からし種 389号 2021年10月

聖霊降臨後第15主日

『それほど言うなら』マルコ7:24-37

 先週の福音書から、当時のユダヤ教の教えによれば、異邦人あるいは異教徒は汚れた人間なので、交わりを避けなければならないということでした。もし交わるようなことがあれば、その汚れを取り除く方法儀式も教えられていました。しかしイエス様は、汚れの事を問題とするならば、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、全ての人間は等しく汚れているのだとおっしゃられました。

 今日の福音書は、その汚れた人間たちが住んでいる異邦人の土地が舞台になっています。イエス様がその地に行ったのです。何のために行ったのか。マルコ7章24節『ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられた』と記されてあります。これまでの伝道活動に、心身共に疲れたので、静かな所で祈りの時を持とうとしたのかも知れません。そのためには、異邦人の土地なら、ユダヤ人の知り合いもいないだろう。何故なら、ユダヤ人なら誰もその土地には、用もなく追いかけては来たくないだろう。ただし、マルコ3章8節によれば、この異邦人の地にも、既にイエス様の事は知れ渡っていたようです。むしろ異邦人が押しかけて来る事は想定出来た。それにしても『ある家』というのは、既に異邦人の中に、イエス様に協力する弟子のような人間がいたんでしょうか。

 案の定、イエス様が来られていることが、人々に気づかれてしまった。そんな中に『汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した』ということです。この女性はギリシア人でした。そして『娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ』のです。ひれ伏して頼んだ、というのは非常に印象的です。その意味は、心底、相手を尊敬し尽しているのか、反対に徹底的に媚びへつらって、利益を勝ち取ろうとしているのか、両方に考えられるわけです。イエス様が奇跡的な癒しの業を行うのは、あくまでも一人一人の信仰に関わるためです。奇跡の業で、人々に偉大な自分を見せびらかすためではありません。イエス様の奇跡の業を目の当たりにした人間の反応は、それぞれでしょう。『ああ、すごい人だ。今度なんかあったら頼んでみよう』と、単なる苦しい時の神頼みのような存在にしている人々もいたでしょうか。あるいはもっと踏み込んで、信仰の問題にまで掘り下げられる人々も出て来るでしょうか。この時のギリシア人の女性は、どんな反応をする者なのでしょうか。ちょうどイエス様と、一対一で向き合う機会を得たのです。これが信仰に関わる場です。そこでイエス様は、会話を始められます。

 マルコ7章27節『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』。イエス様は信仰に関わる会話には、よく譬えをお用いになります。話しかけられる者は、その譬えの中に、自分を当事者として置くように促されます。しかもどの位置に置かれるのかも考えさせられます。この譬えの解釈として、子供はユダヤ人で、パンはイエス様の言葉で、小犬は異邦人を指していると、しばしば言われます。聞きようによっては『なんだ、イエス様も異邦人を小犬呼ばわりなんかして、異邦人を差別しているじゃないか』という声も聞こえます。そこでギリシア人の女性は応えました。マルコ7章28節『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』。『異邦人である私も、パン屑はいただけるでしょう』と返したこのギリシア人の女性の、謙遜と機智に富んだ応答に、イエス様も感心して、女性の娘を癒されたという解釈もあるようです。

 しかしここは、イエス様が大切にされている一対一の、言わば信仰問答の場面です。そしてあたかも、試験官のようなイエス様と、それにうまく答える受験生、という構図ではない。イエス様の信仰問答は、お互いの信頼関係の確認の場ではないのかと思うのです。何回かこの場で引用して来たことですが、『信じる』ことは愛することです。相手に心を差し出すように、信頼することです。このイエス様とギリシア人の女性とのやり取りには、まさに愛と信頼が滲み出ているのです。イエス様はここの譬えに、食卓を囲む子供を取り上げています。ギリシア人の女性は母親です。母と子の食卓の風景は、このギリシア人の女性にとっても、馴染みあるものでしょう。しかも小犬が登場しています。ギリシア人の家庭では古くから、どちらかと言うと裕福な家庭になりますが、ペットとして飼い犬も家族の一員としていたようです。食事の時間には飼い犬も、食卓の下に控えるのも許されていたでしょう。イエス様はそんなギリシア人の生活習慣をご存じなのです。しかも微笑ましい光景と思われていたと思うのです。一方、ギリシア人の女性も、ユダヤ人の風俗習慣を知っていたのでしょう。ユダヤ人にとって犬は汚れた存在でした。ですから飼い犬もいないし、牧畜用の牧羊犬もいなかったそうです。しかしこの食卓の譬えを聞いたギリシア人の女性は『ああイエス様は、こんな私たちの事をよく知っていて下さる』と、信頼しているが故に、あの答えをしたのです。食卓の下に落ちたパン屑に飛びつく小犬を、どのような思いで、家の主人は眺めるでしょうか。『こいつ、主人の許しもなく食べおって』と、怒って、慌ててパン屑を払いのけるでしょうか。そんなことはしないのです。『あーあ、食べちゃって。そんなに食べたかったのね。かわいい子ね』と、益々慈しむんです。小犬も主人はそうしてくれると、最初から信頼しているんです。何があっても、決して断たれることのない信頼関係が既にあるわけです。

ギリシア人の女性は、同じように、イエス様に愛と信頼を最初から置いているんです。そしてイエス様は次のように語りかけました。マルコ7章29節『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった』。ギリシア人の女性は家に帰りました。娘は癒されていました。ギリシアは神々の世界です。様々な役割を持った神様がいて、人々はご利益を求めて、それぞれの神様にひれ伏すのです。もしこのギリシア人の女性も、相変わらずそんな状況に置かれているとしたら『家に帰りなさい』という言葉だけで、目の前に何も起こされないまま、娘の癒しを信じて帰ることが出来ただろうか。

先ほどの、イエス様の譬えの中で、あたかも、ユダヤ人の救いが先で、異邦人は後回しだ、みたいに聞こえる節もありました。しかし今日の福音書の後半も、その舞台は異邦人の土地です。そしてここに登場する人々も、異邦人だと考えます。ここでは耳も言葉も不自由な人が、イエス様の所に人々が連れて来て、手当てを願います。人々の中にはそこに、不思議な奇跡の業を、まるで見世物のように、期待している者もいたかも知れません。しかしイエス様は、その不自由な人だけを、群衆の中から連れ出します。まさにここでも、単なる癒し行為ではなく、一対一の信仰に関わる出来事が、繰り広げられるのです。マルコ7章33-34節『指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、エッファタと言われた』。生まれつきの耳の不自由な人や目の不自由な人は、ユダヤでは、何かの罪の現れであるように見なすことがありました。異邦人の間でも、似たようなことはあり得たでしょう。しかしイエス様は、丁寧に、その不自由な人に触れられました。唾をその舌に触れられた時には、むしろ触れられた人は、どのように思ったでしょうか。しかしこにもお互いの、愛と信頼が強く浮き彫りにさせられるのです。そしてまた、それは、不自由を強いられている人だからそうしたわけではなく、全ての人間に等しく丁寧に、イエス様は関わられるのです。一方、群衆は案の定、口止めされたにも関わらず、この奇跡の出来事を、見世物のように、言い広めたのです。

様々な条件や制約を考えてしまう私たちですが、イエス様との出会いは、そんな人間の思惑を超えて、今やキリストの教会によって、必ず一対一で向き合う時と場所が、備えられていると信じます。

聖霊降臨後第16主日

『福音のために』マルコ8:27-38

 今日の福音書は、まず冒頭のところでは、人々のイエス様に対する評判を、イエス様が弟子たちに尋ねています。『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』。評判ですから、それぞれが見聞きした事を踏まえながら、これまでに登場した、いわゆる偉人と思われる人たちとも、人々は比較していたのでしょう。『洗礼者ヨハネだ』とか『エリヤ』だとか『預言者の一人だ』とか、旧約聖書に登場したり、預言されているような人たちが含まれていました。

 続いて今度は、弟子たちにも同じように『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と、イエス様は尋ねられました。今『同じように』と申し上げましたが、ここは、色々な評判がある中で、どの評判が正しいかを問われているわけではありません。あるいは、弟子たち自身が、どんな評判を抱いているのか、それを問うているのでもありません。評判は、対象となる人を、ただ客観的に、評論家的に評価するだけのものです。しかし弟子たちに対するイエス様のこの問いかけは、どんな評価をすれば良いのか、というものではないはずです。新共同訳聖書では、この場面には『ペトロ、信仰を言い表す』という小見出しが付けられてあります。ペトロの、いわゆる信仰告白の場面だ、というわけです。ここで、評価と信仰告白との違いを考えさせられます。評価は一方通行的です。ただ一方的に、相手を評論すればいいのです。ところが信仰告白とは、いわゆる双方向の対話の中に与えられるものです。イエス様はここで『あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と問われました。この問いの向こうには『わたしはあなたがたを何者だと言うのか』という問いが込められているはずです。別の言い方をするならば、イエス様が何者だと問うことは、同時に、自分は何者だと自分に問うのです。ペトロはこの時『あなたは、メシアです』と答えました。評判としては、大正解だったかも知れません。しかしこの時のペトロは、聖書には書かれてありませんが、果たして『自分は何者なのか』と問うたでしょうか。その答えは、次の場面で明確になります。

 次の場面はイエス様が、いわゆる第一回目の、これから引き起こされる十字架の死と復活の出来事を予告されたところです。マルコ8章32節『しかも、そのことをはっきりとお話しになった』と、わざわざ聖書は念を押しているようです。それに対してペトロが、恐らく『そんな縁起でもないことを、こんな所で大っぴらに言わないで下さいよ』ぐらいに言ったのかも知れません。そんなペトロに向けて、しかも『弟子たちを見ながら』ということです。ペトロだけの問題ではないと、イエス様はおっしゃられるのです。そのイエス様の言葉から『ペトロが何者であるのか』が明確にさせられるのです。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』。ペトロは今、このような者だと、と言うのです。『あなたは今、サタンの後に従っている者だ。神のことを思わず、人間のことを思っている者だ』。

ここで、サタンとか、神のことよりも人間のことを思っているという言葉から、荒野で40日間に渡って、イエス様がサタンから誘惑を受けられたという出来事が思い起こされます(マタイ4章1-11節,ルカ4章1-13節)。ここにサタンの後に従う者が、人間のことを思っているという、三つの『人間のこと』が露わにされているのです。マタイ福音とルカ福音書に詳細が記されてあります。一つ目は、石をパンに変えるという誘惑から、信仰も大事だけど、食わなきゃ何事も始まらないではないかという、信仰の建前化という『人間のこと』です。二つ目は、高い塔から飛び降りても、神様は守ってくれるでしょうという誘惑から、神様を試してしまうという『人間のこと』です。三つ目は、サタンでも何でも取り合えずひれ伏して礼拝すれば、全世界が手に入れられるという誘惑から、自分の欲望達成のために神様を利用するという『人間のこと』です。『あなたは、メシアです』と答えたペトロも、恐らくこの三つ目の『人間のこと』を思っていたのかも知れません。

 先週の聖書の箇所を思い起こします。ギリシア人の母親が、娘の病気の癒しを、イエス様に願い出ました。その時にイエス様から、次のような譬えを投げかけられました。マルコ7章27節『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない』。『小犬のような、汚れたギリシア人ではなくて、大切な子供である、ユダヤ人の救いのために私は来たんだ』みたいに聞こえてしまいます。ところがギリシア人の女性は、次のように応答しました。マルコ7章28節『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます』。まさにイエス様との双方向の対話です。そしてここに、ギリシア人の女性の信仰告白が示されます。『おっしゃる通り、私は小犬のようなものです。与えられていなければ、何も出来ない存在です。でもあなたは、そんな者でも、いやそんな者だからこそ、愛して下さっています』。自分が何者なのか、この女性ははっきりと告白しています。

 今わたしたちは、自分を何者だと言うのでしょうか。あのギリシア人の女性の告白は、全く別物なのでしょうか。小犬だなんて、そんな取るに足らない者ではありません、と言うのでしょうか。れっきとした、言葉も話す理性に満ちた、有能な人間ですよ、と言うのでしょうか。しかしそうなんだろうか。イエス様は今日『群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた』と言うのです。それはあたかも、全ての人間に向けて語られている、ということでしょう。マルコ8章34-35節『わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』。

 あの時のペトロのように、サタンの後に従うのではなく、わたしの後に従いなさい、と言う。イエス様の後に従うとは、自分を捨て、自分の十字架を背負うのだと言う。捨てなければならない自分とは何か。それは言わば偶像化された自分だ。本音では何でも獲得出来る自分の力を信じ、信仰は建前のように神棚を棚上げしている、そんな偶像の自分だ。あるいは神様とはこうあるべきだと決めつけて、神様を試している自分だ。あるいは信じていると言いながら、自分の欲望達成のために、神様を利用するように、無意識にも神様を自分の後に従わせてしまう自分だ。それが偶像の自分だと言われても、自分にとってはそれが、真の自分だと、相変わらず思ってしまう自分がいる。それを捨てるには、計り知れない苦痛を伴う。『捨てる』ということに、人間は敏感です。不必要なものは、もちろん、簡単に捨てられる。しかし必要だとしがみついているものは、簡単には捨てられない。地位も名誉も財産も、捨てるどころか、もっと増し加えたい。それは偶像だからと、捨てろと言うならば、まさに十字架を背負うような、苦しみと屈辱を覚える程だ。

しかしその自分の十字架は、イエス様の十字架と共にある。イエス様の十字架の出来事は、まさに偶像の自分を裁いて取り除き、本来の、天地創造の初めに造られた人間を回復させて下さる。それこそまさに、自分にとっての福音となる。実は、失うことを恐れて、必死で偶像の自分を守ろうとして来た。もはや、そんなものは守る必要もない。失っても良いものだ。失うことの恐れから解放される時、実は安心してしまう自分がいることも確かだ。福音のために失う命とは、まさに捨てるべき、偶像の自分の命なのだ。あのギリシア人の女性も、自分が小犬であることに、喜んで受け入れさせられた。元々失うものなど何も持たないことに気づかされた。そうやって喜んで、イエス様の言葉に従ったのだ。

 人間にとって究極の恐れは、この肉の命を失う死だ。十字架のイエス様は、そんな恐れも全く無用だと、キリストの教会によって、今も語りかけ続けて下さっています。

聖霊降臨後第17主日

『すべての人の後に』マルコ9:30-37

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵み平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 本日は聖霊降臨後第17主日9月19日、説教題は『すべての人の後に』ということでみ言葉を取り次がせていただきます。今日与えられました福音書の箇所は、マルコ福音書9章30-37節です。

 今日の福音書の中に、いくつか注目させられる言葉があります。まず冒頭のところで『イエスは人に気づかれるのを好まれなかった』とあります。そしてその理由が、弟子たちに、ご自分の十字架の死と復活のことを予告して来たからだと言うのです。ご自分の十字架の出来事を、弟子たちに話して来たことが、何故、人に気づかれたくないことの理由になるのだろうか。恐らく、こんなことなのかなと思います。人々が、イエス様がおられることに気づけば、これまでもそうでしたが、色々な助けを求めてやって来るでしょう。そしてイエス様も、これまでのように、一つ一つ、求めに応えて行かれるでしょう。弟子たちは、そんなイエス様のお姿を、目の当たりにするはずです。そこからイメージすることは、いわゆる人間たちも求めるような、栄光に包まれるイエス像です。それは、弟子たちに伝えたい本当の姿ではなかった。少なくとも十字架の出来事を通して、伝えたいものとは違う。ですから、もはや人々の求めに応ずる姿を、出来るだけ弟子たちの目に晒したくないと思った。弟子たちの判断の、妨害にならないように考えたのではないか。

 それは、この後の弟子たちの様子からも伺えます。十字架の出来事の予告を受けて『弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった』と聖書は記しております。何が怖かったのでしょうか。大体、人間が怖いと思うのは、死を考える時でしょう。弟子たちは、イエス様の予告の言葉が、大方の人間的常識や、少なくとも自分たちの筋書きからも、外れているかのように思った。それが『言葉が分からなかった』ということでしょう。ただし、それだけでは済まない。イエス様が死ぬようなこともおっしゃられている。そこから、何だか分からないけれども、弟子である自分たちの身にも、死ぬような危険が及ぶのではないか。そんなことはあり得ないと思うし、考えたくもない。けれども、もしかしたら、という思いもある。そこをイエス様に確認すればいいんだけれども、何となく、藪蛇と申しますか、恐れが現実化するのを避けるかのように『怖くて尋ねられなかった』ということではないのか。

 この後弟子たちは『途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた』というのです。何でそんな議論が始まるんでしょうか。冒頭の、イエス様の言葉に『分からなかったが、怖くて尋ねられなかった』という弟子たちの姿と、何か関係があるのでしょうか。イエス様が『途中で何を議論していたのか』と尋ねられた時に『彼らは黙っていた』とも聖書は記しております。何故、黙っていたのか。誰がいちばん偉いかという議論に、何か後ろめたさを感じていたからでしょうか。これも冒頭の弟子たちの姿と関連するでしょうか。ただ単に、いわゆる人間的な上昇志向から来る議論ではないようにも思います。

 イエス様の十字架の出来事の予告から、何らかの怖さも覚えた弟子たちです。もしたしたら、ということもあります。それで、その怖さに備える手立ても、弟子たちなりに考え始めたのではないか。自分たちも死に直面するようなら、それを何とか回避せねばならない。そうは言ったって、誰かは犠牲にならざるを得ないかも知れない。出来れば自分は、その犠牲になる一人にはなりたくない。そこで考え出したのが『だれがいちばん偉いか』ということではなかったか。何か争い事が起これば、真っ先に、そこに巻き込まれるのは、いわゆる一兵卒でしょう。普通は、大将は最初から前線には赴かない。後方で待機するものです。そんなふうに考えますと、弟子たちはここで、誰が真っ先に犠牲になるのか、その犠牲になる順番を、結果的に議論してしまっていたのではないか。それを聖書は『途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていた』と記しているのではないか。

 実は、これと似ていると思われる場面が、この後にも出て来るのです。それはマルコ10章32-45節のところです。これは来月、10月17日の主日礼拝で与えられている福音書の箇所でもあります。ここは、十字架の出来事の三回目の予告がされた場面です。この時にも弟子たちは、と言っても直接的にはヤコブとヨハネの二人の弟子たちですが、マルコ10章37節『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください』と願い出ているのです。しかも、その願い事を二人がしたことを、後で知った他の弟子たちが、そんな二人の事で『腹を立て始めた』と聖書は記しています。いずれにしてもこの場面でも、弟子たちは、死ぬことまで覚悟したかどうかは分かりません。がしかし、それでもはっきりと苦難を覚悟した上で、このような願い事をしているのです。いわゆる人参をぶら下げてもらって、予想される苦難を何とかやり過ごそうと考えたのです。それは、今日の場面での、犠牲者の一人にならないように考える人間の姿と、何ら変わらない。全く同じような発想なのです。何故なら十字架の出来事は、人間にはどこまで行っても、あってはならないことです。少なくとも、自分にだけは、巻き込まれたくないものなのです。

 ところが今日、そんな弟子たちに向けて、イエス様はおっしゃられました。マルコ9章35節『いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい』。図らずもここで、先ほど犠牲という言葉を使いました。ですので、ここのイエス様の言葉を言い換えるならば『真っ先に逃げないで、すべての人の犠牲になりなさい』と聞くのです。しかしこの言葉通りに聞くならば、すべての人の犠牲になれだなんて、そんなことは自分には出来ない。そんな自分のことも、イエス様はよくご存じです。図らずもこの場面で、イエス様はそんな弟子たちを戒めながら、結局、ご自分の十字架の出来事を教えておられるのです。『すべての人の犠牲なる』のは、主イエス・キリストのみだからです。

 更に、一人の子供を抱き上げて言われました。何故ここで、一人の子供が登場するのか。たまたま子供が側にいたんでしょうか。カファルナウムのある家での議論の場面です。もしかしたら、ペトロのしゅうとめがイエス様に癒された、いつものあの家かも知れません(マルコ1章29節)。そしてその家には、子供も住んでいたんでしょう。大人たちの議論の中で、当然、議論の蚊帳の外にいた子供です。ところが突然、あたかも議論の中心に置かれるようにして、イエス様は言われるのです。マルコ9章37節『わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである』。当時の社会の子供観は、子供は未完成で、とにかくゼロから一つ一つ教え込まなければならないという存在でした。ですから、社会にとっては、当面は、無価値な存在でした。今日のこの場面のように、大人が議論する場には、そこにはいても、存在しないものでした。それが、突如、イエス様によって、その存在が価値あるものとさせられた。あたかも無視された、無駄で無意味だと思われるような些細なものを通して、イエス様へと導かれる。そして父なる神へとつなげられて行く。そんなキリスト信仰の道筋も見えて来るようなのです。

 十字架の出来事は、どこまで行っても、あの弟子たちのように、人間にとっては、惨めで恥ずかしい、無価値な必要のないもののようです。しかし子供の一人を受け入れる者とは、まさに十字架の出来事を価値あるものとする、ということです。しかもここで『わたしの名のために』とおっしゃられています。イエス・キリストによって、価値もなく、必要のないと思われるものを受け入れる。そうやって、イエス・キリストを受け入れる。そこには、間違っても、十字架の出来事の無いイエス様を選択することがあってはならない。そんなイエス様の戒めが示されます。そうして私たちは、イエス・キリストのみによって、父なる神様に受け入れていただけるのです。

 今、聖書研究会では使徒信条を、細かく項目別に分けて学んでおります。先週は『全能の父なる神』という項目から学びました。その中で、神の全能性は、どこに示されているか、ということが話題になりました。テキストの著者の牧師先生が、次のように書かれていました。引用します。『わたしたちが最大の罪を犯している時に、すなわち神が与えておられる救いそのものであるお方を殺しているその時に、その罪の行為と結果そのものである十字架を、神はわたしたちとのいのちの絆としておられる。・・このような仕方で神がわたしたちに介入してくださるなら、この救いのみわざが届かないような罪の現実など決してない。ここにこそ、わたしたちを罪から救ってくださる神の全能の力が現わされている』。  キリストの教会によって、すべての人の犠牲となってくださる主イエス・キリストに感謝します。そして、心を込めて応えて行きます。