からし種 413号 2023年10月

聖霊降臨後第14主日

『自分の十字架』マタイ16:21-28

先週の福音書の箇所は、今日の箇所の直ぐ前の所でした。そこでは、イエス様の事を人々は、何者であると言っているのかと、弟子たちに尋ねられました。続いて弟子たちにも『お前たちは私を何者だと言うのか』と尋ねられました。そして先週の聖書から示されたことは、イエス様が何者であるのかを問うことは、自分自身が何者であるのかを問う事と、表裏一体であるというものでした。この時、筆頭弟子のペトロが『あなたはメシア、生ける神の子です』と答えました。それに対してイエス様は『あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ』とおっしゃられました。イエス様が何者であるのか、ここでのペトロの答えは大正解でした。しかしそのように答えさせたのは、天の父なる神様だと言う。これを聞いてペトロは、どんなふうに思っただろうか。このイエス様の言葉に、ペトロも同感させられているとしたら、ペトロは自分自身のことを、何者だと天の父から示されているのだろうか。

更にこの時イエス様は、ペトロに天の国の鍵を授ける、とまで言われました。ところで、イエス様が神様のことを宣べ伝える、いわゆる宣教活動を始められた時の第一声は『悔い改めよ。天の国は近づいた』(マタイ4:17)でした。『悔い改める』とは、自分が罪深い者であることを、正直に神様の前で告白する、ということです。そういう者は天の国に入れられる。ということは、天の国の鍵を授けられるペトロ自身が、まず自分の罪を自覚し、悔い改める者であるはずです。そういうペトロだからこそ、罪を自覚し、悔い改める人のための天の国の鍵が、授けられているということなのでしょう。

今日の福音書はそんなペトロの、自覚すべき罪と、だからこそイエス様が何者であるのか、それを示すのです。まず冒頭から、イエス様が何者であるのかが示されます。マタイ16章21節『イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた』。旧約の創世記3章から示されるように、全ての人間は今や罪に陥っている状態です。その罪は、どんなに善い行いを積んだとしても、どんなに大金を差し出したとしても、人間の力では、赦されることはない。神の子イエス・キリストが、そんな人間の罪を背負って、十字架に死んで、復活されるからこそ、そのように信じる者の罪は赦される。このことが、問われてペトロが答えた『生ける神の子、メシア』というお方の、意味するところです。

ところがこれを聞いたペトロは『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』と、イエス様をわきへお連れして、いさめ始めたと言うのです。ペトロが告白したメシアと、イエス様が現わされたメシアとは、かなりのギャップがありました。やっぱり、イエス様が何者なのか、人々が答えたものとペトロのものとは、何ら変わりのないものでした。人々もペトロも、自分の期待や筋書きに沿わせるメシアでした。そして、自分自身が何者であるのか、罪の自覚が示されていなかった。しかしその罪を、今日の箇所で、イエス様が指し示します。マタイ16章23節『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』。ギリシア語本文から直訳して見ます。『私の後ろに引き下がれ、サタン。あなたは私を罠にかけるものだ。あなたは神のことではなく、人間のことを念頭に置いている』。

サタンが罠をかけると言えば、聖書の中のあの場面が思い浮かびます。先程の、宣教の第一声を発する直前に、イエス様が荒れ野で、悪魔から誘惑を受けた場面です(マタイ4:1-11)。断食をした後の空腹のイエス様に、石をパンに変えてみろとか、高い所から飛び降りても、神様が救って下さると、聖書に書いてあるから飛び降りろとか、全世界を支配する権力と財力を与えるから、悪魔の自分を拝んだらどうだとか、聖書の言葉までも使って誘導します。ここは言わば父なる神様を、人間イエスの後ろに、徹底的に引き下がらせるように、誘導するものです。しかしイエス様は言われました『退け、サタン』(マタイ4:10)。別の訳し方をすれば『引き下がれ、サタン』です。

ペトロの罪は、イエス様の前を歩いてしまっている、というものです。それを別の言い方をすれば『神のことを思わず、人間のことを思っている』ということです。あの荒れ野で悪魔が投げかけた、誘導の言葉は、まさに『人間のこと』だと、改めて示されます。それは悪魔どころか、人間が常に抱いているものなのです。そんなペトロや弟子たちに向かって、イエス様はおっしゃられました。マタイ16章24節『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。ここもギリシア語本文から直訳します。『わたしの後ろへ引き下がって来たい者は、自分自身を否定して、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい』。

イエス様の後から従うと言っても、あのペトロのように、気が付けば、イエス様を自分の後ろに、どうしても押しやってしまうのです。そういう姿勢が、結局、自分の十字架なのかも知れません。しかしイエス様は、それを背負って従いなさいと、おっしゃって下さる。そして自分に問いかけます。自分はイエス様の後ろにいるだろうか。イエス様の思いはどこにあるのか。イエス様ならここで、どんなふうになさろうとするのか。示されて自分が決断したことは、本当にイエス様の思いだったのか。それでもいつしか、イエス様を後ろに押しやることをしてしまう。だからそんな自分の十字架を、背負いなさいとおっしゃられるのでしょう。背負っている限り、自分の十字架を見失うことが無いからです。

先週8/29日に、次のような報道記事を読みました。『政府が東京電力福島第1原発処理水の海洋放出の開始日を決めた22日以降、福島県沿岸部のいわき市に対して、ふるさと納税による寄付が急増している。市によると、寄付した人の約9割は返礼品に海産物関連を希望しており、<福島の漁業を少しでも支援したい>などのメッセージが寄せられている。寄付は22~27日の6日間で915件、計約1,734万円に上った。今年の平均は1日当たり約40件、計約90万円だったといい、件数・金額とも3~4倍ほどに。返礼品はカツオやサンマの冷凍・加工品などが幅広く選ばれているという』。

本気で見つめ直せば、どんな罪に対しても、自分も当事者であるのではないか。だからこそ、十字架の死と復活の主イエス・キリストの後に歩ませていただきます。そして、互いに互いの十字架を、共に背負って歩むように、強め支え導いて下さい。

聖霊降臨後第15主日

『二人または三人』マタイ18:15-20

今日の福音書は『兄弟の忠告』という小見出しが付けられてあります。『兄弟』というのは、ここでは同じ信仰を与えられている者同士、ということでしょう。具体的にはユダヤ教徒同士、ということでしょう。がしかし、今日の場面では『教会』という言葉が出てまいりますので、キリスト教徒同士、と考えても良いでしょう。細かい事を言えば、今日のこの場面では、キリスト教会はまだ備えられていないはずです。恐らくイエス様はここで、周りの理解が有ろうと無かろうと、従来の信仰の在り様を超えるものを、敢えて指し示されたのだと思うのです。そんなイエス様の新たな思いは、マタイ福音書の最初の方でも、既に触れられています。旧い契約として十戒が与えられたシナイ山の場面に対して、それに対応して新しい契約が与えられたと言われる、マタイ5章以下のいわゆる『山上の説教』と呼ばれる箇所です。特にマタイ5章17節では次のようにおっしゃられます。『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである』。

そんなイエス様の思いを念頭に置きながら、今日の福音書の箇所を読み進めます。まず冒頭で『兄弟があなたに罪を犯したなら』とあります。信仰の仲間が自分に罪を犯したらどうするか、というものです。ここで『罪』と言われているのは、少々『あれ』と思いました。罪と言うと、神様と自分との関係の中で、考えるように思って来たからです。人間同士の間では、もっと具体的に、裏切ったとか、騙されたとか、中傷したとか、その方がリアル感が出て来るのに、とも思われたからです。ここで敢えて『罪』と言う言葉を使ったのは、もっと他の意図もあったのかな、とも思われます。

それにしても、罪を犯した兄弟に対して、まずは二人だけで忠告しなさい、と言われます。そんなふうに出来れば良いのかも知れませんが、私なんか腹立たしくて『あんな人間、もはや話し合う価値も無い』と言って、即座に関係を断って、会話もしなくなるように思います。それでも聖書にこう書いてあるので『二人だけで忠告』するという形だけは、何とか我慢して取れるとします。しかし、忠告と言うよりも、腹の中は既に裁いてしまっていて、関係の回復といった建設的な雰囲気は出せないのかも知れません。

そんなせいもあるのでしょう。相手も当然、忠告を聞き入れないでしょう。そこで聖書は、今度は他の一人か二人を交えて、聞き入れるようにしましょうと言う。しかし私なんかは、そうするとしても、事前に他の一人や二人には、一方的に相手の悪行を吹き込んでいて、客観的な判断が出来るように、人数を増やしたところで、みんな自分と同じ結論になるようにしてしまっているので、意味が無いわけです。それでは当然、相手も聞き入れようとは思えないでしょう。でもまたここまで、形としては聖書に書いてあるように、手順は踏んでいるわけです。自分はまたそのことで、自己正当化するわけです。

そして聖書は、それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい、と言うのです。そこで勢い込んで『役員会にねじ込もう』と思える場合もあるでしょう。しかし特に、これまでの一連の私の進め方を振り返って見ますと、ちょっぴり躊躇いも感じてしまうのです。『教会』と言われて『あれ、教会か。そう言えば自分は、この騒動に対して、祈って来たかなあ』と思うからです。何か相手に対する怒りにかまけて、どうしたらこの怒りを晴らせるのか、そんなことばかり考えてしまって、祈るなんてことを忘れてしまっているのです。そんな自分にここで気づかされてしまうのです。

そして最後にイエス様は、教会の言うことも聞き入れなかったら『その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい』と言われるのです。これは特にユダヤ人ならお馴染みのことですが『その人を罪人として断罪しなさい』と言われているに等しいのです。この最後のイエス様の言葉を聞きますと『これで怒りが晴らせる。何と言ってもイエス様のお墨付きがあるんだから』と思うわけです。しかしここでも、教会に対して自分は、どんなふうに相手のことを伝えたのか。もしかしたら、教会も断罪せざるを得ないように、誘導してしまったのではないか。それより何より、教会で心から相手のために祈ったのか。祈ってないだろう、そんな思いにも駆られるのです。

そこでもう一度、冒頭の言葉に立ち返るのです。イエス様が冒頭で『罪』と言う言葉を使った意図は、何だったのか。それは相手の罪ばかりでは無くて、自分自身の罪の事も忘れるな、という意図も込められていたのではないか。今日の最後のイエス様の言葉『その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい』というのは、イエス様も結局は、結論を裁きに置いてしまわれるのか。それは違うな、とも思われるからです。と申しますのも、先程言及しました山上の説教の中の、次の言葉が思い出されたからです。『敵を愛しなさい』という小見出しが付けられた箇所の中の言葉です。マタイ5章46-47節『自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか』。今日の場面でもイエス様は、異邦人や徴税人を、決して批判的に見てはいないのではないか。むしろこの場面に至って、もう一度この私に、私の罪を問い質そうとされたのではないか。同時にこのマタイ5章46節以下の言葉を、思い起こさせようとしたのではないか。

この兄弟への忠告の進め方は、初めから裁きを結論にしている私にとっては、まどろっこしく思います。しかしイエス様の結論は、そこでは無い。結論は悔い改めと赦しにあるのです。そのための長いプロセスであり、そこにこそ祈りが伴われるはずだからです。マタイ18章19-20節『どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』。

主よどうか、キリストの教会によって、心を一つにして、祈り続けることが出来るようにして下さい。

聖霊降臨後第16主日

『借金を帳消し』マタイ18:21-35

今日の福音書は『そのとき』という言葉から始まっております。それは『どのとき』なのかなと思いますと、普通に考えて、今日の福音書の直ぐ前の『そのとき』だと思われます。それは先週の福音書の箇所でもありました。新共同訳聖書では『兄弟の忠告』という小見出しが付けられてあります。少し概観します。『兄弟』というのは、ここでは同じ信仰を与えられている者同士、ということでしょう。そんな信仰仲間の一人が、自分に罪を犯した時に、どうするのかと言う話です。ここで『罪』と言う言葉が使われています。罪と言うと聖書ではよく、神様と自分との関係を考える時に使われるように思います。人間同士の間では、もっと具体的に、裏切ったとか、騙されたとか、中傷したとか、その方がリアル感が出てまいります。しかしここで『罪』という言葉が使われるのは、相手ばかりではなく、自分にも関わっているものだよと、忠告されているようにも聞こえます。

いずれにしても、罪を犯した兄弟に対して、まずは二人だけで忠告しなさいと言われます。それで忠告を聞き入れたら『兄弟を得たことになる』と言うのです。この言い方も、何か独特に聞こえます。普通に考えますと『赦してやりなさい』とでも言うのかな、と思うからです。しかし聖書はここで『赦す』ということは『兄弟を得る』ということだと、まず冒頭から、打ち出しているようなのです。よく考えて見れば、そう言うことなんでしょう。がしかし、自分に罪を犯した人間を赦すということは、それによって受けた自分の怒りや恨みを、晴らせる状態にする、ということです。相手からの謝罪が有れば、それが可能になると思うわけです。しかしそこから更に『兄弟になる』という所までは、あまり思い浮かばないのです。とりあえず、怒りや恨みはぶつけないでいられる、という所に留まるだけではないかと思うからです。

それで怒りや恨みが晴らせなければ、今度は他の一人か二人を交えて忠告ということになります。それでも聞き入れなければ、教会に申し出て、教会の言うことも聞き入れなかったら、もう交わりを断たざるを得ませんね、というようです。これら一連の兄弟への忠告の進め方は、実に時間をかけて、交わりが絶たれないように、建設的な配慮の故なのでしょう。しかし私なんかは、正直に申せば、その間も怒りや恨みを抑えながら、とにかく謝罪を勝ち取るまで、ただ忠告して行くだけであって、建設的な思いはかけらもないように思います。ですから、実に忍耐力が問われるようです。もしかしたらペトロも、そんなふうに考えたのかも知れません。それで今日の福音書の冒頭で『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか』と、尋ねてしまったのではないか。同じ一人の兄弟が、自分に罪を犯しては赦し、また罪を犯しては赦し、そんなことが七回まで、何とか忍耐して続けるべきなんでしょうね、ということでしょうか。注目させられるのは、ここでもペトロは罪という言葉を使っているのです。自分の罪のことも考えるのでしょうか。

ところがイエス様は『七の七十倍までも赦しなさい』と答えられます。つまりどこまでも赦しなさいというわけです。それはただ単に、繰り返される謝罪によって、くすぶり続ける怒りや恨みを、抑え続けなさいということではないでしょう。それで『仲間を赦さない家来』と言われるたとえを、イエス様は語られるわけです。罪のことを借金に置き換えてのたとえです。王の家来が王様に負っている、何百年かかっても返済不可能な借金を帳消しにしてもらった。ところが今度は、その王の家来に負っている彼の仲間の借金、百デナリオン(現代の貨幣価値換算で六千円程)の返済を迫り、返済するまで牢屋に入れてしまったというのです。この一連のやり取りを見ていた者たちは、非常に心を痛めて、王様に事の次第を告げたのです。そうすると王様は、次のように言いました。マタイ18章33節『わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか』。ここで『自分の仲間』と言われていますが、この譬えの中に『仲間』という言葉が、五回も出てまいります。ギリシア語原文から直訳しますと『奴隷仲間』と言う言葉です。ですから主人が同じで、その下にある奴隷の仲間、というものです。

それで冒頭にも申し上げましたが『赦す』ということは『兄弟を得る』ということでもある。そうしますと、元々の仲間が、仲間であり続けるということが『赦し』なんだろう。決して、倫理的に良いことだから、人間性に優れているから、忍耐力があるから、だから赦すという、そういうことでは無いんだなと思うのです。だからと言って、相変わらず、自分の怒りや恨みが晴らせないままでいる。しかし、倫理性や人間性や忍耐力の問題ではないと知らされますと、こんな自分を助けてくれる、他の働きがあるのかなとも思います。そう言えば今日の第一日課創世記50章20節で、ヨセフは次のように告白しました。『あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』。また主人が同じで、その下にある奴隷仲間と言われて、改めて今日の第二日課のローマ14章8-10節も思い起こされます。『わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』。

キリストの教会によって、同じ主にある奴隷であることに気づかされ、仲間であり続けるようにして下さい。

聖霊降臨後第17主日

『もっと多くもらえるだろう』マタイ20:1-16

今日の福音書は、イエス様の『天の国は次のようにたとえられる』という言葉から始まっております。何故ここで『天の国のたとえ』を語られるのか、何かきっかけがあるのかなと思いました。どうも今日の福音書の直ぐ前の所に、そのきっかけらしきものがあるようです。少し概観します。マタイ19章23節以下です。ここでイエス様は『金持ちが天の国に入るのは難しい。らくだが針の穴を通る方がまだ易しい』とおっしゃられました。これを聞いた弟子たちは『それでは、だれが救われるのだろうか』と非常に驚いて言ったというのです。ユダヤの伝統では、財産がある、健康である、子があるというこの三つが、神様からの祝福の徴であると考えられて来ました。その中の一つである財産が与えられている人が、天の国に入れないみたいな事を、イエス様がおっしゃられた。それで弟子たちは、非常に驚いたわけです。

またその前に、当然、天の国に入れると思っていた、金持ちの青年に対して『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい』という、イエス様の言葉も、弟子たちは聞いていたわけです。それで弟子のペトロは『どうもイエス様の言葉を聞いていると、天の国はお金の問題ではなさそうだ。むしろ捨てて何も持たないことで、天の国に入る権利が得られるのかな』そんなふうに思ったのでしょうか。そこでペトロは言いました。『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか』。このペトロの言葉の前にも、イエス様はこんなこともおっしゃられています。『それは人間にできることではないが、神は何でもできる』。

神様の祝福の徴として、財産と健康と子どものことを取り上げましたが、神様から与えられているとしても、与えられたものに対して、今度は人間はどうしても、ではその与えられたものの量や質を他人と比較してしまいます。そして、一喜一憂してしまうのです。そうして行く中に、じゃその量を多くして、質を高めるために、自分の力で勝ち取ろうとし始めるのです。そうやって、神様から与えられているものであるはずなのに、いつしか自分で勝ち取るものであるかのように、すり替わって行ってしまう。そうして多くを勝ち取った自分を誇り、量や質が劣る他人を見下す。結局、神様や他人の存在感が希薄になって行く。そして、あたかも自分だけが存在しているかのように振る舞ってしまうのです。

聖書が言う天の国とは、神様が支配されている状態のことです。ですから天の国の主人は神様であって、人間ではない。そこで改めて、天の国とはこういうもんだよと教えるために『ぶどう園の労働者』のたとえを話されるのです。家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇う話です。通常、夜明けから日没までが一日の労働時間です。ここでは一デナリオンの約束で、雇ったということです。しかし九時頃、十二時頃、三時頃、そして五時頃にも、誰にも雇ってもらえず、何もしないで立っている人たちがいたので、『ふさわしい賃金を払ってやろう』と言って、主人はその人たちをみんな雇って、ぶどう園に送ったのです。夕方になって、賃金を払う段になりました。最後に雇われた者から始まって、最初に雇われた者を最後にして、順に支払われました。五時頃から働いた者たちには、一デナリオンが支払われました。それを見ていた、最初に雇われた人たちは『もっと多くもらえるだろう』と思っていた。がしかし、きっちり一デナリオンでした。それで『最期に来た連中と同じ扱いにするとはけしからん』と、主人に不平を言ったのです。これに対して主人は、一デナリオンの約束で雇ったのだから、何も不当なことはしていない。最後に来た者たちにも、ただ同じ金額を払ってやりたかっただけのことだ。これは支払う私の問題であって、あなた方に何の関りがあるのか、というわけです。

聖書が言う天の国とは、神様が支配されている状態だと先程述べました。ですから、今ここで私が、ここは神様が支配されていると信じるならば、ここは私にとって天の国です。もちろん見た目は、例えばここは日本国の横浜市の戸塚区という所です。ですからここは、日本国や、横浜市や、戸塚区によって定められた、様々な法律の下にあります。今日のたとえ話の中にあるように、一時間働いた者と、八時間働いた者とが、同じ賃金であることは、いくら最初の約束だからとは言え、とりあえず不当だと、訴えることも出来るでしょう。また後から雇われた者たちには『ふさわしい賃金を払ってやろう』と言っただけで、具体的な数字は出されていませんでした。『ふさわしい賃金』とは何か。丸一日働いた者たちが一デナリオンで、一時間しか働いていない者が、一デナリオンを貰う。それが『ふさわしい賃金』だと言うなら、丸一日働いた者に支払われた賃金は、相応しいと言えるのか。ここでも争える要素はある。それから、誰も雇ってくれないという人間たちは、何故そういう状態にあるのか。単に怠け者に過ぎないのではないか。あるいは働く能力に欠けているからではないか。そういう人間たちと同じ扱いにするとは、これもまた不当であり、それこそ人権を無視しているのではないか。そんな訴えも出て来そうです。そしてこれらは、人間社会という人間の常識的目からの、人間が築き上げた法律的なものに基づく、様々な判断になります。

しかしここは天の国だと信じる者は、人間中心に見えるこの世に生きつつ、神様の思いはどこにあるのか、絶えず問い質されて生きるものです。人間の常識的目が、真っ先に注目するのは、丸一日働いた者と一時間しか働かなかった者が、同じ賃金にされてしまったことでした。たくさん働いた者が、たくさん報酬を受け取るべき社会なのです。少ししか働かなかった者は、少ししか貰えないものです。ところが神の目が真っ先に注目するのは、雇ってもらえず何もしないで立っている者たちなのです。どうしてそういう状態になったのか。色々な理由が考えられるでしょう。単に怠け者だった。働く能力が劣っていた。体力が劣っていた。どこか身体的精神的にハンディを負っていた。法律的網の目が、どんなに完璧に張られているとしても、それでもその網目から、こぼれ落ちてしまう人間がいる。神の目は、まずそこに注目してくれる。そして、大切な一人の人間として、必要としてくれるのです。そして、たとえの中の主人が言う『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』という、実に情緒的な言葉が印象的です。それだからこそ、ややもすれば杓子定規な、強くて冷たい人間の理屈では、決して立ち入ることは出来ないのです。

それにしても、今日のたとえの中では、朝から働いて来た者たちの言動は記されてありました。『不公平だ。あんな一時間しか働かなかった者たちと同じ賃金だなんて』というものです。自分も同じ状況に置かれたら、同じように強く不平を言うでしょう。では、その一時間しか働かなかった者たちの思いはどうだっただろうか。聖書には記されておりませんが、何か考えさせられる余韻を感じさせられます。自分が同じ状況に置かれたらどうだろうか。『ラッキー。楽ちんだから、明日もまた、同じ時間で同じ主人に雇ってもらおう』と思うだろうか。それとも『ああ、こんなにいただいてしまって良いのだろうか。申し訳ない。直ぐには出来ないかも知れないけれど、何とかお返し出来るようにして行きたい』と思うだろうか。

このたとえから、ある方が次のようにおっしゃられました。『今までの自分は、朝から働いてきた者たちの立場に自分を置いて、同じように不平を言って来た。しかし、長い人生の中では、朝から働いてきた立場ばかりでなく、5時から働くような、そんな立場になることも必ずあるはずです。実は最近、30年以上勤めて来た職場を辞めて、資格を生かしたフリーランスの職業に就いたのです。これまでの職場では、それなりのキャリアがあり、部下の働きが悪ければ、叱責するような立場だった。それこそ、朝から働く者たちの立場だった。しかし今は、この年になって、全くキャリアも無く零からの出発をしているのです。そんな中で、年齢は自分より若く、同じ資格を持ってキャリアを積んでいる方から、パートナーのようにして仕事の協力を申し出ていただいたのです。その際には、その方が長い時間をかけて積んできた、仕事のノウハウまで開示して下さって、本当に助けられているのです。何とか応えて行きたい。そんな思いにさせられています。まさにこのたとえの、5時から働く者の者の気持ちが、実感出来るのです。以前は、全く頭だけでこのたとえを理解していたんだなあと、示されています』。

天の国の住人であるキリストの教会によって、どうしても沸き起こる人間的力強さを誇り、神様と隣人を見失う自分を、戒め続けていただきます。