からし種 416号 2024年1月

待降節第1主日

『人の子が戸口に』マルコ13:24-37

先週も予告しましたが、今日は、一年間に渡るキリスト教会独自のカレンダーでは、新年の元旦になります。今日から4週に渡って、救い主が預言通りに登場する時を、待つ時代を想定します。それでこの期節を待降節と呼ぶわけです。そして救い主の誕生という、25日のクリスマスを迎えます。毎週の主日に与えられる福音書は、マルコになります。それで、先週は大晦日の週でしたが、救い主イエス様の再臨について、聖書から聞きました。再臨はいつの事か分からない。それよりもむしろ、再臨を待っている、今と言う一瞬一瞬の生き方が、大切だということでした。キリスト教信仰は、待つという信仰です。そのための生き方や、あるいは、心構えのようなものが問われます。

それで今日は、イエス様の再臨を待つ、心構えについて、聖書から考えて見たいと思います。今日のマルコ福音書ですが、イエス様の再臨のことを記しているところです。再臨と言うのは、言わば二回目の到来ということですが、一回目が、救い主イエス様の誕生の、クリスマスということになります。それで今日の待降節第1主日には、マルコが描く再臨の聖書箇所が与えられています。そこで、クリスマスという一回目の到来の時とで、何か共通するものがあるのか。それを探って行きたいと思います。

まず今日のマルコ福音書の冒頭の所は、再臨のイエス様が、やって来られる状況を描いています。天変地異も描かれていて、恐怖感も芽生えます。がしかし、この箇所の中で、同じ言葉が二度まで使われていることに注目させられます。それは26節と27節にある『そのとき』という言葉です。私たちが『そのとき』と聞きますと、過去から未来へと、順序よく時が流れる中の『そのとき』なんだなと考えます。過去が未来になったり、現在が過去になるようには考えられません。しかし再臨のイエス様にとっては、あたかも人間が便宜上定めた、時間や歴史の流れには縛られません。そんな人間的時間を、超えてしまう存在だからです。ですから、この二つの『そのとき』を、記されている通りの順序では考えないことにします。

この二つの『そのとき』は、普通に考えれば、イエス様の再臨の『そのとき』なのでしょう。がしかし、あえてこの二つの時を切り離して、一つの独立した『そのとき』と考えてみます。そうしますと、人の子によって、地の果てから天の果てまでの四方から、呼び集められた、選ばれた人たちというのは、キリストの教会を指し示します。ですから、この戸塚ルーテル教会も『そのとき』に、『人の子によって、地の果てから天の果てまでの四方から、呼び集められた、選ばれた人たち』の群れとなった。そんなキリストの教会に向けて、28節以下の『いちじくの木からの教え』が話されるのです。27節までの、何かおどろおどろしい天変地異の場面から、打って変わって、いちじくの木が示す、日常の風景が語られるのです。

そして、マルコ13章29-30節『これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない』。ここの『これらのこと』と言うのは直接的には、マルコ13章5-25節までの、言わば、今現在も世界中で日常的に起こされているような、戦争や飢饉という、悲惨な出来事のようです。そしてそこには、世の終わりとも思えるような出来事も含まれています。しかしそれでも『これらのこと』は、いちじくの木が示す、日常の風景と同じように考える。『枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、・・人の子が戸口に近づいていると悟りなさい』。あの非日常的とも思われる、戦争や飢餓や天変地異でさえも、いちじくの木が、季節によって移り替わるという、日常的なことのように考えるのです。

そしてそんな日常的な事の中に『人の子が戸口に近づいている』ことを悟りなさい。そのように『気をつけて、目を覚ましていなさい』と言うのです。キリストの教会の心構えが、ここに示されています。『人の子』とは、再臨のイエス様のことですが、そんなイエス様が戸口に近づいている。それは、既に再臨している、とも考えてもいいのではないか。あのクリスマスという救い主の第一の臨在は、イエス様が誕生した時と考えられます。しかし、ほとんどの大多数の人には、そんなイエス様の到来は、分からなかった。それでも何とか人々が気づくのは、クリスマスから数えて、30年も経った時でした。イエス様が宣教の第一声を上げた時です。これがクリスマスが示す、第一の到来です。そして第二の到来という再臨も、既に到来していると考えて、だから『戸口に近づいている』と、聖書は言うのではないか。後は何気ない日常の中に『気をつけて、目を覚ましてい』るだけでいい。

いちじくの木のことで、思い出したことがありました。園庭の桑の木の桑の実を、園児たちは毎年喜んで食べています。冬になって、丸裸になった桑の木を眺めながら、桑の実を食べていた園児たちを思い出し、ちょっぴり感傷にひたります。そんな時、桑の木をのぞき込むと、枝先にしっかりと、次の新しい芽が膨らんでいるのです。そして思うのです。また来年も園児たちの、桑の実を食べる姿が見られる。ある本で、内村鑑三の詩に目が留まりました。詩の題名が『寒中の木の芽』と付けられてありました。ここで紹介させていただきます。

一、春の枝に花あり 夏の枝に葉あり 秋の枝に果あり 冬の枝に慰あり

二、花散りて後に 葉落ちて後に 果失せて後に 芽は枝に顕る

三、嗚呼憂に沈むものよ 嗚呼不幸をかこつものよ 嗚呼希望の失せしものよ 春陽の期近し

四、春の枝に花あり 夏の枝に葉あり 秋の枝に果あり 冬の枝に慰あり

その日その時を知らない私たちです。そんな私たちが出来ることは、『気をつけて、目を覚まして』戸口にたたずむ再臨の主イエス・キリストと共に、何気ない日常を大切にして、感動したり喜んだり感謝し続けることだと示されます。

待降節第2主日

『荒れ野で叫ぶ者』マルコ1:1-8

『神の子イエス・キリストの福音の初め』という言葉で、マルコ福音書は始まります。この始まりからは、ヨハネ福音書も同じですが、実に荘厳で、圧倒的な力強さを感じさせられるのです。マタイやルカでは、もっと柔らかい感じがします。まず最初に、イエス・キリストは神の子だと言います。これは、キリスト教会にとっては自明なことでしょう。一方で、イエスとは誰なんだ。人間なのか。それが神の子だなんて、どうして言えるのか。そんな問いも起こされるでしょう。そして、イエス・キリストの福音と言いいます。『福音』とは、通常は『良い知らせ』という意味です。ですから、イエス・キリストが、良い知らせを齎す、ということなのでしょう。ならば、何が良い知らせなのでしょうか。誰もが、それを聞きたいかも知れません。そんな福音の『初め』と、記されています。どこからが『初め』なのか。この後の2節からか。そして終わりはどこなのか。今日の福音書の8節までなのか。それとも、この福音書の一番最後まで続くのか。それとも、マルコ福音書を越えて、マルコより後の年代に書かれた、マタイやルカやヨハネ福音書まで続くのでしょうか。更にその先なのか。

この後マルコは、預言者イザヤの書を引用しています。今日の第一日課イザヤ40章1-11節の中に含まれている個所です。少しこのイザヤ40章の書かれた背景を見ます。紀元前6世紀にユダヤの国は、バビロニヤという国に滅ぼされます。そして、エレサレムにいた、主だったユダヤ人たちが、捕囚の民として、バビロニヤに連れていかれました。世界史ではこれを、バビロン捕囚と呼んでいます。捕囚のユダヤ人たちは、一日も早く、故郷のユダヤに帰還することを望んだでしょう。そのために、礼拝の祈りの時も持たれたでしょう。しかしその時から50年程経っても、なお事態は変わりませんでした。捕囚のユダヤ人たちも、世代交代がかなり進んだ頃でしょう。そんな時にイザヤが、この40章を残したと言われます。次の世代のユダヤ人たちの中には、親たちの意志を継いで、ユダヤの地に戻ることを望む者たちもいたでしょう。一方で、次の世代にとっては、バビロニアが故郷みたいなものです。現状を受け入れて、大きな変化を望まない人たちも、少なからずいたでしょう。

そんな中でイザヤは、預言者として礼拝の場で、神の言葉を取り次いで行ったのです。そしてこの40章の中にあるように、ようやく神様は、ユダヤ人たちの帰還のために動かれると言う。神様ではなく、人間の力に頼る罪を犯したが故に、捕囚の民となってしまったユダヤ人たち。しかし今や、この長きに渡る捕囚状態を経て、その罪は赦されたという。そこでマルコ福音書も引用する、イザヤ40章3節が語られます。『呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ』。このイザヤの言葉に驚かされます。早速、神様が、何らかの方法で、捕囚の民を一気に、ユダヤに連れ戻してくれるのかと思いきや『主なる神様のために道を通せ』と言うのです。神様なんだから、何でもしてもらえると考えます。そして、真っ先に、結果結論の即効性を期待します。そんな人間の思いを打ち砕くかのように、まず、人間の方が神様のために、荒れ野に道を通せという。道を通すのは、時間と労力がかかります。しかも荒れ野に、です。

マルコ福音書では、イザヤが言う『呼びかける声』とは、洗礼者ヨハネのことだと言います。そして『荒れ野に道を通す』とは、『罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼』を、ヨハネから受けることだ、と言うのです。洗礼者ヨハネが、イザヤの言葉をもって登場した、当時のユダヤの状況はどのようだったでしょうか。あのバビロン捕囚の地から、ユダヤ人たちは確かに、神様によって帰還を果たしました。そして、自分たちの国を治める、王なるメシアの登場を期待したでしょう。しかし、未だ登場しない。むしろギリシアやローマなど、外国の支配下に、相変わらず置かれ続けて来たのです。洗礼者ヨハネが登場するのも、そんな頃でした。いつしか神様に頼ることよりも、目に見える人間の力に頼るようになっていました。あの捕囚の状態は、別の形で続いていたかのようです。だからヨハネは、荒れ野に主の道を通す作業が、依然として不足しているかのように、もっと作業を続けるよう、声を上げたのです。

イザヤ40章4節も読んで見ます。『谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ』と、あります。これは直接的には、捕囚の民がバビロンからエルサレムまで帰る道を、主なる神が整えてくださる、と言うのです。ですからエルサレムに帰還するのは、捕囚の民だけではない。神が民と共に帰還すると、声は呼びかけているのです。帰還の旅は、嬉しいことばかりではないでしょう。でも神様も、その中に一緒に与って下さるのです。人間が何もしないでも、速やかに解決して下さるということではない。むしろ悩む人間と共に、一緒に悩んで下さる。洗礼者ヨハネは改めてここで、そんな神様を次のように指し示します。マルコ1章7-8節『彼はこう宣べ伝えた。わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。・・その方は聖霊で洗礼をお授けになる』。イエス様のお名前による洗礼は、罪の赦しを得させるものです。その罪の赦しの洗礼は、相変わらず悩んだり苦しんだりしながらも、赦される人間と共に、歩み続けて下さることを保証するものです。それは、イザヤもヨハネも同じように、言うものです。マルコの時代のユダヤの状況も、言わばユダヤ丸ごと、捕囚状態とも言えるようです。そこに洗礼者ヨハネという声があった。

そして、現代の私たちの、今の状況はどのようでしょうか。イザヤから聞いて、ヨハネが語ったように、荒れ野に主の道を通す作業は、もはや、完結したのでしょうか。相変わらず人間の力が、唯一絶対であるかのような状態が、繰り返されているように思うのです。冒頭で取り上げたような問いは、解決されているでしょうか。イエスとは誰なんでしょう。人間なのですか。神の子なのですか。イエス・キリストの福音とは、何が、良い知らせなのですか。そんな問いと共に、世界全体にまで、捕囚状態が拡げられているように思うのです。そして今度は、イエス様の罪の赦しの洗礼を受けて、悩んだり苦しんだりしつつ、キリストと共に歩み続けるキリストの教会が、荒れ野に主の道を通す作業の、声を上げ続けるようにと、促されるのです。しかしその荒れ野は、余りも大き過ぎて、ひるんでしまいそうです。そして今、共に歩み続けて下さる主が、あの小さな馬小屋の、更に小さな飼い葉桶の中に、最初に現わされたことを思い返します。大きさではなく、小さな所に目を向けるように、促されるのです。

先週12月4日は、アフガニスタンで人道支援に尽力した医師の、中村哲さんが凶弾に倒れてから、4年になるとの新聞記事に目が留まりました。あれから中村さんの意志を継ぐ、様々な共感の輪が拡げられました。今回の記事では、母校の福岡高校の卒業生らで作る『ぺシャライト』というグループが、中村さんの働きを紹介し続けている、というものでした。『ぺシャ』はアフガニスタンの州の名前です。『ライト』は『自分の居る場所で最善を尽くす』という意味だそうです。それは中村さんが好んだ『一隅を照らす』という言葉にちなんだということでした。

キリストの教会によって、身近な所で最善を尽くします。そして、荒れ野に主の道を通す声に、もう一度していただきます。

待降節第3主日

『ヨハネの証し』ヨハネコ1:6-8,19-28

今日の福音書の箇所も、先週に引き続いて、洗礼者ヨハネのことに言及します。まず、ヨハネ1章8節『彼は光ではなく、光について証しするために来た』とあります。『彼』というのは、洗礼者ヨハネのことです。ここは、もう少し強調点を意識して訳してみます。『彼は光ではない。光について証しするために来た』となります。『光』というのは、待望の救い主を指し示します。それで、ヨハネが待望の救い主ではないかと、誤解される可能性があったのでしょう。ですので、まず『彼は光ではない』と、言い切らなければならなかった。そして、そのヨハネ自身の証しが、19節以下に続くわけです。

ユダヤ人たちがヨハネのことを『何者なんだ』と、疑問を抱いていた様子が描かれています。ヨハネの振る舞いを見て、もしかしたらメシアではないのかと、人々がそんな思いを抱き始めていたことが、ここでも伺われます。これは放って置けない、白黒をつけなくてはいけないと、思う人々もいたようです。ヨハネ1章25節『彼らがヨハネに尋ねて、あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と聞いています。この『彼ら』というのは、ユダヤ教の一教派である、ファリサイ派の人たちだと、聖書は記しております。この人たちは聖書の言葉を研究していますし、忠実であろうと努力していた人たちです。そんな自分たちの聖書理解からすれば、ヨハネをどのように位置づけたらよいのか、批判的に見ていたようです。そんな人々からは、救い主を待望する喜びや期待が、あまり伝わって来ないのです。ヨハネが実際、メシアではないにしても、一時的には、メシアではないかと期待させるものがあったわけです。でも、その時の喜びさえも、伝わって来ない。本当に、メシアを待望していたのか、とさえ思えて来ます。色々な知識や、それによって、様々な思惑を抱く者は、喜ぶべきものを、素直に喜べなくなってしまうのかも知れません。

ところで、ヨハネの誕生の経緯が、ルカ福音書に詳しく描かれています。お父さんの名前はザカリヤで、祭司でした。お母さんも、やはり祭司の家系に連なる人で、エリサベトという名前でした。その二人の間に、ヨハネは生まれました。社会的には、いわゆる特権階級と申しますか、毛並みの良さが伺われます。そして、子が与えられる時の両親は、かなり高齢でした。常識的には子の誕生は、不可能だと二人も思っていました。それなのにある時、お父さんのザカリアは、神様からの、いわゆる受胎告知を受けたのです。ヨハネの誕生も、いわゆる神懸かっていたと言うわけです。しかも生まれたヨハネが、将来担うはずの任務にまで、神様から告知を受けました(ルカ1章15-17節)。

その出身家系、誕生の経緯、与えられた任務、それだけで、もはやヨハネが『メシア』だと思っても、無理は無いくらいです。ヨハネ自身も、そのまま救い主を名乗って、そこに治まることも出来たのではないか。またそんな誘惑もあっただろうと思います。しかも、水の洗礼を授けていたということです。ところが、ヨハネ自身は、そういう誘惑や、人々の思惑の一切を振り払うようなのです。ヨハネ1章20節『彼は公言して隠さず、わたしはメシアではない、と言い表した』。ここの『公言して隠さず』というのは、別の表現をすれば『ためらわずに』とか『ちゅうちょなく』ということです。心の片隅にでも、何らかの名誉欲があれば『ここは、メシアではない、と言い切らないでいた方が得策かな』と思うことも不思議ではない。そういうものさえも全く無いという、ヨハネの姿勢が強調されるのです。更に、ではそうでなければ、この方ですか、あの方ですかと、過去のいわゆる有名人の名前を上げられます。そうやって、これでもか、これでもか、と名誉欲をそそらせるような誘惑を受けるのです。でもそれらも否定しました。

では『あなたは自分を何だと言うのですか』と問われて、ヨハネは次のように答えるのです。ヨハネ1章23節『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ、と』。あのイザヤ40章3節を引用して、単なる『声』だと言うのです。それは徹底的に、人ではなく、神様を見よ、と言われるようです。あるいは、声の主を見るのではなく、声から出される神の言葉を聞け、と言われるようです。そして、あれほどの高貴な人間を、そこまで徹底的に退けてしまう『後から来られる、わたしよりも優れた方』とは、どんなお方なのか。むしろそちらの方に、ちらっとでも関心と期待を、向けさせられてしまう程です。そのお方はまず、ベツレヘムの家畜小屋の、小さな飼い葉桶に、人間の幼子としてお生まれになりました。その誕生を記念する日々を、今私たちは過ごしているのです。

 先週の14日には幼稚園では、今年もクリスマスページェント礼拝を守ることが出来ました。一月余りの練習期間を経て、園児たちはイエス様の降誕の出来事を演じてくれました。そんな過程の中には、今年も様々なドラマを聞かされました。ある年中の女の子が、家でもたくさんページェントの歌を歌って練習していました。それを毎日、お兄ちゃんも聴いていました。東京から引っ越されて来たご家族なので、お兄ちゃんはページェントを知りません。でも妹の声を聞かされて、歌を覚えてしまい、小学校でも口ずさんでいました。それを聞いた、何人かの友達が『~君もルーテルなの』と尋ねられたそうです。もちろん尋ねた彼らは、ルーテルの卒園生です。卒園しても、声の中身は覚えているのです。そんなお話しを、女の子のお母さんから聞かされて、私も嬉しくなりました。ページェントを演じる子どもたちは、年々、変って行きます。声は変わりますが、声の内容は決して変わらない。延々と残り続けるのです。そしてその声の内容は聖書の言葉です。

 このページェント礼拝には、もう15年ほど顔馴染の、ビデオ撮影の業者の方が来園して下さいます。今回、その方からこんな話を聞きました。『こちらのページェントで、あまり聞いたことのなかった、ベツレヘムという町の名前を聞いて、実はそこに行ってきました』。園児たちの声が、ここにも届けられました。そしてその人が動かされたんだと、また感動させられました。ヨハネの証しが、身近に共に生活する園児たちを通して、まさに現実のものとさせられていることに励まされるのです。

まずこの園児たちから学ばせていただきます。そしてキリストの教会によって、こんな私もヨハネのように、声にして下さい。

聖降誕主日

『主があなたと共に』ルカ1:26-38

今日の福音書の箇所は、マリアと言う名前の乙女に、天使ガブリエルが臨んだという、いわゆる受胎告知と呼ばれる場面です。絵画でも有名ですが、いずれも荘厳なイメージです。しかし、この場面に至るまでのマリアには、もっと現実的な背景があったのではないかとも思うのです。ここは、マリアだけがこの事態に遭遇しているようです。そうしますと、もしかしたらこの場面は、マリアの夢か幻の中での出来事だったとも想像されます。もちろん、ただ単に眠くなったり、意識が不確かになっていたというわけでもないと思います。その日までに、特別深刻な悩みが沸き起こり、いつもよりも長い祈りをしていたのだと思います。それは傍から見れば、夢遊病者のような、何かに憑りつかれているかのようにも、見えたかも知れません。人間対神。あるいは天使。そして深い悩みと祈り。このような場面を思いますと、聖書の中には似たような光景が、しばしば描かれています。例えば、今思い起こされるのは、旧約の預言者サムエルが、母ハンナから生まれることになった時の出来事です。旧約聖書のサムエル記上1章にあります。ハンナにはなかなか子が与えられず、周りからも苦しめられ、大いに悩んでいました。その時のハンナの様子を、所々引用します。サムエル記上1章10-18節『ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。・・ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。・・ハンナは答えた。いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。・・今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。そこでエリは、安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように、と答えた。ハンナは、はしためが御厚意を得ますように、と言ってそこを離れた。・・』。

このハンナの場合は、不妊への嘆きの悩みでした。ではマリアの場合の、特別深刻な悩みとは何だったのか。聖書には何も記されておりません。勝手に想像します。恐らくヨセフとの結婚のことではなかったか。結婚する女性の当時の年齢は、12歳前後だったそうです。ですから、本人ではなく、親同士が決めるものであったと思われます。結婚するまで、相手の顔を知らないこともありえます。いくら当時の習慣とはいえ、幼い女子には、喜びよりも不安の方が大きかったと想像されます。マリアもそんな悩みをもって、その日は特別、長い祈りをしていたのではないでしょうか。その時、天使から『あなたは身ごもって男の子を産む』と言われてしまいました。結婚に悩むどころか、そこを一気に飛び越えて、子を産むとまで言われてしまったのです。結果的に、ハンナとは真逆でした。むしろ願ってもいない子の妊娠を、押し付けられることになりました。人間の目には真逆に映ります。しかし、神の目には同じことなのです。いずれも、神が介在している出来事だからです。

この事態を告げられる前に、マリアに語られた天使の言葉です。ルカ1章28節『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる』。まず、これを聞いたマリアは、何のことかと考え込んだというのです。マリアはどんな思いだったでしょうか。もし結婚のことで悩んで、祈っていたとすれば『この結婚することが、そんなにめでたいことなのか』と、戸惑い考え込んでも不思議ではありません。それより何より『主があなたと共におられる』とは、一体どういう意味なのでしょうか。天使を通して、主なる神様が共におられる、ということなのでしょうか。そうやって、この悩みの祈りが聞かれるということなのでしょうか。悩みが聞かれるとなると、この結婚をしなくても済むようになると、この言葉から受け取ってもよいのでしょうか。それもまた、何か後ろめたい思いも残されてしまいそうです。祈りが聞かれても聞かれなくても、どっちに転んでも、悩みは尽きません。

ところが続けて、男の子を産むと言われました。しかも『いと高き方の子と言われる』というのです。まさに神の子を宿すことにおいて、それが『主があなたと共におられる』という意味なんだろうか。もしそうであるならば、マリアはむしろ、更に大きな悩みを背負い込みながら、生きて行くことになるでしょう。夫になるヨセフとの結婚は、会うまで顔も知らない人であれば、12歳程の少女にして見れば、それだけでかなりの困難を覚えるものです。そこに更に、ヨセフの知らない所での身ごもりになります。これ以上のマイナスは無い、と思う程の結婚です。共におられる主とは、マリアにとっては、悩みや困難を振り払ってくれるお方ではないようです。悩みや困難の尽きない中を歩めと、むしろ押し出すお方なのでしょうか。もちろん、マリア一人ではない。主も一緒に困難の中を歩んで下さる。それが、共にいて下さる主なのでしょうか。そんなマリアは、主なる神様の目からすれば、恵まれた人間だといいます。しかし周りの人間たちが見えるところでは、不幸になるのでしょうか。このように考えますと、人間の目に映る幸不幸は、あてにならないように思います。子があるとか無いとかは、幸いには関係なくなるようだからです。

この時天使は、親類のエリサベトが不妊の女と言われ、年を取っていたのに、身ごもって六カ月も経っていると、マリアに告げています。あのハンナも不妊の女だと言われ、苦しめられていましたが、年はそれほど取っていなかったようです。しかしエリサベトは高齢でした。それでも身ごもりました。不思議ではありますが、周りの人間たちが見るところでは、マリアのようには、不幸とまでは見ないでしょう。そしてもちろんこの場合も、主なる神様の目からすれば、恵まれた人間なのでしょう。それでも願わくば、もっと若い時に、子を与えてほしかったと思うかもしれません。人間の満足する幸いには、留まる所が無いようです。

マリアはこの後、エリサベトに会いに行ったことを、ルカ福音書は39節以下で伝えています。いくら悩み多き困難の中を、主も共に歩んで下さると言っても、尽きない悩みに、マリアも負けそうになることもあるでしょう。そんな中で、親戚のエリサベトの存在は、大きな助けにもむなるのでしょう。挨拶した、とだけ聖書は記します。実際は、様々な悩みや困難を、聞いてもらったと思われます。それからマタイ福音書によれば、夫になるヨセフにも、マリアの受胎告知があったと記されてあります。ヨセフもまた、マリアの助け手とさせられて行くのでしょう。そんな人間たちとのつながりもあって、悩み苦しみの中を、共に歩んで下さるという主を信じて行く。そのように、与えられた人生を歩んで行くのでしょう。マリアに会った時の、エリサベトの最後の言葉も印象的です。ルカ1章44節『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』。主の言葉が実現するのを見る、というよりも、実現すると信じることで、幸いだと言うのです。それは、実現に至るまでにも、困難の中を『主が共にいる』から、それだけで、いやそれだからこそ、幸いなのです。そして、もちろん幼子の主イエス・キリストこそ、主の言葉の実現のしるしです。その人の人生が、恵まれて幸いであるかどうか、神からの目と人間からの目と、両方があることも忘れてはなりません。

神からの目が、私の人生を幸いだと言ってくれることに信じて、更に残された人生を、キリストの教会によって、主イエス・キリストと共に感謝して歩んで行きます。

聖降誕日前夜

『飼い葉桶の中』ルカ2:8-20

今年は今月の3日の日曜日から、イエス様の誕生を待つ期節に入りました。これはキリスト教会独自のカレンダーに基づくものです。この期節を、英語では、アドベントと呼ばれております。日本語は待降節です。それでこの日から、クリスマスの飾り付けをします。代表的なものは、クリスマスツリーではないでしょうか。ちなみに、このクリスマス飾りは、来月1月6日まで続けられます。日本の各家庭やお店では、多くは明日まででしょうか。26日過ぎからは松飾りなどを飾って、正月の準備に入ります。これも文化の違いなのかなと思います。

文化の違いと言えば、フランスに住まわれている日本人の方が、ある雑誌で、書いておられましたが、フランスは、いわゆるキリスト教国でもありますが、一昔前の家庭では、クリスマスツリーよりも『馬小屋』がメインだったそうです。文化の違いばかりではなく、時代によっても、クリスマスの装飾方法が違っているようです。それで、フランスの話しですが『馬小屋』という小屋と言うよりも、黒っぽい覆いを、部屋の一画にしつらえて、そこに、マリア、ヨセフ、飼い葉桶の中のイエス・キリスト、その周りにロバ、牛、羊を、家族そろって並べる、ということが多かったそうです。イエス様とその家族が、漠然と動物たちに囲まれている場面を、みんなで演出していた、ということです。そうして、暗くて静かな夜に包まれた、イエス様の家族の姿を、家庭のみんなで、そっと見守る。そこから、優しさや温かさを分け合うひと時を過ごすのが、当時のフランスの一般家庭の、クリスマスの過ごし方だったそうです。そして、次のようなことも、書いておられました。『最初に人間を創造したという神は、アダムとエバという、健康な大人、を造ったのに、なぜ、受肉(神が人になる)、するときに、最初から任意の、大人、の姿で現れなかったのだろう。人間として生きた、その生の最後が無力で無抵抗だっただけでなく、その生の最初もまた、無力で無抵抗な赤ん坊だった』。

旧約聖書の一番最初に、創世記という書物が載っています。その中で神様は、星や月や動物たちなど、天地万物を創造されたと書かれてあります。そしてその中に、最初の人間アダムとエバも造られたということです。この後、その創世記によりますと、人間は神様の戒めを破り、罪を犯したということで、エデンの園を追放されてしまうわけです。以後、人間たちは、額に汗して、労働をせざるを得なくなりましたが、それでも、自分自身が神であるかのように振る舞ったり、自分中心の気ままな生き方を当たり前として、馴染んで行ったということです。聖書が言う、罪の結果なのかどうかは、それぞれの信じる所ですが、とにかく今も、戦争が続き、自然の破壊、生物の多様性が、損なわれ続けているのです。それで聖書はこれを、人間の罪の結果と捉えます。その罪の縄目から、人間は解放される必要があると言います。そして、全ての争いごとや、地球的な課題が、解決へと導かれて行くように願うと言うのです。この後、皆さんと共に『平和の公唱』を致します。

冒頭の馬小屋の場面ですが、飼い葉桶の中のイエス様を中心にして、マリア、ヨセフ、その周りにはロバ、牛、羊がいる。そして、空を見上げれば、あの東から来た博士たちを導いた星を初め、無数の星々が輝いている。そんなふうに想像を巡らしますと、極めて小さなものではありますが、あの『馬小屋』は、まさに第二の天地創造を映し出しているのではないかと、今日、思うのです。人間は、罪の縄目から解放されねばならない。これを聖書は、人間の第二の創造とも言っています。人間は、もう一度、新たに造り変えられなければならない。『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』(ヨハネ3:3)と、聖書の中に記されてあります。飼い葉桶の中の幼子イエスは、まさに人間が新たに生まれ変わることをも、指し示しているのではないか。そして生まれ変わる人間は、他者に命を差し出すように、生かされるようになる。それが、神の子イエス・キリストが『最初から任意の、大人、の姿で現れなかった』ことの、一つの理由ではなかったかとも示されるのです。そして赤ちゃんが、大人へと成長するには、長い時間が必要です。同じように、人間の再創造も、長い時間がかかつても良いのです。

新たな生まれ変わりを指し示す主イエス・キリストは、その生の最初が、無力で無抵抗な赤ん坊だった。そしてあの十字架上で、無力で無抵抗な姿を晒して、地上の生を終えられた。今も、人間的権力が、全てであるかのような世界にあって、主イエス・キリストが身を挺して教えてくれる、他者のために生かされるという、生まれ変わりの生き方を、失敗や挫折を繰り返しながらも、傍観者ではなく当事者として、この毎日を過ごして行こうではありませんか。

降誕節第1主日

『反対を受けるしるし』ルカ2:22-40

先週はイエス様誕生のクリスマスをお祝いしました。今日の箇所は、その後のイエス様と家族の様子が描かれる所です。赤ちゃんとは言え、救い主としてお生まれになった方です。しかしそれを、確かに知らされた人物は、ルカ福音書によれば、両親以外では親戚のエリサベトと、何人かの羊飼いたちでした。マタイ福音書では、東から来た博士たちと、エルサレムにいたヘロデ王、そして何人かの家来たちだったようです。しかしこの時点では、それ以上に誕生の知らせが、大きく注目されて広まったようには思われません。ヨセフとマリアたちからでさえも、自分たちが救い主の両親であることに、それほどの高まりも伝わって来ないのです。ややもすれば、そんなことは、本気にしては、いないかのようでもあります。と申しますのも、普通の人間の赤ちゃんが、当たり前に受けなければならない、律法に定められた、様々な通過儀礼を、淡々と施して行ったかのように見えるからです。今日の福音書の直ぐ前ですが、21節で、イエス様が割礼を受けたことが記されてあります。これは旧約のレビ記12章3節に記されている通過儀礼です。

そして今日の箇所です。『モーセの律法に定められた』というのは、やはりレビ記12章2-8節に記されている、出産した母親と赤ちゃんに関する、諸々の通過儀礼のことです。この中で、いけにえとして、山鳩か家鳩の雛を献げることが記されてあります。これは経済的に貧しい家族の場合です。そうでなければ、小羊が、いけにえとして献げられるということです。救い主の赤ちゃんを抱える家族が、貧しかったと聖書は伝えるようです。ということは、この一連の通過儀礼に与っている、イエス様とその家族から示されるのは、煌びやかな救い主の様相は全くなかった。徹底的に、普通の人間の赤ちゃんだった。何事も無いかのように、聖書はまずそこを強調するのです。

そんな家族が、そこはエルサレム神殿でしたが、シメオンという人物と出会います。いわゆる熱心な信仰者でした。聖霊がとどまっている、とまで聖書は記しております。ですから、その熱心さはややもすれば、むしろ普通ではないのではないかと、人々からは見られるような、そんな人物だったようです。とにかく『主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない』というお告げまで、聖霊から受けていた。恐らくこのお告げは、本人の胸の内だけに留められていたことだと思います。他の人に話しても、まともに受け留められないことだと思うからです。受け留められたとしても『じゃ、会わない方がいいでしょう。そうすれば、ずっと死ななくていいんだから』なんて言われかねないからです。

そんなシメオンが、とうとう、母マリアに抱かれていたイエス様に出会いました。そして『幼子を腕に抱き、神をたたえて言った』。これは、ルカ2章29-32節までの言葉になります。キリスト教会では『シメオンの賛歌』と呼ばれて、歌い継がれて来ているものです。お手元の、ルーテル教会の式文の中の、派遣の部に置かれている『ヌンク・ディミティス』が、この賛歌になります。ラテン語で『今こそ去ります』という意味です。つまり『死にます』ということです。2章29節『この僕を安らかに去らせてくださいます』と記されている所です。『安心して死ねます』と言うことですから、死ぬことが恐怖ではなくて、喜びになっているようなのです。普通の人間たちなら、先程も申し上げましたが『会わなきゃ、もっと長生きできたのに』と思うかも知れません。見ようによっては、変な老人が、貧しい家族が連れて来た、産まれて間もない小さな赤ちゃんを抱きかかえて、訳も分からないことを言っている、と言う場面です。何を言っているかと言えば『ああ、これで安心して死ねる。自分はこの目で、神様の救いを見たんだ。全ての人間たちに及ぶ救いなんだ。これぞ神の民イスラエルの誉れだ』というものです。恐らく、誰も聞いていなかっただろうけれども、もし聞いていたとしても『何とまあ、オーバーなことを言っているよ』という反応だったでしょう。もっとも、見方を変えれば、自分の死が、救い主との出会いに導かれる、というものです。

更に続けて『シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った』というのです。どんな祝福の言葉だったでしょうか。一つは『この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められている』というのです。なるほど、悪い人間は倒されるでしょうし、良い人間は立ち上がらせるのでしょう。これはまあ、救い主らしい働きだと思われます。祝福と言えば祝福かも知れません。しかしもう一つ『反対を受けるしるしとして定められている』と言うのです。中には反対する人もいるでしょう。しかし『しるし』ということですから、どうも、かなりの人間から反対を受ける、と言っているようです。反対する人間たちにして見れば、自分たちの筋書きに反するような、そんなしるしになるようだ、ということでしょうか。これは幼子の将来を考えれば、祝福とは言えないのではないか。更には母マリアも『剣で心を刺し貫かれます』と言われた。精神的ダメージが与えられる、ということです。これはもう、祝福ではない。そして最後に『多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』と言われた。これも祝福になるのだろうか。人間にとっては、誰にも知られたくないものを抱えていて、なかなか裸になれないでいる。あの創世記で、食べてはいけないと言われたアダムとエバが、木の実を食べた時、自分たちが裸であることに気づいて、慌てて木の葉で体を覆いました。幼子は将来、人間たちが、ありのままの自分を見据えて、正直になれるようにする、ということなのでしょうか。であるならば、人間たちにとっては、結局、祝福になるのかも知れません。ただし、それまでには、かなり時間もかかることでしょう。それだけに、そのようにさせるまでには、たとえ一時的であるにせよ、かなりの反発も食らうでしょう。

いずれにしても、誰にも注目されないようなシメオンの言葉です。しかしその内容は、実に人間的価値観を超えています。喜んで死ねる。全ての人間の救いがある。その救いは、人間の目には、いつまで経っても、救いには見えないようなもの。がしかし、本来の人間と、その人間の本来の生き方が、示されている。この後、女預言者と言われる、アンナが登場します。非常に高齢の女性。12歳ぐらいで結婚したとすれば、二十歳でやもめになった。以来64年間も、神殿での生活を強いられて来た人です。当時にあっては、最も弱く不幸に見える立場の人間の一人だった。それでも神を賛美し続けた。そして、幼子と出会い、その救いを皆に知らせるのです。ここにも、決して希望を失わない、救いの確信をもって、生かされ続けて来た人間が描かれている。シメオンとアンナの生き様から、人間の筋書きを超えたものが示されるのです。たった二人の人間たちからですが、もう一度、あのクリスマスで示された、神様の壮大な救いの計画が、蘇えるようです。それからまた、神様の壮大な救いの計画の高まりからもう一度、何気ない現実に、場面が引き戻されるようなのです。定められた通過儀礼を終えた家族が、自分たちの町に帰り、幼子も普通の人間として、普通に神様に愛されて成長して行ったことを、静かに伝えるのです。

2023年も今日で終わります。相変わらず戦争が続き、地球温暖化や環境破壊が進んでいます。事態の改善は、どこにも起こされないかのように思わざるを得ません。しかしそれでも、この現代社会の底流にも、決して変えられない、神様の壮大な救いの計画が、脈々と進められていることを、聖書は今日も、改めて私たちに明らかにして下さっています。