箇所です。そこでは『後で考え直して』と言う言葉に、注目させられました。この二つのたとえが語られた相手は、直接的には、祭司長やファリサイ派という、いわばユダヤ教の指導者たちでした。ユダヤ教団で大切に守られて来た教えや規則を、イエス様が無視したり、時にはそれらを排除するかのような振る舞いをして来たので、彼らは強い反感を抱き始めました。最後は逮捕して、十字架に掛けることになるわけです。しかし今の時点では、群衆の間ではイエス様は、好感が持たれていたので、下手に手を出せば、自分たちが危うくなると思っていた。群衆が好感を持っていると言っても、本当のイエス様の事は、分かっていなかったでしょう。そこでイエス様は、ご自身が何者であるのか、同時に祭司長やファリサイ派の人たちも、そして今の私たちも、自分が何者であるのか、たとえを通して考えさせて、気づかされて行くように導かれるのです。イエス様が何者であるのか、1+1=2のように教え込むことは出来ない。しかも短時間で、回答を得るようなわけには行かない。自分が疑問を持って、そのたとえの中の当事者になることも必要かも知れない。たとえ、時間がかかっても、そこから見えて来るものがあるのではないか。

今日のたとえですが、家の主人がぶどう園を作って、農夫に貸して旅に出た。そして収穫の時が近づいたので、それを受け取るために、主人は僕たちを送り込む。しかし、農夫たちは僕たちを、繰り返し排斥した。そこで主人は、一人息子を遣わした。しかし、それさえも農夫たちは殺してしまった。そこでイエス様は尋ねます。『ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか』。このたとえを聞いた者たちは、答えました。『その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を収めるほかの農夫たちに貸すにちがいない』。今日この聖書を読む私たちも、どう答えるのでしょうか。私も聖書と同じように答えるでしょう。ただ、余りにも答えが明白過ぎると申しますか、当たり前過ぎる。もっと別の答えが求められているのだろうかと、勘ぐってしまう程です。

いくつかその勘ぐりを並べます。まず『その悪人ども』という呼び方が、やけに過激だなあ、と思いました。確かに何人も農夫たちを虐殺したり、一人息子までも殺害したのは、極悪人だと私なんかも思うでしょう。しかし、そんなに憎々しげに思う相手ですが、それでもこんな自分が、そこまで決めつけて良いのだろうかと、ちょっぴり躊躇いもあります。更には『ひどい目に遭わせて殺し』と、主人の仕打ちの方法まで決めています。当然と言えば当然だと、私も思います。ただ、どんな仕打ちをするかは、やっぱり主人が決める事です。殺すか殺さないかも、主人が決める事です。もしかしたら、この主人は、殺すまではしないかも知れない。最後には『貸すにちがいない』と、主人のその後の振る舞いまで、自分たちの思った通りにするだろうと、断定までしている。確かに、何か法律を破ったり、しかもその違反の程度が余りにもひどい時には、感情的な憤りも伴って、当然のように違反者を罵倒してしまいます。それでも自分は家の主人なのか、そんな心の声も聞こえて来るようです。

こんな彼らの返答に対して、イエス様は、直接的な反応は、全く見せていません。むしろ意識して、反応せずに、別の話題に入るかのように、聖書を引用しておっしゃられるのです。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える』。詩編118編22-23節からの引用です。家を建てる者が、これは役に立たない、悪い石だと言って捨てたものを、主なる神様は、家全体を支える最も重要な土台石としてお用いになる、という大逆転の働きをなさる神様の、賛美詩編です。恐らく祭司長やファリサイ派の人たちは、いわゆる信仰熱心な自分たちですから、当然正しい者だと確信しているかも知れない。一方、律法を守れない、いわゆる不信仰だと言われる徴税人や娼婦や外国人は、当然神様から見放されていると思っているかも知れない。ところがイエス様は、この詩編に続いておっしゃられた。『神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる』。

更には、この詩編にある隅の親石に落ちる者は砕かれ、この石が上から落ちて来れば、押しつぶされる、とおっしゃられた。そこで祭司長たちやファリサイ派の人々は、このたとえを聞いて、自分たちのことを言っていると気づいた、というのです。気づいた結果、イエスを捕らえようとした。『隅の親石に落ちる者は砕かれ、この石が上から落ちて来れば、押しつぶされる』と言う言葉は、イエス様を否定する者には、攻撃的に聞こえるのでしょう。だから、相変わらず自分たちは正しい者だと思っているかも知れないし、少しは心の揺れもあったのかも知れません。しかし、後で考え直して、肯定的に考えて見るとどうだろうか。自分の傲慢を打ち砕き、押しつぶしてくれる、そんな隅の親石なのではないかと思えて来る。悪人を悪人のままには、絶対にしない。捨てられた者が、神様のご用のために、応えて行く者になるように、この隅の親石は造り変えて下さる。そんなお方を、たとえておられるようにも示されるのです。イエス様は何者なのか。それは隅の親石のようなお方なのだ。そして伝統的に教会では、イエス様は、神であり、同時に人である、と告白します。この歴史社会に生きる人間の側に、神の方から近寄って、共感して寄り添うために、人となられた。そのイエス様は神であり、だから歴史的時間を超えて、永遠に教会を通して、キリストの言葉によって、共感し寄り添い続けて下さっている。ヨハネ福音書1章1節の言葉が思い起こされました。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった』。

キリストの教会によって、今なお自分の中にある傲慢を、打ち砕かれ、押しつぶされ続けながら、このぶどう園という歴史社会の中で、傍観せずに当事者として、備えて下さっている神様のご用のために、そして他の人々のために、応え続けてまいります。

宗教改革記念主日

『イエスを試そうとして』マタイ22:34-46

今日はルーテル教会の名前の由来にもなっておりますが、1517年10月31日に、ドイツ人修道士のマルティン・ルターが、当時のカトリック教会に95項目の信仰に関する意見書を差し出したことから始まった、いわゆる宗教改革運動を記念する日曜日礼拝になっております。どんな信仰の問題かと申しますと、大きな事は免罪符の販売です。このお札のようなものを買うという、見た目で分かる行為があれば、たとえ心の中は神様に背を向けていても、救われると思ってしまう、そんな信仰の在り様をルターは問題視したわけです。免罪符が売られる一つのきっかけは、ペストという感染症が繰り返し流行っていて、不治の病でもありました。病気は罪による神の怒りの裁きだとして、当時の教会は免罪符を売ることで、人々が抱く死と裁きの恐怖を慰めることを考えたのです。建設的な話し合いを意図していましたが、結局、ルターは教会から破門され、プロテスタントと呼ばれる、新しいキリスト教の教派が産まれることにもなったわけです。この改革運動は、目に見えない心の中の信仰の在り様が問われるものですから、この改革は今も、一人一人の中に起こされ続けるものでしょう。こうして、毎年、このような記念主日も守るように備えられているのは、大きな慰めです。

そこで今日の福音書です。ユダヤ教の教派として、ファリサイ派とサドカイ派の人が出て来ます。互いに反発し合っていました。そんなサドカイ派の人がイエス様に言い込められたと、ファリサイ派の人が聞きつけて、チャンスだと思ったのでしょう。律法の専門家はファリサイ派に属していましたが、彼がイエス様を試して言い込めれば、ファリサイ派の優越性の宣伝にもなると思ったのでしょう。神様の前に正しく信仰生活を送るために、律法と呼ばれるたくさんの条文化された掟が定められていました。どの律法も大切です。その中でどれか一つを取りあげて、それが最も大切だと言えば、どうしてそれなのか、こちらの律法は大切ではないのかと、議論に巻き込まれるでしょう。そんな議論にイエス様を引きずり込めば、言い込められると思ったのでしょうか。ところがイエス様は二つだけを抜き出して『律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』と言い切ったのです。そもそも条文化されたマニュアルのような律法なら、あの免罪符と同じように、見た目で守っているかのようなふりは出来るでしょう。しかしこの時イエス様が抜き出した掟は、一つは『あなたの神である主を愛しなさい』。もう一つは『隣人を自分のように愛しなさい』というものでした。見た目では解決出来ない、まさに心の中が問われるような掟です。

神様を愛するとは、どうすれば良いのだろうか。マニュアルでは嘘っぽい。だから、それぞれに考えさせられる。それが大切です。私は次のように考えさせられています。神様だけが唯一絶対。裏を返せば、この自分は絶対ではない。全ての律法を守ろうとする時に『この自分は絶対ではない』とする。隣人を愛するとは、どうだろうか。まず、どうしてこの掟をイエス様は、二つ目に持って来たのだろうかと考えました。創世記1章に拠れば、人は神様によって造られ、神に生かされている者だと言う。しかも神様が創られた全ての被造物の、管理をする使命も与えられた。神に生かされ、神の使命を受けている人だから、互いに尊敬し合う。そして、 それぞれ自分にとっての隣人とは誰かを、一人一人が問うように促されている。私は、この水平的同時代の人々の中で、愛する隣人に出合うだけでなく、垂直的世代の中でも、愛する隣人に出合うように、受け継いだものを引き渡して行くように促されます。丁度、来週の11月1日は先人を偲ぶ全聖徒の日です。まさに縦に遡って隣人を愛します。そして戸塚ルーテル教会は附属幼稚園が与えられています。縦に降って未来の隣人たちをも愛します。結局、隣人を愛するとは、神を愛することであり、神を愛するとは隣人を愛すること。二つは一体的だと示されます。

そしてこの二つの掟から、それぞれが考えて現わされるものは、時と場によっては、見た目は異なることもあるでしょう。『律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』とありました。『律法全体と預言者』というのは、言わば聖書のことでもあります。聖書を読む時には、この二つの掟に基づいて読む。これも信仰に関わることです。だから、聖書を読んで、聞こえて来る神の言葉は、自分の都合には拠らないでしょう。今日の福音書の後半では『ダビデの子についての問答』という小見出しが付けられてあります。人々の理解では、メシアはダビデの子という人間の王様のようなお方だとされて来ました。しかしイエス様は、詩編110編1節を引用して『ダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか』と問いかけました。メシアとは何か。あるいは誰か。神か、人か。もう一度二つの掟に基づいて、聖書を読むように促されます。

毎週水曜日の聖書研究会では今、ルーテル学院大学の江口再起先生の論文の『コロナ-人類・ルター・教会』を読み合わせております。その中でルターとペストとの関わりも、言及されております。ルターも二人の弟をペストで亡くしました。それだけにペストによる死の恐怖は、ルターも大きかったようです。それでもルターは、何回も自分の住む町がペストに犯されても、その度に自分の住まいを、ペスト患者のために開放していたそうです。当時の医学的見地では、どこに逃げても結局は死は免れない。ならばここに居て、少しでも他者のために、今出来ることをして行こうと、ルターは思ったのでしょうか。ルターが1528 年に作詞した讃美歌『神は我が櫓』は、そんなペスト蔓延の時の死の恐怖と苦悩の中で作られたものだそうです。ペストに襲われた町から避難すべきかどうかを、一人の牧師から尋ねられて『人は死から逃れることができるのかどうかについて』という論文の中で、ルターは次のように答えています。『一方に、神を信じ避難しない人がいる。それはそれでいい。しかし、その人も避難する人を非難してはいけない。また避難せずとも自分は大丈夫だと神を試すような態度もよくない。他方、自らの信仰に確信が持てず、またそもそも危険ゆえに避難する人もいる。それもそれでいい。なぜなら、神から与えられた命を守ることは大切だからである。つまり避難すべきか否か、そこに本当の問題はない。本当の問題とは、牧師や医者や役人、つまり他者に責任がある者は、町に残された人々の安全が保障されていれば別だが、避難すべきでない。死者が出はじめたら、そこに留まり協力しあって慰め合うべきである。とくに他者と深くつながっている責任ある者は、町を去ったり、逃げだすべきでない。・・本当に問題なのは、信仰に基づいた責任と隣人への愛なのである。・・神への信仰と隣人への愛は一つのことなのである。責任と隣人愛。そこを軸として、ある場合は避難するであろうし、ある場合は避難しない。これが、ペスト問題への神学的見解である』。そして私は、これが宗教改革の神学的理解だとも示されています。

イエス様の神を愛し、隣人を愛する。この二つの掟によって、与えられた信仰を繰り返し問い質され、祈り、生かされてまいります。