からし種 414号 2023年11月

聖霊降臨後第18主日

『後で考え直して』マタイ21:23-32

今日の福音書の最初の場面では、イエス様がエルサレム神殿の境内で、いわゆる神様や信仰に関わることを、教えておられたようです。そのイエス様に対して、祭司長や民の長老たちが来て『何の権威でこんなことをしているんだ。誰がそんな権威を与えたのか』と、非難するように言ったというのです。『祭司長や民の長老たち』というのは、言わばユダヤ教団の重鎮たちに含まれるような人たちです。彼らはイエス様が、あたかもユダヤ教を否定するような振る舞いを、繰り返して来ているので、強い反感を抱くようになりました。それどころか、中には『どうやって殺そうか』(12:14)と、殺意さえ抱く人たちも出て来た。今日の討論になった場面の、直接的なきっかけは、イエス様が神殿の境内で、神殿礼拝に必要な、犠牲の供え物の動物を売る人や、お賽銭用のユダヤの貨幣に、両替をする人たちを追い出したという、暴挙があったからです。暴挙と申し上げましたが、それ程にこの光景は、神様を冒涜するような行為にも、映ったことでしょう。

ところで、今日の場面での祭司長たちの発言は、それこそ暴挙とも思われるような行為をしたイエス様に対して、何となく非難の度合いが、弱いようにも思うのです。権威という言葉を使っていますが、何か非難する自分たちの隠れ蓑に、他者の権威を借りるようなのです。自分たちの信仰の思いは、どれ程のものなのか、それが伝わって来ない。イエス様のこれまでの振る舞いは、度を過ぎているように見える。あのような者を、あのまま放っておいて良いのか。そんな非難が、祭司長や民の長老たちにも、向けられていても不思議ではない。そうすると、そんなイエス様を野放しにしているのは、自分たちの沽券に、関わることにもなる。そんなふうにプレッシャーも感じざるを得なかったのでしょうか。『いや、野放しにはしていませんよ』と、形だけでも、自分たちの権威を守るかのように、今日の非難の行動を起こさざるを得なかったのではないか。だからでしょうか、当面の自分の立場を守るだけで、彼らの神信仰の確信のようなものが、伝わって来ないのです。

彼らの非難の度合いの弱さは、この後のイエス様とのやり取りの中にも、垣間見えるのです。彼らの詰問に対してイエス様は、直ぐには答えられない。逆に質問を返しているのです。イエス様にそうさせること自体にも、彼らの確信の弱さが、伝わって来るのです。『そうじゃない。今、我々の方が質問しているのだ。それにまずあなたの方が、答えるべきだ』ぐらいの、強気の発言もあっても、良さそうに思います。しかし彼らは、イエス様の質問に応えようとします。いわゆるバプテスマのヨハネを『何者だと受け留めているのか』と、逆に問われるわけです。それに対しても彼らは、言わば、周りの評価ばかりを気にしているのです。『自分はこう信じる』という、強い確信のようなものが、伝わって来ない。挙句の果ては、イエス様の問いに対して『分からない』とまで、答えてしまったのです。それはむしろ彼らの権威に、傷が付いてしまうのではないかとさえ思われます。がしかし、ひとまず波風を立てない、という判断だったのでしょうか。それ自体がもはや、自己防衛的な姿勢でしかない。彼らだって、神信仰は与えられているはずです。しかしその熱い思いは、伝わって来ない。そう言えば、今日の福音書の直ぐ前の場面で、イエス様は信仰の事に触れています。イエス様がいちじくの木に、一言投げかけて、枯れさせてしまった場面です。それを見た弟子たちに向かって、イエス様が言いました。『信仰を持って疑わないならば、どんなものに対しても、あなた方が投げかけた言葉の通りになる』。

しかしそうは言っても、イエス様は人間の弱さもよくご存じです。今日の場面でイエス様が、何故、バプテスマのヨハネのことを持ち出したのか。その理由を考えますと、分かるような気がします。このヨハネは、イエス様のことを前触れする、最後の預言者として登場した人物です。彼が登場した時の第一声は『悔い改めよ。天の国は近づいた』でした。更に『悔い改めにふさわしい実を結べ。・・わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水でバプテスマを授けている』と言いました。『悔い改め』を強調するのです。人間は罪を犯して来た。これからも、犯すこともあるだろう。罪を犯さないで生きる事が出来れば、それに越したことはない。しかし実際問題として、罪を犯す。その時に、どのように対処して生きるのか。弱い人間には、そこが問われている。その生き方の第一歩は、悔い改めにあると言うのです。

その悔い改めについて、イエス様は次の『二人の息子のたとえ』の箇所で、更に人間が抱える問題を、浮き彫りにするのです。二人の息子を持つ父が、まず兄にぶどう園での労働を命じる。最初は拒否したが『後で考え直して』命令に従った。弟の方の返事は、従うと答えたが、実際は従わなかった。父親の望み通りにしたのは兄の方だと、たとえを聞いた者たちに、答えさせたわけです。当時のユダヤ社会では、兄と言う存在は家族内では、言わば権威あるものでした。その権威あるものが、父親の命令に『いやです』と言った。その決断は、それなりに重みがあるはずです。権威あるものが、一旦発した言葉は、自分ではなかなか、翻しずらい。それをしたら、権威が揺らぐと思うからです。でもこの兄は、それをしたのです。自分の面目がつぶれたり、権威が揺らいでも、それを恐れず『後で考え直して』行動した。そのことに、父は喜ばれる。弟は兄程の権威は無かった。簡単に、従ったり、拒否したり出来る立場なのかも知れません。しかし今は父の命令に従わないとしても、弟はこれからまた『後で考え直す』ことも出来るのでしょう。

今日のたとえの最後に、罪人と呼ばれる徴税人や娼婦たちは、バプテスマのヨハネを信じたという。しかし祭司長や民の長老たちは『それを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった』。『あんな罪深い人間たちが、信じたと言うのか。嘘だろう。見せかけに過ぎない』そんな反応もあるでしょう。『あんな罪深い人間たちが、信じたと言うのか。もし本当だとしても、今更、あんな人間たちの後から考え直すなんて、癪だ』。『あんな罪深い人間たちが、信じたと言うのか。奇跡としか言いようがない。イエスとは一体何者なんだ』。祭司長や民の長老たちを通して、色々な反応が思い浮かびます。『後で考え直して』という『後で』とは、どのぐらいのものなのか。何も具体的な時間は書かれていない。『五分後』かも知れない。『三十年後』かも知れない。

罪を犯さないどころか、悔い改めることさえも、人間的権威や自己保身が邪魔をする。そして、出来ないでいる自分です。そんな自分をも、主よあなたは『後で考え直す』のを、待ち続けて下さっていると信じます。キリストの教会によって、創り変えられて行きます。

聖霊降臨後第19主日

『このたとえを聞いて』マタイ21:33-46

今日の福音書は『もう一つのたとえを聞きなさい』と言う言葉から始まっております。ということは、その前に、他にもう一つのたとえがあるはずです。それは今日の福音書のすぐ前にあります。先週の福音書の箇所にも含まれていました。『二人の息子のたとえ』という小見出しが付けられてあるところです。そして、この二つのたとえには、そのパターンがよく似たところがあります。ですから、この二つのたとえから、イエス様が共通して伝えたいものがあるように示されます。それを探りたいと思います。

まず、どんな似たようなパターンがあるのか、それを取り上げます。一つは、たとえを話されて最後に、そのたとえから聞いている者に、質問をするところです。ここでの、直接質問を受ける者は、祭司長と民の長老たちです。今日の福音書の最後には、ファリサイ派の人々も登場していますが、民の長老たちも含まれるでしょう。いずれにしてもこれらの人々は、ユダヤ教団の重鎮たちです。信仰者としては、いわゆる清く正しい人たちだと、見られている人たちでしょう。しかも本人たちも、少なくとも、それ程悪い人間では無いと、自負していたでしょう。そんな人々にたとえを話されて、イエス様は質問をするのです。その質問は、少なくともそんな聖人君子のように思われている人たちに対しては、実にイージーな質問なのです。先週のたとえでは、兄と弟がいて、兄の方はお父さんに、ぶどう園で働きなさいと言われて、最初は『いやです』と答えて、後で考え直して、ぶどう園に行ったという。弟の方は同じように言われて、最初は『行きます』と答えたけれども、実際は行かなかったという。質問は『どちらが父親の望みどりにしたか』というものでした。当然彼らは『兄の方です』と答えたわけです。それに対してイエス様は『その通り正しい答えだ。偉いぞ』とは言わなかった。質問がイージーだからなのか。どうもそうでもなさそうです。褒めるどころか、むしろ批判するかのように、徴税人や娼婦の方が、あなたたちより先に神の国に入るとまでおっしゃられたのです。その理由は、あのバプテスマのヨハネのことを、徴税人や娼婦たちは信じたけれども、それを見てもあなたたちは、後で考え直して、ヨハネを信じようとしなかったからだ、と言うのです。もちろん、後で考え直して、信じれば良かったのかも知れませんが、彼らの中に、信じさせないものがあって、それが何なのか、そこをイエス様は問題とされるようです。そしてそれが、今日のたとえの中で、更に浮き彫りにさせられるのです。

今日の福音書のたとえのなかでも、同じようにイージーとも思える質問をしています。たとえは、次のようです。家の主人がぶどう園を作って、農夫たちに貸して旅に出る。収穫の時が来て、収穫を受け取りに僕たちを、農夫たちのところに送る。何人も、何回も送ったが、農夫たちは僕たちを殺してしまう。とうとう主人は自分の息子を送ったが、その息子まで殺してしまうというたとえです。そこで質問をする。この家の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするだろうか。これまたあまりにもイージー過ぎる。だから彼らは答えます。『その悪人どもを殺し、正しい他の農夫たちに、ぶどう園を貸すに違いない』。これに対してもイエス様は『正しい答えだ。偉いぞ』とは言わない。やはりイージー過ぎる問いだからでしょうか。ここでもそうでもなさそうです。むしろまたここでも、何か非難さえもするかのように、聖書の言葉を引用するのです。『聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか』。これは詩編118編22-23節からの引用です。

何故ここでこの詩編を、イエス様は引用されたのか。この詩編118編を概観します。これは苦難を被るものが、徹底的に主なる神様に信頼して、それでもこんな自分たちを、神様は必ず助けて下さるという、喜びと感謝の詩編になります。6-9節が印象深いです。『主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。人間がわたしに何をなしえよう。主はわたしの味方、助けとなって、わたしを憎む者らを支配させてくださる。人間に頼らず、主を避けどころとしよう。君侯に頼らず、主を避けどころとしよう』。これらは、まさに神の国を歌い上げる言葉です。聖書が言う神の国は、神が支配されている状態を言います。人間に頼らない。君侯に頼らない。だから人間を恐れない。恐れるのは神だけ。今はわたしを憎む者らが、わたしを支配しているかのように見えるが、神様はそんな状況を逆転させて下さる。わたしがわたしを憎む者らを支配させてくださる。そこで22-23節の言葉があるのです。『家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと』。この隅の親石は今や、十字架のイエス様の事だと、キリスト教会は受け止めます。しかし今日の福音書のこの場面は、まだ十字架の出来事以前のことです。事前にイエス様が、予告されたものだとの見解もあります。がしかし、この場面に即して解釈すれば、わたしたちを憎む者たちが、わたしたちをこの国には必要のない者として、排斥しようとしたけれども、そんなわたしたちが、むしろこの国を支える必要な者として、主なる神様は用いて下さるという。まさに人間的価値観を超える、神の価値観が現わされる、大逆転が起こされるのです。これぞ神の国なのです。

たとえから質問されて、聞いた者たちの答えは大正解でした。しかしイエス様の目は、正解した人間たちの、内面に注がれるのです。もちろん、家の主人の僕たちや息子まで殺す農夫たちは、罪深い者たちです。そんな僕たちを、旅から戻って来た家の主人はどうするのか。その見解は聖書には記されてありません。ただ、たとえを聞いた者たちの憶測を、聖書は記しているだけです。しかも彼らは殺人者の農夫たちのことを『その悪人ども』と呼び捨て『違いない』と断定までしているのです。本当にあなたたちは、その農夫たちのことを、悪人どもと呼び捨てることが出来るのか。農夫たちの弁解は、聞くまでも無いのかも知れない。けれども、それでもその弁解を聞く余地は無いのか。少なくとも家の主人には、その余地はあるかも知れないだろう。なのに、そこまで断定出来るのか。今はあなたたちは、聖人君子のようかも知れない。また、将来に渡っても、それは揺らがないと思っているかも知れない。それはあたかも、私と言う人間の力で、生き抜いて行けるかのようです。まさしく神の国の住人には、相応しくない姿です。だから神の国は取り上げられると言われるのかも知れません。

最後に隅の親石に打ち砕かれる話を聞いて、彼らは自分たちのことを言っておられると気づきました。ここで彼らは、考え直すことも出来たでしょう。しかし彼らはイエスを捕らえようと思いました。一方でイエスを慕う群衆をも恐れていました。どこまでも今の自分たちを、自己正当化しようとし、人を恐れる彼らは、まさしく詩編118編の作者の思いとは違います。神の国の住人に相応しくない姿が、浮き彫りになるのです。ここでまた、そんな祭司長や民の長老たちを、何て頑固な連中なんだと、非難しそうな今の自分がいます。そしてまた、自分はそれが出来る者なのかと、自問自答させられてしまうのです。

どこまで行っても頑固で、本当に恐れるべきものを見失ってしまう私を、主よどうかキリストの教会によって、戒め導き続けて下さい。

聖霊降臨後第20主日

『招いておいた人々』マタイ22:1-14

今日の福音書は天の国は、王の王子のために、婚宴を催したのに似ているという、イエス様のお話しです。これまでにもこの場で申し上げて来たことですが、聖書が言う天の国とは、神様が支配されている状態のことです。ですから天の国には、神様がいて、人間を始めとする、支配されるものたちがいるという状況です。ということは、神と人間との間の信仰の在り様が、テーマとなるということです。それで、イエス様のお話しに出て来る王様が、差し当たって神様に当たるのでしょうか。そして王子は、神様の御子ですから、つまるところイエス様ということでしょうか。花嫁には言及が有りません。通常は、一人の女性を想定するでしょう。しかし聖書には、教会が花嫁に譬えられているところがあります(黙示19:7-8)。ですから今日のお話しは、神様が王様、イエス様が王子、教会が花嫁、そんな関係を念頭に、信仰をテーマとして、読み進んでまいります。

それにしても今日の話しの中で、婚宴に招いておいた人々は、何故、来ようとしなかったのでしょうか。婚宴と言う喜ばしい席に、しかも王子の婚宴です。こんな名誉な招きに応えないなんて、余程の理由があったのでしょうか。まず最初は、聖書は『来ようとしなかった』とだけ記します。もはや王様や王子の存在感が、招かれた人々の中に、何か失せてしまっていたかのようです。言わば神無しの状態でしょうかなってしまう。別の家来たちによる、二度目の招きに対しては、今度は理由らしきことが記されてあります。やはり無視する人々がいます。神無し状態です。また一人は畑に行くと言い、一人は商売に出かけると言う。一応、王の存在を認めながらも、生計を立てる方を優先するようです。それはあたかも、信仰が建前になって、本音は、お金でしょうという、現実生活が見え隠れします。更に他の人々は、王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまったという。ここまで来ると、王の存在感が無いとか、建前よりも本音が現実的と言うこと以上の状況です。もはや王様の支配に取って替わって、自分たちの力で生きて行こうという姿勢です。これは神様に生かされる人間というよりも、人間が神のようになってしまうという生き方を指し示されるようです。

それにしても、王の家来たちを殺すというのは、過激です。余程王様に不満があったのか。直接的には、王子が気に食わなかったのか。あんな者が王子だなんて、考えられない。どうして王様は、あんなのを王子にしたのか。納得が行かない。特に母親の氏素性を見れば、相応しくないと、分かるはずではないか。自分たちが考える、王子であるべき価値観に、この王子は相応しくない。そんな背景が、この『招いておいた人々』の中に、感じさせられるのです。そう言えば聖書は『イエス様を何者とするのか』と、問い続けているように読ませられます。何と言ってもイエス様は、人間の女性から産まれたお方です。それが神の子だと言えるのか。今日の福音書の直ぐ前、先週の箇所にもなりますが、イエス様に反対する者たちのことが記されてあります。マタイ21章46節『イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである』。そして今日の箇所でまた、イエス様はこのお話しをされるわけです。『私を何者と言うのか』そんな問いが、今日の話しを通しても、続けられるようです。

そんな人殺しどもを王様は、軍隊を送って滅ぼし、町を焼き払ったという。王様だから、その位のことはするだろう。しかしこの王様が、神様に似ていると言われると、一方で、そうであってほしくないという思いもあります。今の私たちの住む世界は、相変わらず戦争が繰り返されています。そんな世界であっても、神様が支配されている世界だと信じる者にとっては、この世界は天の国であるはずです。今私たちが直面する、悲惨とも思えるこの世界の戦争は、神様の支配の下にあって起こされている。それらの状況は、神様の了解の下に起こされている、という見方もあるだろう。しかしまた、神様がそんなことをするはずは無い、という見方もある。考えさせられる余韻を、聖書は与えるようです。

そして王様は『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった』と言って『町の大通りに出て、見かけた者はだれでも連れて来なさい』と命じた。『それで善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった』と言う。ここで神様の招きの尺度を考えさせられます。どうも神様の尺度は、いわゆる知的であるとか、聖人君子的な価値観ではないようです。最初に招かれていた人々は、いわゆる知識豊富な聖人君子のようだったでしょうから。それで返って、自分が描く筋書きとは異なるものを、なかなか受け入れられなくなってしまっていたのではないか。そこで王様は、善悪両方を含む多様性を孕む人々を招いた。これは何か今や、イエス様を通して示される神様のようにも思える。しかももう一つ注目させられるのは、この王様は最初から、強制的に婚宴のお客を集めようとはしないことです。それぞれの自由な意志が、尊重されるのです。これは信仰に置き換えて考えて見ても、最も大切なことの一つです。

王様は今度は『客でいっぱいになった』のを喜ばれるようです。客のいない婚宴は淋しいです。がしかし最低限、花婿と花嫁が居さえすれば、婚宴は成立します。それにしても、集められる客にこだわりがあるようです。ということは冒頭で、花嫁は教会に置き換えられると、申し上げました。教会と訳されているギリシア語(エクレシア)を直訳します。『呼び集められた者たちの群れ』という意味です。王様は婚宴会場に、いっぱいになった『客を見ようと入って来』たという。ただ単に、人数を数えるためではありません。お客の一人一人を見るためでした。その中に、礼服を着ていない者がいた。そして『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と、問われるのです。ここでまず注目させられるのは『友よ』と呼びかけられていることです。これは聖書(ヨハネ15:14)の中でイエス様が、弟子たちを『友よ』と呼びかけられているのを思い起こさせられます。そして次に注目するのは、問われても『この者が黙っている』というのです。『忘れました、この婚礼を軽く見ていました、申し訳ありません』とか、何でも良いから、正直に思うことを言えば良かったのです。善人も悪人も、集められているわけですから、取り繕う必要はないはずです。

聖書の中で教会が、イエス様の花嫁としている個所として、黙示録19章8節を取り上げました。次のようです。『花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである』。『麻の衣』を『礼服』と置き換えると、『礼服』は『聖なる者たちの正しい行い』とも言えるでしょう。そして『正しい行い』とは、招かれたことへの感謝と喜びでしょう。更には、招きに相応しくないはずの自分を見つめ直して、悔い改めさせられて行くことでしょう。礼服を着ていなかった者は、手足を縛られ、暗闇に放り出されて、泣きわめいて歯ぎしりする、と言われます。厳しい言葉ですが、どんなに頑固者でも、そこにはなお悔い改めに導かれる余地が示されていると思うのです。

最後に『招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない』と言われます。これを信仰のことに置き換えます。神の招きに対して、これを正しく受け入れ、これに応答するとき、そこに神の選びが現実になる。ここに『神に呼び集められたる者の群れ』が示される。招かれる者は、日々悔い改め続ける者なのではないか。再来週の10/29日は宗教改革記念主日です。宗教改革の核心は『悔い改め』です。もう一度この二週間を、キリストの教会によって相応しく、悔い改めさせられて行きます。

聖霊降臨後第21主日

『だれをもはばからない』マタイ22:15-22

イエス様はしばしばたとえ話をされます。特に直近の三週間は、連続して三つのたとえ話を聞いてまいりました。イエス様がたとえ話をされる意図は、聞く者が考えさせられるためです。聞いたたとえの中で、自分自身はどの立場に置かれているものなのか。それによって自分自身は、一体何者なのか。それらを自ら気づかせるように、イエス様はたとえ話をされるわけです。自分はこういう者なのだと気づかされた者は、それからどうしたら良いのか。次の一歩がまた、踏み出せるように、イエス様から促されて行くわけです。

例えば、先々週に与えられた福音書の箇所の、マタイ21章45-46節は次のように記されております。『祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである』。考えて気づいた結果、イエスを捕らえるように、導かれるという一つの具体例です。ところで、この時のファリサイ派の人たちが『群衆を恐れた』とあります。つまり、イエスを捕らえることによって、イエス様を慕っている人々から、憎まれることを恐れたわけです。言い換えれば『群衆をはばかった』わけです。そこで、どうしたら群衆に憎まれないで、イエスを捕らえることが出来るだろうかと考えた。そのためには、明らかにイエスに、深刻な落ち度があることが、人々に露わにされればよいわけだ。そこで、今日の福音書の場面になります。

冒頭に次のように記されてあります。『ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した』。その罠の内容は、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているかいないかを、イエスに答えさせる、というものでした。当時のユダヤは、ローマ皇帝の植民地下にありましたから、当然、税金も皇帝に納める義務があります。しかし、ユダヤ人にして見れば、ローマ皇帝は異教徒です。そればかりか、自らを神の子と称しています。そんな神を冒涜する人間を、承認するような行為は、ユダヤ人にして見れば、極めて恥辱的です。しかし実際問題として、税金を納めなければ、ローマへの反逆罪にも問われます。ユダヤ人の間では、この問題はずっと、くすぶり続けて来たわけです。

そんな背景があって、イエス様にこの質問をぶつけてみた。しかもここで興味深いのは、ファリサイ派の弟子たちと、ヘロデ派の人々とが一緒になって、この質問をイエス様にぶつけた、ということです。この『ヘロデ派の人々』というのは、ローマ皇帝に任命されて、当時のユダヤを直接納めていた領主の、ヘロデ・アンティパスの手下の者たちだったと思われます。彼らは、ローマ皇帝の傀儡政権に連なります。ですから、言わば皇帝派になります。そして、質問をする際に、次のような言葉も付け加えています。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです』。このように付け加えたのは『どっちかに答えろよ。曖昧な答え方をするなよ』という、ダメ押しをするようです。ですからここで、イエス様が税金を納めると言えば、ファリサイ派の弟子たちが騒ぐでしょう。納めないと答えれば、ヘロデ派の者たちが騒ぐでしょう。どっちに転んでも、ここはイエス様が窮地に陥れられることになります。これが罠です。

それにしても面白いのは、この罠をしかけるために、ファリサイ派とヘロデ派が協力していることです。本来なら、反目し合う間柄です。図らずも、この敵対し合う二つの勢力が、イエス様によって一つとさせられているのです。次の聖書の箇所が思い起こされました。エフェソ2章14-16節『実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました』。今日のこの場面で、敵対する両者が、イエス様によって一つとさせられているとは、当事者は思いもよらないことでしょう。それから、もう一つ、彼らが気づかないで、自分たちの問題を、図らずも告白してしまっている言葉があります。それはイエス様が、どのようなお方であるのかを、語っている言葉です。彼らは言いました。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています』。このようにイエス様のことを告白している彼らは『群衆をはばかる』者たちでした。つまり、恐れるべきものは、神のみであるはずなのに、彼らは人を恐れている者たちなのです。そんな自分たちの問題に気づかずに、あたかもそれを棚上げするようにして、さもイエス様のことを正しく告白しているかのように振る舞うのです。このような人間の状態は、今も、他人ごとでは無いように示されます。

さてイエス様の答えは、いかばかりであったか。税金に納めるお金に刻まれている像が、ローマ皇帝の像なので『では、皇帝のものは皇帝に』と答えられました。更に続けて『神のものは神に返しなさい』とおっしゃられたのです。皇帝に税金を納めたからと言って、それで皇帝を信仰の対象とすることになるのか。そんなことは無いだろう。時の政府が定めた法律に従うだけのことだろう。そして人間社会は、それぞれ、ここからここまでが自分の持ち物で、そこから向こうはあなたのもの、という具合に、テリトリーを定めています。それはそれで、現実の人間社会が、秩序を持って生きて行くための、必要な方策にもなるのでしょう。しかし定められたテリトリーに、見解の相違が必ず生まれる。それが原因で、争いが起こることも現実です。しかしイエス様は、人間が定めた法律やテリトリーを尊重されます。しかしそれは、いずれにしても、一時的なものに過ぎない。結局、全てのものは『神のものでしょう』と、おっしゃられるようです。それはまた、人間集団の間であっても、それぞれ集団が分かれて、ファリサイ派だのヘロデ派だのと、派閥のようなものを形成するでしょう。それはそれで現実の人間たちが、行動するのに、必要なことから派生するのでしょう。そして争いも必然なのでしょう。しかし改めて、先程のエフェソ書が響いて来るのです。『十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました』。

今こそ私たちは、本当の気づくべき自分、本当に恐れるべきお方、そして自分以外の、全てのものの本当の持ち主が、他におられること、キリストの教会によって、そこに生かされ証しし続けて行きたいのです。

宗教改革記念主日

『メシアのことをどう思う』マタイ22:34-46

今日は1517年10月31日に、ドイツ人修道士マルティン・ルターによって始められた、宗教改革運動を記念する主日です。この宗教改革を通して示されたことは、人間の罪の赦しという救いに関しては、人間の行いの力では得られない。人間の状況如何に関わらず、ただ一方的な神様の赦しによって得られるということです。そして、その『人間の状況如何に関わらず、ただ一方的な神様の赦しがある』ことを保証するのが、御子主イエス・キリストの十字架の出来事です。このキリストの保証を信じる信仰によって、救われるというのです。ところが宗教改革当時のキリスト教会は、いつしか人間の行いによって、救いが得られるかのような状況に陥っていたわけです。救いに関するこのような誤解は、今から2,000年以上前の、イエス様の登場以前からありました。いわゆる律法主義と呼ばれるものです。神の律法を守れば救われ、守らなければ救われない。まさに律法を守るという、人間の行いによって、救いが得られかのように振る舞って来ていた。イエス様は、そんな律法主義を批判したのです。主なる神様に立ち返れと、悔い改めを迫ったわけです。

イエス様の宣教の第一声は、マタイ福音書では『悔い改めよ。天の国は近づいた』でした。『天の国』とは、神様が支配されている状態の事だと、この場でも繰り返し述べて来ました。神様が今ここで支配されていると信じる者にとって、ここは天の国なのです。神様が支配者ですから、救うか救われないかは、神様がお決めになることです。それなのに、服従する立場の人間が、自らの救いを決めるように振る舞っている。人間が神になり替わってしまっている。これが人間の罪です。律法主義はこの人間の罪を映し出します。しかしイエス様の十字架の出来事によって、陥り易い律法主義から解放されて、キリストを信じる群れの教会が建て上げられました。

それなのに、それから1,500年の歴史を経る中で、そのキリスト教会が、あの律法主義のような状態に陥ってしまったのです。このように人間が、いつしか神のように振る舞ってしまうことは、今の私たちにとっても、決して笑えない事です。見えない神様よりも、行いという見えるものに、人間はいつでも揺り動かされてしまうからです。もちろんそんな人間の弱さを、そもそも神様はよくご存じです。だから、見えない神様の、いわば『しるし』として、御子主イエス・キリストを送って下さったはずなのです。更にはそのイエス・キリストは、十字架の死と復活と昇天を通して、やはり肉の目には見えなくなってしまいました。しかし今度は、そのキリストの見える『しるし』として、教会が与えられたのです。教会によって、見えないイエス様が、見えるようにして下さっている。それでも人間は、自らを神のようにしてしまう、律法主義に陥ってしまうのです。本当にこの律法主義は、根深いものです。

であるならば宗教改革は、500年前のただ一度の出来事だけではなくて、繰り返し起こされなければならないのではないか。先程のイエス様の宣教の第一声は『悔い改めよ』で始まっていました。そして実は宗教改革の核心は『悔い改め』なのです。宗教改革者ルターが『95か条の提題』を世に表して、改革の火が燃え広がって行きました。その提題の第一条は次の通りです。『私たちの主であり師であるイエス・キリストが、悔い改めよ(マタイ4:17)と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである』。一人一人の人間の悔い改めが言われています。同時に、宗教改革そのものが、キリスト教会全体の悔い改めだと示されます。

さて今日の福音書のすぐ前の所に、イエス様が、言わば討論されている場面が、二つほど記されてあります。これらは何か、改めてキリストの教えの核心に導くようです。一つはマタイ22章15-22節の『皇帝への税金』と言う、小見出しが付けられてある所です。当時のユダヤ人を支配している、神の子を自称するローマ皇帝に、税金を払っても良いかどうか、という問答です。払えば偶像崇拝の罪を問われかねない。払わなければ、ローマへの反逆罪に問われる。いずれにしても、払う払わないという、見える行為で、その人の信仰を問うのが律法主義です。イエス様が問うのは、見えない心の中です。もう一つはマタイ22章23-33節の『復活についての問答』という小見出しが付けられてある所です。生きている間に、七人の男性と結婚する事になってしまった女性がいて、その女性が死んで復活した時、その七人のうち、誰がその女性の夫になるのか、という討論です。地上の見える世界の延長線上に、復活を考えてしまっている。復活は見るものではなく、信じるものです。だから見えないものです。

そして今日の福音書では、新共同訳聖書では『最も重要な掟』と『ダビデの子についての問答』という、二つの小見出しが付けられてあります。やはりイエス様が討論する場面です。最も重要な掟を問われて、神を愛することと、隣人を愛することの二つが、同じように重要で、全ての律法は、この二つに基づいていると言われます。見える行為に愛があるかどうかは、他人には見えないものです。続いて、今度はイエス様の方から問いかけた討論の場面です。『あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか』。人々は『ダビデの子』と答えました。人々が期待していたメシアは、あのダビデのような強力な王様でした。言わば見える人間の権力者です。ですからダビデの子という、見えるダビデの子孫が、見える王様のメシアとして登場するのを待ち望んでいたのです。しかしイエス様は、そんな人々の見えるメシアの待望を挫きます。敢えて言えば、ダビデの子とは、メシアのしるしです。だからイエス様を指し示します。

 先ほど、キリストの見える『しるし』として、教会が与えられたと申し上げました。更にその教会の『しるし』についても触れます。まさに宗教改革の最中に、ルターが書いた『アウグスブルク信仰告白書』第七条には、次のように記されてあります。『・・それは、全信徒の集まりであって、その中で福音が純粋に説教され、サクラメントが福音に従って与えられる。・・』。つまり教会の『しるし』とは、集められた信徒がいて、福音が説教され、サクラメント(救いのしるし、洗礼と聖餐)が執行されるところだと言います。更にこの第十三条では、サクラメントについて、次のように記しております。『サクラメントの意味については、次のように教える。すなわち、サクラメントは外的にキリスト者を識別するしるしであるだけでなく、むしろわれわれに対する神のみ旨のしるしであり証明であって、それによって、われわれの信仰を目覚めさせ、強めるために設定されている。それゆえ、これは信仰を要求する。また信仰において受け取られ、それによって信仰が強められるとき正しく用いられている』。サクラメントはキリスト者を識別する、見えるしるしだと、ルターは言います。しかしそれは、ややもすれば、新たな律法主義を産む危険性を孕んでいます。例えば洗礼を受けた者がクリスチャンで、救われている人間だ。それ以外は、クリスチャンではないので救われないと言い切ってしまう。それは、クリスチャンだからと言って、そうではない人間を裁くことになります。裁くことの出来るお方は、キリストの神のみです。ですからルターは『むしろ』と書いてその後に、洗礼を受けた者の、見えない信仰を強調していることが分かります。

 この洗礼について、もう一つのルターの著書『小教理問答書』の中で、次のように書いています。『ではこのような水の洗礼はなにを意味しますか。答え。これは、私たちのうちにある古いアダムが日毎の後悔と悔い改めによって溺れさせられ、すべての罪と悪い欲と共に死んで、逆に日毎にそこから出て、新しい人として復活して、神の前での義と清さのうちに永遠に生きるようになる、ということだよ』。ただ一回の救いの洗礼の御業に与ることは、日毎の悔い改めによって、日毎に洗礼に与り続けることだと言うのです。最後に先程の『95か条の提題』の一番最後の、第95条を引用します。『そしてキリスト者は平安の保証によるよりも、むしろ多くの苦しみによって、天国にはいることを信じなければならない』。

 繰り返し襲う律法主義の誘惑に苦しみつつ、キリストの教会によって悔い改めさせられて行きます。