からし種 412号 2023年9月

聖霊降臨後第10主日

『その中の病人を』マタイ14:13-21

先週は、天の国のことを、聖書から聞きました。聖書の中で、イエス様が言う『天の国』とは、場所的なものではないのです。神様が支配しているという『状態』だと言うのです。ですから今ここで、神様が支配されている、と信じるならば、その人にとってそこは『天の国』です。そして、天の国に与る人間は、支配される神様に、全幅の信頼を置きます。ですから、神様の命令に100%、喜んで服従出来ます。このような神様との信頼関係の中に、最初に創られた人間は置かれていたと、先週は旧約聖書の創世記から聞きました。ところがその最初に創られた人間が、神様との約束を破り、神様の声を聞いても、隠れようとする者になってしまった。それで、信頼関係は壊されてしまいました。この信頼関係が壊された状態を、聖書は『罪』と呼んでいます。以来人間は、最初に創られた時の神様との関係が、回復されないままに、ある時まで来てしまいました。その『ある時』とは、イエス・キリストの登場まででした。今から二千年程前です。以来、このイエス・キリストの業と言葉とによって、あの罪の状態から解放されるのだと、キリストの教会は宣べ伝え続けて来ているのです。ちなみに、イエス・キリストの業と言葉の究極は、十字架の死と復活であることも、聖書は教えてくれています。

さて天地創造時に人間が創られた時、神様は、更に大切なことをおっしゃられていました。創世記1章26節『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』。ここで『我々』と神様がおっしゃられています。これは神様が、複数おられるわけではありません。神様の尊厳を言い表す、聖書独特の表現だそうです。そして人間を、神にかたどって、神に似せて造ったと言います。これは、神様と対話の出来るものとして造られた、ということです。その対話とは、具体的には『祈り』です。神様に祈ることの出来るものとして、人間が造られた、というのです。何故、そんなふうに特別なものとして、人間は造られたのか。それは、神様が大切な使命を、人間に委ねるためでした。その使命とは、神様が造られた全てのものを支配させる、というものでした。支配と聞きますと、人間が何でも好き勝手に、出来るかのように錯覚させられます。そうではなく、管理を委ねた、というものです。支配者はあくまでも神様です。その神様の委託の下に、人間は、全ての被造物の管理をするのです。だから神様との対話が、必要なのです。そして、委ねられた時のままの状態に、管理するのです。しかしあの罪の状態に陥った人間は、この大切な使命をも損なってしまいました。それこそ、神様から委ねられたものを、好き勝手に支配出来るかのように、振る舞ってしまったのです。

今日の聖書は、パン五つと魚二匹を、イエス様が用いられて、五千人以上の人々が、満腹するまで食べて、更に残ったパン屑が十二の籠一杯になった、という出来事を記しています。パンと魚の量に対して、それを必要とする人間が五千人以上いて、それぞれ満腹したということですから、まさに奇跡の業と言わざるを得ません。しかし今日の説教題にもしましたが、五千人以上の中には病人もいました。その人たちをも癒されたと、聖書は記しております。病人は、何人だったかは分かりません。しかしこのことも、奇跡の業とも言えるでしょう。そして病人が癒されたことも、また五千人以上の人々が満腹させられたことも、いずれもイエス様による深い憐みによるものです。そうしますと、今日の場面の、イエス様による奇跡の業は、他にもあるのではないだろうか。と申しますのも『イエス・キリストの業と言葉とによって、あの罪の状態から解放される』こともまた、結局は『イエス様の深い憐みによる』ものだからです。今日の福音書には、そんなイエス様の深い憐みによって、あの罪の状態から解放される人間たちこそが、存在しているのです。そしてこれこそ、イエス様の奇跡だと示されるのです。

今日の福音書を、もう一度見てまいります。イエス様の下に集まって来た群衆の食事の心配を、弟子たちがしています。それはイエス様が、群衆を見て深く憐れんだものとは、少し違うようにも思います。群衆のためと言うよりも、早く解散させて、自分たちが面倒なお世話から解放されたい、そんな思いが垣間見えるようなのです。しかしあろうことかイエス様は、そんな弟子たちの思いを知りつつも『あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい』と言われたようです。それに対して弟子たちは『ここには五つのパンと魚二匹しかありません』と答え、あくまでも、自分たちの主張が、的を得ているかのように振る舞います。それにしても、そんなパンと魚は、どこから得たものなのでしょうか。自分たちが持っていたものなのか。あるいは群衆の中に、そんな食べ物を差し出す者がいたのでしょうか。いずれにしても、奇跡はここから始まっているのです。差し出された僅かなものを、イエス様は『天を仰いで賛美の祈りを唱え』て、弟子たちに配り始めました。弟子たちは言われるままに、渡されたものを配った。五千人以上ですから、弟子たちにして見れば、大変な作業でしょう。最初はいやいやながらでした。しかし次第に、イエス様の姿にも励まされ、一生懸命にさせられて行った。そんなイエス様や弟子たちを見た群衆は、何を感じるでしょうか。配るのを手伝う者も、出て来たでしょう。あるいは自分が持っていたものを、差し出す者も、出て来たのではないか。そうやって群衆もまた、知らず知らずのうちに、互いに助け合う関係に導かれて行ったのではないか。

イエス様が手品のように、僅かなものから、大量の食べ物を産み出した。改めて聖書は、そんな偉大なイエス様を、示そうとするのでしょうか。そうだとしたら、それはむしろイエス様に、似つかわしくないように思います。それよりも、自分のことしか考えられないような、あの罪深い人間たちが、深く憐れむイエス様と、黙々と立ち働く弟子たちとに、触れさせられてしまったのだ。もちろんこの段階では、果たしてどれだけの人間たちが、あの罪の状態から解放されるのか、まだまだ僅かなものでしょう。でもこの一連の、イエス様と人間たちとの、ダイナミックなやり取りの中に、聖書はイエス様の奇跡を見るように、促しているのではないだろうか。そしてそんなやり取りは、今も続けられているのではないか。聖書の弟子たちの姿は、キリストの教会に引き継がれている。キリストの教会こそ、今も深く憐れみ、大きく用いて下さるイエス様に信じて、僅かなものを差し出し、配り続けているものではないだろうか。

今日は広島に原爆が落とされたことを、日本中が、そして世界中が、振り返る日です。そして私たち人間は、神様が創られたものを、正しく管理して来たのかどうか、併せて振り返りたいのです。そしてキリストの教会の働きが、今日の弟子たちのように、必要とされている。そして、なおまだこれからも、必要であり続けるのだと確信します。

聖霊降臨後第12主日

『何もお答えにならない』マタイ15:21-28

今日の福音書の冒頭に『イエスはそこをたち』とあります。それは今日の福音書の前の所ですが、14章34節『こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた』とあります。湖というのはガリラヤ湖のことです。この湖の北西岸がゲネサレトという地域です。聖書に出て来ます、カファルナウムという湖岸の町も、この地域にあります。その辺りから、今日のティルスとシドンの地方に、イエス様一行は行かれたようです。地図を見ますと、直線距離で60km以上はあります。戸塚から三島位の距離だと思います。車で行くにも結構な距離です。そんな遠い所に、しかもいわゆる異邦人が住む所です。ユダヤ人は、宗教的に汚れた所だと、蔑んでいた所です。そこに、何故行かれたのか。

今日の福音書の、今度はすぐ後の15章29節には『イエスはそこを去って、ガリラヤ湖のほとり行かれた』とあります。また元の所に戻ったようです。益々、何のためにそんな遠くの、異邦人の地に行かれたのか、疑問が湧いて来ます。マルコ福音書にも同じような記事が記されてあります。そこでは『ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった』(マルコ7:24)とあります。敢えて、自分のことが知られていないであろう土地に行って、心身共に疲れ切った体を休めようと思ったのかと想像されます。ですから、そこが異邦人の土地で汚れているとか、イエス様にとっては関係ない。むしろそういう土地が、イエス様にとっては、リフレッシュ出来る所になるようです。あるいは同行する弟子たちに、そういう場所だからこそ、伝えたい、知ってもらいたい、そういうものがあったのかも知れません。

それでそんなふうにして、イエス様を異邦人の土地へと向かわせた直接の原因は何か。今日の福音書の直ぐ前、15章1節以下の『昔の人の言い伝え』という小見出しが付けられた箇所を、概観します。イエス様の弟子たちが、昔の人の言い伝えを破っているということを聞きつけた、エルサレムにいるユダヤ教の重鎮たちがやって来ます。この時までにイエス様は、何回も安息日の律法を破り続けていました。それで、重鎮たちはどうやってイエスを殺そうかと考え始めていた(マタイ12:14)。ですから、彼らにして見れば『またやってくれたのか』と、そんな思いだったでしょう。『昔の人の言い伝え』というのは、口伝律法のことです。十戒を始めとする成文律法を、場面場面に適って守ることが出来るよう、具体化するのが口伝律法でした。ですから成文律法を、守り易くする傾向があったようです。そこをイエス様は批判します。マタイ15章6節『こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている』。

こんなことがあって増々イエス様は、ユダヤ教の重鎮たちと対立を深めることとなった。側にいた弟子たちは、イエス様の承諾があってのことだったにせよ、自分たちが口伝律法を守らなかったことから、このような対立がまた生まれてしまった。少なからず、責任を感じたのかも知れません。同時に、このイエス様は一体、何者なんだろうか。このままこの方に従って行って、大丈夫なんだろうか。そんな疑問と不安とが、もたげて来てしまったことも想像されます。聖書はこんな言葉を伝えています。マタイ15章12節『そのとき、弟子たちが近寄って来て、ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか、と言った』。過激な言葉を吐いたり、たとえを語るイエス様に、弟子たちはハラハラドキドキしていたのではないでしょうか。

そんなことがあって、異邦人の地へと向かわれた。色々な軋轢が産まれているけれども、誰にも邪魔されない所で、自分自身の使命をもう一度、見つめ直そうと思った。また弟子たちにも、イエス様の使命に気づいてもらいたかった。ところが、予想もしなかった異邦人の女性に、見つけられてしまった。この女性の冒頭の言葉に、まず注目させられます。マタイ15章22節『主よ、ダビデの子よ、・・』。これは明らかに、イエス様が何者であるのかを知っている、言わば信仰の告白の言葉です。そしてまさにイエス様の使命を、言い表すものです。『救い主メシアなる、イエス様』。そして弟子たちが、何者であるのかと疑問に思っていたことの正解が、ここに告白されている。それを弟子たちは、自分たちが汚れていると蔑んでいた、異邦人の女性から聞くことになるのです。

しかしこの時の弟子たちは、相変わらずでした。弟子たちはイエス様に『うるさいから追っ払って下さい』と願っています。それに対してのイエス様の言葉に、また注目させられます。マタイ15章24節『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』。この言葉を、どのように聞くでしょうか。また、誰に向かって語られた言葉でしょうか。弟子たちでしょうか。異邦人の女性でしょうか。あるいは独り言でしょうか。どのようにも、受け止められ得るような、場面の言葉です。イエス様を厳しく批判する、ユダヤ教の重鎮たちに向けて『あなた方を正すために、自分は遣わされて来たんだ』という思いが語らせる、そんな独り言にも聞こえます。そして、イエス様の熱い使命感が伝わって来ます。弟子たちが聞けば相変わらず、優越感を刺激されるものだろう。異邦人の女性が聞けば、いつもの差別に聞こえるのだろう。

ところが異邦人の女性は、更に『主よ、どうか助けてください』と願います。『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と、それまでにも何度も何度も、叫び願い続けて来ている。それに対してイエス様は『何もお答えにならなかった』。更には、異邦人の救いのためには、遣わされていないかのようなこともおっしゃられた。いくら祈っても、何も聞かれない。しかもあろうことか、自分は救いの対象になっていないかのようにも言われる。そんな状況で、それでも人は、祈り求め続けられるだろうか。別の神様に乗り変えたくならないだろうか。しかしこの女性は、誰も信じようとは思わない、そんな状況にあっても、それでも信じ求め続けるのです。色々と条件が揃って、さあ信じられる環境が整いました。じゃ信じましょうか、ではない。そういう、人間の都合に合わせられた信仰は、信仰と言えるのだろうか。信じられないような状況に置かれ続けても、それでも信じ続けられる。これが信仰なのではないか。次のイエス様とこの女性とのやり取りの中でも、考えさせられます。

イエス様が、しつこく願い出るこの女性に向かって言いました。マタイ15章26節『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』。それに対して女性も応えました。27節『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』。ここは、異邦人の習慣をイエス様は、ご存じだったのではないかと思わせられます。ユダヤでは犬は、可愛がられるような存在ではなかった。異邦人は、ペットとして家の中でも飼っていたようです。ですから、この譬えをユダヤ人が聞けば『それ見た事か。異邦人の小犬め』と思うでしょう。恐らく弟子たちも、同じだったでしょう。しかし異邦人がこの譬えを聞いたら、ユダヤ人のように、単純には聞かないかも知れない。それは犬を飼っている者なら、分かることがあるからです。飼っている犬が、いくら食卓の下に落ちたパン屑とは言え、勝手に食べることはルール違反になります。ちゃんと『お座り、お手』という儀式を経なければならない。しかし実際は、勝手に食べる犬を見て、ルール違反だからと叱る飼い主はいない。『ああ、勝手に食べて。そんなにも食べたかったのね』で終わります。この女性も、犬を飼っていて、飼い主の気持ちが分かるのでしょう。イエス様は、そんな小犬のような者でも、差別なく慈しんで下さる飼い主だと、信頼しきっているのです。この小犬のような信頼を『あなたの信仰は立派だ』と、語られるのです。

イエス様が何者であるのか、図らずもこの異邦人の女性から示されました。そして、無条件に信頼を寄せ続けている信仰をも示されました。それらの事を目の当たりにした弟子たちは、何を考えさせられたでしょうか。ちょうど来週の福音書の箇所は、マタイ16章13節以下『ペトロ、信仰を言い表す』という小見出しのところです。まさにそこで弟子たちは、イエス様から『わたしを何者だと言うのか』と問われるのです。今の私たちも何を問い、何を考えさせられているでしょうか。

聖霊降臨後第13主日

『人間ではなく天の父』マタイ16:13-20

いわゆるキリスト教と呼ばれる宗教とは、イエスというお方を、救い主として信じるというものです。『イエスというお方を、救い主として信じる』ということを、コンパクトに言い表せば『主イエス・キリスト』です。主とは、直接的には人間たちの主人、という意味です。ですから主とは、もはや神様と言い換えてもよいでしょう。イエスとは、その神様が人としてお生まれになった時の名前です。キリストとは、救い主という意味です。二千年前に、人間を罪から救うために、神様は今のイスラエルのナザレという村に、イエスという人としてお生まれになった。これを信じるのがキリスト教で、その信者たちの群れのことを教会と呼びます。『罪から救う』というその罪とは、人間なのに自分が神様のようになった状態を言います。そんな状態から解放されることを、救いと呼んでいます。

現代の私たちは、人間イエスに出会う事も見ることもありません。むしろ肉の目に見えないので、イエス様が神様だと言われても、あまり違和感は無いのかも知れません。しかし二千年前に人間イエスを目の当たりにした人々は、そのイエスが何者であるのか、それが大問題でした。それで聖書の中には、イエスが何者であるのか、人々の様々な反応が記されてあります。イエスと弟子たちとが、舟に乗って湖を渡ろうとした時、嵐に出会いました。その時イエス様が、風と湖をお叱りになって、すっかり凪になってしまいました。『人々は驚いて、いったいこの方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか』とあります(マタイ8:27)。病気の人を癒した時イエス様が『あなたの罪は赦される』と言いました。それを聞いたユダヤ教の重鎮が『この男は神を冒涜している』(マタイ9:3)と言いました。それから、宗教的に汚れている人たちと食事をしたり、そういう汚れを取り除く手洗いの儀礼も無視したり、安息日に、してはいけない癒し行為をしたり、ことごとくユダヤ教の律法を守らないイエス様に、ユダヤ教の重鎮たちは悪霊の頭呼ばわりをしました。そして殺意まで抱くようになりました。イエス様が育ったナザレの村の人々は、イエス様の噂や、また直接その教えを聞いた時『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか』と言いました(マタイ13:54-56)。あるいは、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちがいる舟に乗り込んだ時に、嵐が静まりました。彼らは『本当に、あなたは神の子です、と言ってイエスを拝んだ』(マタイ14:33)というのです。

従って来た弟子たちも、色々と考えさせられて来たんだと思います。そして今日の福音書の場面になります。イエス様は弟子たちに尋ねました。『人々は、人の子のことを何者だと言っているか』。『人の子』というのは、イエス様がしばしば、自称して使った言葉です。伝統的にはいわゆる『メシア』を指し示します。ですから、この場面でのイエス様の聞き方は『自分はメシアだけれども、人々は何者だと言っているか』というふうにも聞こえます。それに対する弟子たちの答えは、旧約聖書に出て来る有名な預言者であったり、洗礼者ヨハネであったり、いずれも人間たちなのです。他人ごとのようではありますが、イエス様がご自分をメシアだと言っているわけですから、人々の受け留めはみんな不正解になります。この時の弟子たちの思いを想像しますと『みんな本当のイエス様の事を知らないんだな。でもおれたちは知っているんだぞ』みたいな、そんな優越感のようなものも、匂って来そうなのです。

そんな弟子たちの在り様も、イエス様はご存じだったでしょう。今度は弟子たちに向けて『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか』と尋ねられました。弟子たちには、ご自分のことを『人の子』ではなく、『わたし』と置き換えています。生身のイエス様を目の前にしているわけですから、神様のようなメシアだなんて、普通は言えないでしょう。しかし弟子たちを代表して、シモン・ペトロが答えました。『あなたはメシア、生ける神の子です』。大正解です。あの不正解の人々のことを思い浮かべながら『おれたちは知っているんだぞ』みたいな、意気込みも伝わって来るようです。イエス様も、ややもすればそんな弟子たちが、もっと喜びそうなことまでおっしゃられました。イエス様が何者なのか、よく知っているであろう、ペトロを始めとするこの弟子たちを土台として、この上にキリスト教会を建てると言うのです。更には『天の国の鍵を授ける』とまで言われました。人間であるこの自分たちに、そんな権威が与えられるのか。益々自分たちが神様のようになってしまう。それこそ、罪の赦しどころではなくなってしまうではないか。

実は先程の、ペトロが大正解をした時に、もう一つ重大なことを、イエス様はおっしゃられていました。マタイ16章17節『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、私の天の父なのだ』。ここの『バルヨナ』というのは『ヨナの子』と言う意味で、ペトロのお父さんの名前が『ヨナ』だと言うのです。この同じ名前で、旧約聖書のヨナ書というものがあります。このヨナ書のことを、イエス様は今日の福音書の前の所で話題にしています。イエス様に敵対する人たちが、イエス様を試そうとして『天からのしるし』を見せてほしいと願ったわけです。それに対してイエス様は『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない』と答えました。

この『ヨナのしるし』とは何か。彼は預言者でしたが、ある時、悪に満ちたニネべという町の人たちに向けて、悔い改めを宣べ伝えるように、神様から命じられました。しかし、あんな悪い人間たちが悔い改めるはずもないし、そんな無駄なことを私はしたくない。更には、神様は優しくて、結局、どんな悪い人間も赦す方だから、わざわざ私が遣わされて、神様の言葉を伝えるまでもないでしょうと言って、神様から逃げてしまうのです。ここには、人間ヨナの思いと神様の思いとの、対立が示されています。結局、神様の思いが勝ります。そして、当たり前に思って来た出来事の背後に、全て神様が働かれていることに、改めてヨナは気づかされた。更に、あたかも神様に対抗するかのように振る舞って来た自分を振り返り、自分が何者であるのかに気づかされたのです。これをイエス様は『ヨナのしるし』とするわけです。

イエス様が何者であるのか、ペトロの答えは大正解でした。しかしその答えは、どこから出たものなのか。イエス様は問うわけです。来週の福音書の箇所は、今日の箇所の直ぐ後になります。イエス様が今後、ご自分の身に引き起こされるであろう、十字架上での死を匂わせた時でした。ペトロが『主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません』と、脇へお連れして諫めたというのです。その時にイエス様は、ペトロに向かって言いました。マタイ16章23節『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている』。

イエス様が何者であるのか。一生懸命、知識や体験を駆使して、獲得しようとするのかも知れません。しかし『ヨナのしるし』からも示されるように、イエス様を問うことは同時に、自分自身が何者であるのか、それを問う事だと示されます。だからこそ天の父は、イエス様が何者であるのか、こんな自分にも教えて下さると信じます。

キリストの教会によって、自分自身を問い続けます。