からし種 411号 2023年8月

聖霊降臨後第5主日

『わたしを受け入れる』マタイ10:40-42

今日の福音書の箇所は、10章の最後の所ですが、このマタイ10章全体は、十二人の弟子が召し出されて、彼らが伝道のために派遣される話です。その際に、諸々の注意事項がイエス様から授けられ、更に迫害の予告も受けます。しかしその事にめげることのないように、励ましの言葉も授けられるわけです。今日の福音書の箇所も、そんな励ましの言葉になるでしょう。そしてマタイ11章1節『イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された』ということです。結局イエス様は、弟子たちだけに宣教を任せるのではなく、自らも先頭に立たれて、宣教されるのです。いやむしろ、宣教の主体はイエス様にあることを、示唆されるようです。

ところで今日の福音書の箇所ですが、まず、次の言葉に注目させられます。マタイ10章40節『あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである』。『あなたがた』と『わたし』という代名詞を、固有名詞に置き換えます。『十二弟子を受け入れる人は、イエス様を受け入れ、イエス様を受け入れる人は、イエス様を遣わされた方、すなわち父なる神様を受け入れるのである』。これが、宣教に押し出される弟子たちへの励ましの言葉になります。しかし実際に、これを聞いた弟子たちは、どんなふうに思っただろうか。むしろかなりのプレッシャーも、感じたのではないかと思います。『なんだって、自分たちを通して、神様が現わされるというのですか。こんなだめな自分なのに』そんな声も聞こえそうです。

宣教すると言いますと、もちろんイエス様の神様を、宣べ伝えるわけですが、どうしても宣教する立場の、自分を意識してしまうのです。イエス様の教えを、どれだけ正しく知っているだろうか。そもそも知っているだけでなく、イエス様の教えを自分は、どれだけ守っているだろうか。そんなふうに考えますと、段々、宣教出来なくなってしまいそうです。それで改めて、宣教する主体は誰か、ということを考えさせられるのです。先程来、宣教の主体は弟子たちであるかのように、それを前提にして、話を進めてまいりました。あるいは現代で言えば、キリスト者である自分が、宣教の主体であるかのように考えがちです。だから、先程も申し上げたように、そんな事が出来る自分なのか。相応しくないのではないか。そんなふうに考えざるを得ないのです。

そこで改めて、今日の福音書の箇所を見てまいりますと『受け入れる』という言葉が、繰り返し出てまいります。原文のギリシア語では『デコマイ』と発音する言葉です。辞書では次のように説明されています。『受ける・受け取る・差し出されたものを取る・頂く・受け入れる・認める・迎える・接待する』。ここはいずれにしましても、もう少しかみ砕いて言えば、差し出されたものを頂くかどうかであって、何か積極的に力づくで勝ち取って行く、そういう勝ち取る力があるかどうかということが、今日の福音書の箇所の問題になっているわけでは無い、ということです。ですから、あたかも宣教するように、押し出されているかのような弟子たちですが、その前に、イエス様からただ一方的に、差し出されているものを頂いていますか、というのが大切なことです。差し出すイエス様は、むしろ欠けと破れの多い者だとは承知の上で、そんな弟子たちに差し出すのです。だからこそ弟子たちは、それを素直に頂いていますか、ということになるのです。

キリスト教会では『恵み』という言葉が、頻繁に使われます。その意味は『ただ一方的に与えられる』というものです。そしてこの恵みは、もっと具体的に言えば『福音』と呼ばれるものです。その福音とは『ただ一方的に与えられる罪の赦しの救い』です。この『救い』は、十字架の死と復活のイエス様によって与えられるものです。今日の福音書の場面は、まだ十字架の出来事以前ですが、そのイエス様による救いを宣教する者の、在り様を先取りするものです。そして十二弟子とは、キリストの教会の先取りです。十二弟子は、もちろん何か宣教の言葉を、語って行くこともあったでしょう。がしかし、それより何よりもっと大切なことは、イエス様から、ただ一方的に差し出されたものを、素直に頂いている、ということです。そしてそんな弟子たちを通して、出会う人々が、また同じように、ただ一方的に差し出されたものを、頂いて行くのです。ですから、言うまでもない事ですが『差し出す』お方は、あくまで主イエス・キリストの神です。

今日の第二日課は、先程申し上げました『十字架の死と復活のイエス様によって、ただ一方的に与えられる罪の赦しの救い』という『福音』について、著者のパウロが語っているところです。ちょうど先週の第二日課からの続きになります。少し引用させていただきます。ローマ6章10-11,14節『キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。・・なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです』。律法は私が主体になるかのように促されます。しかし恵みの主体は、私ではなく、主イエス・キリストの神様です。だから私は『恵みの下にいるのです』。

では『恵み』を受け入れるのに、どんな能力が私に必要なのでしょうか。いや、能力はいらないでしょう。ではもし『受け入れる』のに、邪魔するものがあるとしたら、それは何でしょうか。真っ先に思い浮かぶのは、あろうことか能力なのです。それから、そんな能力から発する、様々な先入観、慣習、筋書き、傲慢などなどなのでしょう。もう一か所、同じパウロが書いた聖書箇所を引用します。1コリント1章26-31節です。『兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。誇る者は主を誇れ、と書いてあるとおりになるためです』。

主よどうかこれからも、キリストの教会によって、恵みを阻害するものを取り除き、受け入れる者へと造り変え導いて下さい。

聖霊降臨後第6主日

『わたしのもとに』11:16-19,25-30

先週は、マタイ福音書10章全体について、イエス様の弟子として召し出された十二人が、伝道のために派遣される場面になっていると申し上げました。そして、宣教をする主体は、見た目は弟子たちのようですが、宣教の主体は、イエス様にあるということも申し上げました。弟子たちは宣教するイエス様の、道具に過ぎない。弟子たちが何かを語るにしても、語る主体はイエス様にある。そして、何が宣教されるかと言えば、それは『福音』です。ですから、イエス様の宣教の業の道具になる弟子たちこそ、その福音を受け入れている者です。あるいはその福音に、生かされている者です。

『福音』とは、字義どおりに言えば『良い知らせ』という意味です。何が良いことなのか、良いという内容を補って表現してみます。即ち、十字架の死と復活のイエス様によって、ただ一方的に与えられる、罪の赦しの救い、というお知らせです。このような福音を受け入れているという弟子たちは、どうしようもなく罪深い自分だということに、まず気づかされている者です。気づかなければ、話はそこで止まります。あるいは気づいていても、そのままで良いと開き直っても、やはり話はそこで止まります。しかし、罪を自覚した自分が、どうしたら良いのだろうかと問いを発する時、話は前に進みます。更にそんな自分を、何とかして下さいと祈る時、話は更に前に進められます。その向こうに、十字架の死と復活のイエス様が、待っていて下さるからです。そして罪の赦しの救いに、与ることが知らされます。このように、まさに当事者としての福音を受け入れている者が、福音を取り次いで語る時、それを聞く者が、福音を受け入れるように、促されて行くのです。もし取り次ぐ者が、福音に対して、傍観者のようであるならば、特に罪というものに傍観者のようであるならば、どうなるのだろうか。自分は罪人ではないけれど、あなたは罪人ですと言われても、聞く者に何も生まれて来ないのだろう。

今日の福音書の冒頭の言葉に、まず注目させられます。マタイ11章16節『今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている』。この後の17節には、子供たちの呼びかけの、その言葉が引用されています。これはいわゆるイエス様の時代に流行っていた、童歌の類だろうと言われます。喜んでくれと言っても喜んでくれない。悲しんでくれと言っても悲しんでくれない。そんな内容です。つまり、一緒に喜ぶ当事者になってくれない。あるいは一緒に悲しむ当事者になってくれない。みんな傍観者になっている。しかも童という子どもの歌を引用しているのは何故か。それは、子供のような未熟な者と一緒にならない、大人のような知恵ある者の、傍観者的態度を批判するようです。

この後、バプテスマのヨハネのことや、人の子と言われるイエス様のことを、人々がその表面的な行動を見て、傍観者のように評価しているという。そんな姿をイエス様が批判しています。バプテスマのヨハネは、荒れ野で悔い改めを宣べ伝えて、罪の当事者にあることを宣教しました。イエス様はまさに、罪から救われるべき人間という当事者になりました。そしてマタイ11章19節の最後に、イエス様は次のようにおっしゃられました。『しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される』。イエス様は高い所から、口先だけのごもっともなお話しはされない。自ら当事者として、人間の中に人間として、入り込まれるのです。そうして、人間の苦しみ、悲しみ、破れ、罪にまみれて、十字架へと進まれるのです。そうやって、イエス様の宣教の働きの正しさが、証明されるのです。

先程、イエス様が『子供のような未熟な者と一緒になれない、大人のような知恵ある者の、傍観者的態度を批判している』と申し上げました。イエス様はそのことをもう一度、次のようにおっしゃられています。マタイ11章25節『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました』。『これらのこと』とは、繰り返しますが次のことです。『口先だけのごもっともなお話しをするではなく、自ら当事者として、人間の中に人間として入り込まれ、人間の苦しみ、悲しみ、破れ、罪にまみれて、十字架へと進まれる』。そんなご自分のことをもう一度、今日の福音書の最後に、次のように語られるのです。マタイ11章28-30節『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである』。軛を無くすとか、重荷を取り払うとか、そんなことはおっしゃられない。そうではなく、現実の人間の中には、未だ厳然として、軛のようなものはある。重い荷物のようなものを、負わなければならないことは、たくさんある。そしてそれらは、次から次へと生じて来る。それらの軛や重荷を、イエス様は共に負って下さるというのです。軛や重荷を、一人で負うことの無いようにして下さる、というのです。それは、必要な時に必要な人を、必ず送って下さる。だからこんな私も、今度はこんな私を必要としている、まだ見ぬ人であっても、その人の所に必ず送って下さる。そして、それに応えて行きたいのです。

重荷を負うと言えば、ごもっともな正しさを振りかざして、傍観者のように、ただ人を裁くだけの人間たちについて、別の聖書の箇所では、イエス様は次のようにおっしゃられています。マタイ23章3-4節『だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない』。

一方、今日の第二日課の著者パウロは、正しさを実行できない自分を隠さず、取り繕わず、正直に見つめ直して、次の一歩に促される自分を告白しています。ローマ7章18-19,24-25a節『わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行なわず、望まない悪を行っている。・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします』。『だれがわたしを救ってくれるでしょうか』と問い、祈っているパウロ。そして、唐突とも思われるように、一気に到達点に促されて『わしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします』と告白しているのです。これが冒頭でも申し上げました、福音を受け入れる者が辿る姿です。最後の『わしたちの主イエス・キリストを通して』という『わたしたち』とはキリストの教会です。パウロもキリストの教会を通して、共に軛を負い、重荷を負って下さるイエス・キリストに出会い、助けられ続けるのです。

私たちもキリストの教会を通して、主イエス・キリストの神様に、感謝し続けます。

聖霊降臨後第7主日

『たとえを用いて』13:1-9,18-23

今日の福音書の前半は、新共同訳聖書では『種を蒔く人のたとえ』という、小見出しが付けられてあります。後半の18節以降は、そのたとえの説明だということです。『たとえ』だ、と言われますと『何を何にたとえられているのかな』と、まずは一旦立ち止まって、考えさせられるものです。何だろう、誰だろうとか。しかし、そればかりではなくて、ではこの自分はたとえの中の、どれにたとえられるのかなと、考えさせられることもあるでしょう。もしかしたら、それがイエス様の、意図されている事かも知れません。聖書を読む時によく言われる事があります。それは、聖書を読んで、自分が何者であるのかに、気づかされるように読むものだと言うのです。そして気づかされたら、更にそういう者に対して、では聖書の神様は、どんなふうに関わっておられるのだろうと、それを聞き取って行くように、と言うのです。ですから『たとえ』を聞くことは、まさに本来の聖書の読み方に、導かれるようなのです。

まず今日の福音書の前半ですが『種を蒔く人』が出てまいります。この人については、ちょうど来週の聖書箇所になりますが、次のように書かれてあります。マタイ13章37節『良い種を蒔く者は人の子』。ここは『良い種』とおっしゃられておりますが、いずれにしても『種を蒔く人』とは、『人の子』と言います。それは、イエス様ご自身のこと、と言ってもいいでしょう。そして『種』とは『イエス様の言葉』ということでしょう。そうしますと『種蒔き』とは、イエス様の言葉の宣教、あるいは福音の宣教、ということになります。更に、その福音の宣教を聞く者の状態を、4通りにたとえられているわけです。一つは道端に落ちた種が鳥に食べられる。二つ目は石だらけの土地に落ちた種が、芽は出たけれども根が無いので枯れてしまう。三つ目は、茨の間に落ちた種で、茨に成長を阻害される。そして四つ目が良い土地に落ちた種で、実を結ぶ。この『実を結ぶ』ということにたとえられているのは、主イエス・キリストの神様を真の神として、心から信頼して生かされて行く、ということでしょう。もっと一言で言えば、神につなげられている、ということでしょう。では果たしてこの自分は、どの状態にあるのだろうか。

今日の後半の、18節以下の説明を聞いて、より自分の状態を考えてみたいと思います。ただし18節でも『種を蒔く人のたとえを聞きなさい』で始まっております。少し説明を伴った『たとえ』ということでしょうか。まずは一つ目の、道端に蒔かれた種が、鳥に食べられたという状態です。これは、言葉を聞いて悟らないので、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものが奪い取られるという、そんな状態に置かれた人だということです。『悟る』と訳されているギリシア語は『スニエーミ―』と発音します。元々の意味は『一緒に総合する・まとめる』ということです。ですから、一つや二つの言葉の種を聞くだけではなくて、たくさんの言葉を繰り返し聞いたり、色々な角度を持ったイエス様の言葉に聞いて、イエス様の言葉を偏らずに、総合的に判断して行くというイメージです。しかも、心の中に蒔かれたものと言っています。このことを、道端に蒔かれたものと言っていますが、そこから受けるイメージとは、かなり違うようです。聞いて、放ったらかしにした言葉が、知らないうちに、忘れ去られてしまったという、いわゆる軽はずみな状態とは違うように思うのです。

そこでここで一旦、当時のユダヤの種蒔きの状況を調べて見ました。実際の種蒔き方法は、とにかく土地にまず種を蒔くのだそうです。それから土地を耕すのだそうです。ですから、耕している間に、道端のような所に押しやられてしまうのもあれば、石だらけの土の少ない所に押しやられてしまうのもある。そして、茨が相変わらず残っている所にあるものもある。こういう状態は確率的には、それ程多くはないのかも知れません。そして大半は、通常の土の中に、埋め込まれるのでしょう。これを良い土地と呼んでいます。これが当時の種蒔き方法なのです。そうしますと、耕やされる前の土地そのものには、格差があるわけではない。土地が耕やされた結果、可能性として、それぞれ四通りの状態が出来てしまうというのが、実際のところです。『たとえ』の中では『土地が耕やされる』ことには、何も触れられてありません。ならばそのことを、何かにたとえられるでしょうか。一人一人にある、それぞれの人生の中で、嬉しい事、悲しい事、様々な出会いや出来事に遭遇する。それが『耕やし』に当たるとしたらどうでしょうか。耕やされる前の土地そのものには、格差があるわけではない、と申し上げました。それは、言葉を受ける人間に、何の差別も格差もないということです。等しくイエス様の言葉が降り注がれるということです。

改めて、道端に蒔かれたものについて考えます。悟りに至らずとも、単なる上辺の知識としてではなく、一旦は心の中に、イエス様の言葉が入り込んでいる者です。悪い者とは、悪魔のことでしょう。その悪魔が心の中に入り込んで、心に入れられた言葉を奪い取ると言う。こういう状態の人間を考えますと、むしろ今、思い起こされる人物がいます。それは十字架に向かうイエス様を、裏切ったと言われる、十二弟子の一人の、イスカリオテのユダです。しかし最終的には、裏切ったのは十二弟子全員です。そうしますと、この道端に蒔かれたままの状態にある人間とは、イエス様を裏切る程の弱さや罪深さを負う、欠点だらけの人間と考えます。そんな人間の罪こそ、十字架と復活の主イエス・キリストによって赦される。これこそ福音です。そしてこの福音によって、裏切りの弟子たちを起源とする、キリストの教会が備えられて行くのです。そうしますと、この道端に蒔かれたものという状態こそ、キリストの教会に集う者たちの原点のようにも示されるのです。

そして教会に招かれる者たちは、それからどうなるのか。それがこの後の二通りのたとえに示されるようなのです。石だらけの所に蒔かれたもののような者は、この自分ではないかと思うのです。赦された喜びにかまけて、喜んで言葉を聞いて、今度は悟っているつもりになる。艱難や迫害は受けないにしても、とにかく自分の筋書きに、あたかも神様を従わせる事が出来るかのように、いつでも勘違いしてしまいます。筋書きから外れる事があれば、神様を疑い、落ち込んでしまうのです。更にそんな状況から抜け出たと思ったら、現実の目に見える生活に振り回されて、見えないものよりも、見えるものを頼りとしてしまっている。そうして、キリストの信仰が建前のように、飾り物のようにしてしまっているのです。これが茨の中に蒔かれたような自分なんだなと示されます。そしてこんな二通りの自分が、堂々巡りのようにして、繰り返し現れ続けているのです。

そして最後の、良い土地に蒔かれたもののようとは、御言葉を聞いて悟る者であり、実を結ぶものだと言うのです。『悟る』というは、一つや二つの言葉の種を聞くだけではなくて、たくさんの言葉を繰り返し聞いたり、色々な角度を持ったイエス様の言葉に聞いて偏らずに、総合的に判断して行くというイメージだと、先程も述べました。それは、キリストの教会によって、イエス様の言葉に聞き続ける、未だそんな過程にあるものだ、とも言えるのではないか。そして実を結ぶには、やはり時間がかかります。それは、相変わらず堂々巡りをしている自分に、相応しいとも思われます。たとえには、実を結ぶのに、早いとか遅いとか、そんなことも言われていません。量については、百倍、六十倍、三十倍と、数値が少なくなるような順番にたとえられています。それは、三十倍から百倍へと、上昇を志向しがちな自分を、戒めるようにも聞きます。量にも意味を持たないと、おっしゃられているようです。むしろ、百倍、六十倍、三十倍の、それぞれに意味があると言う。比べないのがイエス様の意図であるように示されます。

今日のたとえは、人間の在り様と、キリストの教会による信仰生活と、聖書の読み方とに、繰り返し導いてくれるように、改めて示されるのです。

聖霊降臨後第8主日

『麦まで一緒に抜くかも』13:24-30,36-43

今日の福音書も先週と同じようですが、前半の部分では、新共同訳聖書では『毒麦のたとえ』という小見出しが付けられてあります。そして後半に当たります、36節以下では『毒麦のたとえの説明』と言うことです。前半のたとえ話に対して、後半ではそのたとえ話の説明と申しますか、イエス様が解説をされているということです。『毒麦のたとえ』と言われますと、あたかも毒麦が主役で、毒麦が、どのようにたとえられているのかな、と思います。しかしイエス様は、24節の冒頭で『天の国は次のようにたとえられる』とおっしゃられています。毒麦ばかりではなく、良い麦になるであろう、良い種も出てまいります。ですから、いずれにしてもこのたとえ話全体から、天の国とはどのようなものなのか、それを教えられて行きたいと思います。

まず『天の国』と聞きますと、何か場所的な所を想像させられます。しかし『天の国』と、日本語に訳されているギリシア語は『バシレイア』と発音します。その意味は『神の支配』というものです。ですから聖書が言う『天の国』とは、場所的なものではない。神様が支配されているという『状態』を言うわけです。後半のたとえの説明によれば『良い種を蒔く者は人の子』と言われています。『人の子』とはイエス様のことです。イエス様が良い種を蒔くお方だ、というのです。ですからここではもう『天の国』とは、イエス様が支配されている状態だと、今日のたとえ話から聞きます。

それでイエス様が、良い種を畑に蒔いた。畑は世界のことで、良い種は御国の子らだと言います。『御国の子ら』というのは、つまり天の国の住人、ということでしょう。分かり易く言えば、イエス様の支配に与る、人間たちということです。それは一言で言えば、キリストの教会ということでしょう。教会は建物ではなくて、イエス様を救い主とする信徒の群れだからです。そう言えば、イエス様が本格的に宣教活動を始められた時、次のような第一声を発せられました。マタイ4章17節『悔い改めよ。天の国は近づいた』。このイエス様の言葉に聞き、悔い改めて、イエス様を救い主として信じる者が与えられる。彼らは天の国の住人として、招かれることになるのです。それにしても、天の国が近づいている、という言い方は、どのように考えたら良いでしょうか。今日のたとえの中で、注目させられることがあります。良い種を蒔いた、と言われていて、あたかも、まず種であることが、強調されているようなのです。毒麦は最初から最後まで、毒麦と言われ続けています。『毒麦を蒔いて行った』ではなく、悪い種が蒔かれた、とは言われていない。畑と言うこの世に『御国の子ら』というキリストの教会が、良い種として蒔かれた。種ですから、まだまだこれから、成長を続けて、良い麦になって行くのです。これが『天の国』という状態なのです。そしてこの状態をイエス様は、敢えて『天の国は近づいた』と、おっしゃられているのかも知れません。

イエス様が来ました。教会が出来ました。はい『天の国』が完成しました、ということではない。今日のたとえから『天の国』とは状態ですから、動きを感じます。ダイナミックなものだと、言われているようです。そして強調されるのは、良い種からは、必ず良い麦が成るのです。途中で良い種が、本質的に毒麦に変わることはあり得ない。もしかしたら途中で、毒麦のように見えることは、あるかも知れません。しかし、本質的に良い種です。ですから、良い麦になるのです。一方、毒麦も、最初から悪魔によって、毒麦として蒔かれたものです。ですから、見た目が、良い麦のようでも、毒麦なのです。

それにしても、天の国には毒麦もあるのかと、そんな思いも湧いて来ます。この畑という世界に、刈り入れの時までは、誰が何を蒔こうとも、そんな自由が与えられているようです。そしてまた、イエス様が支配される『天の国』の状態は、キリストの教会と共に、イエス様も人間と一緒に、支配されているかのようなのです。その意味は、相変わらずつまずきとなるものや、不法を行う者らがある。しかしそれらによる苦しみや悲しみに、イエス様も一緒になって、苦しみ悲しんで下さる。刈り入れまでの『天の国』の状態にあっては、何かを取り除こうと言うよりも、何かと共にいるように、イエス様の支配は続けられるのです。ですからたとえの中に、興味深い言葉があります。生育途上で、見つけた毒麦を、僕が抜きましょうかと言った時の、畑の主人の言葉です。マタイ13章29節『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい』。天の国とはいえ、その状態にあっては、毒麦にたとえられる、つまずきや不法という、悪いものはある。しかし本質的に悪いものは、人間では見分けられないと言うのです。むしろ本質的に良い種なのに、途中で毒麦のように見えるものを、簡単に毒麦として、裁いてしまうのが人間なのです。天の国の住人であるキリストの教会は、あたかも、天の国に悪いものがあってはならない、と決めつけて、悪く見える良い種を、自分こそ正しいと思えば思う程、裁こうとしてしまいがちです。

『刈り入れ』とは『世の終わり』のことだと、イエス様はおっしゃられています。ですからそれは、将来の『天の国』の完成の時とも言えるでしょう。それまでは、教会は、未だ良い種の状態にあるのです。ですから、麦になるまでの成長に向けて、身も心も集中させられるものです。つい、他所の悪いと思われるものを見つけて、自分の正しさに満足するように、安住しがちです。それは大切な成長を、むしろ阻害させてしまうものです。むしろ悪いと思うもののために、執り成しの祈りを、教会はするものです。それがまた成長を促すものになるのです。本質的に良い種なのに、悪いものに見えるものに出会うとしたら、むしろ、自分自身の問題として、受け止めて行きたい。他人ごとにしないで、何故そのように見えてしまうのか、自分を吟味させられて行きたい。そうして、教会の成長のために、役立てられて行ってほしいのです。今日の第二日課の最後に、著者のパウロは次のように告白しています。ローマ8章24-25節『わしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです』。

キリストの教会によって、今は見えない成長した良い麦が、天の国の刈り入れに与る時を、忍耐して待ち望ませて下さい。

聖霊降臨後第9主日

『天の国のこと』13:31-33,44-52

今日も、天の国のことを、聖書から聞きます。五つのことに例えられています。聖書が言う『天の国』とは、場所的なものではありません。神様が支配しているという『状態』を言うものです。そこでまず、創世記を見ます。神様は無から天地を創造された、と記されてあります。人間もその時、創られました。創られた時に神様は『良し』と言われました。それは、創ることに、神様の喜びが表されている、ということでしょう。私たち人間も、真っ新な画用紙に絵を書いたり、ただの粘土の塊から、形ある物を作ったりもします。そして、それを喜びます。特別な理由もなく、書きたいから書き、作りたいから作るのです。それは、天地創造の時の神様の、創りたいという喜びに、起源があるのかも知れません。ですから、創られた人間は、言わば神様の芸術作品ということになります。そんな神様の喜びを身に受けて、人間も喜んで神様に従い、ご支配に委ねて生かされるはずでした。

『はずでした』と申し上げたのは、そんな神様と人間との、喜びの関係が壊されてしまったからです。それは、創世記3章にあります。最初に創られた二人の人間たち、アダムとエヴァが、神様との約束を破ったのが、関係破壊の始まりでした。破っても『ごめんなさい』と言って、立ち返れば良かったのです。ところが、立ち返るどころか、神様から隠れるようになったのです。聖書はそれを罪と呼んでいます。神様の支配に与らないで、あたかも人間たちだけで、生きて行くことが出来ると、思うようになったのです。

そんな人間たちのことを神様は、ずっと気にかけて下さいました。そして、人間たちが喜んで立ち返って、創造の時の、神様との本来の関係が、回復されるようにと、待ち続けて下さったのです。その、立ち返りのためには、強制したり、脅かしたりはなさらないのです。そういうことは、神様は喜ばれません。神様が喜ばれる立ち返りは、イエス・キリストを通して、実現されることになったのです。人間が喜んで、進んで立ち返ることです。『神様が喜ばれる立ち返り』に関して、次の聖書の箇所が思い起こされます。ヨハネ3章16-17節『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである』。

イエス様による人間の立ち返りによって、もう一度、神様と人間との間に、本来の関係が回復される。その状態をイエス様は、改めて『天の国』と言うのです。ですから、イエス様による『天の国』は、イエス様の存在とその働き、そして、それに対する人間の応答とが、深く関係して来ます。ではイエス様の存在と働きに対して、人間たちはどのように応答するのでしょうか。今日の福音書の箇所の、直ぐ後の所に注目させられました。人間たちの応答の一つが、描かれているのです。故郷に帰ったイエス様に対して、人々は次のように疑問を呈しました。マタイ13章54-56節『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう』。故郷の人々にして見れば、あの大工の息子さんが、天の国の支配者だなんて、さらさら信じられないでしょう。イエス様を信じるには、人間が抱く様々な先入観や価値観や願望や筋書きが、邪魔をするように働くようです。

いずれにしても、こんな自分の罪を赦し、神様との正しい関係に、招き入れて下さるお方が、イエス様だと信じる。その時点で既に『天の国』に与っています。この『天の国』を、もはや『キリスト信仰』に置き換えます。そこで聖書は、このキリスト信仰とは『からし種に似ている』そして『パン種に似ている』と言います。どうも信仰と言われますと、多いだの少ないだのと、量や質のようなものを心配します。しかしイエス様は、有れば良いと言います。しかも、勝ち取るものではなく、与えられるものです。もしかして、信仰が小さな種のように思えても、気が付けば、大きな木のようになっていると言うのです。あるいはパン種は、有るのか無いのか分からないようでも、有ればふっくらとしたパンが出来上がる。同じように信仰があれば、その人間は、たとえ無意識であっても、神様との正しい関係に、着実に造り変えられて行くのです。

次の天の国のたとえでは、畑の中に宝を見つけた者が、そのままにして、全財産を売り払って、その畑を買うことのようだと言います。見た目は今までと、何ら変わっていないような、いつもの畑です。しかしその畑の目に見えない価値を、買う人は知らされたのです。これもキリスト信仰に置き換えます。『あの人はあんな目に遭って、悲しんでも不思議ではない。でも何故か、前向きになっている。何がそうさせるのだろうか』そんな声を聞くことがあります。肉の目には隠されて見えない、そんな神様のご支配こそ、目先のことに一喜一憂させない、絶対的拠り所であると知る。これがキリスト信仰だと示されます。

続けて、高価な真珠を見つけた商人が、全財産を売って買ったという、たとえです。彼は、真珠を見る目のプロです。これからも、更に高価な真珠に出会う可能性もあるはずです。しかし彼は、今ここで見つけたこの真珠が、今後も出会うことの無い、絶対的な価値ある、唯一の真珠だと示されたのです。ここから、こんなふうに考えます。キリスト教の洗礼を受けると決断した時、数ある宗教を一つ一つ吟味して、その結果キリスト教を選んだ、ということはあまり聞きません。あるいはキリスト教にも、色々な教派があります。それらを全て吟味して、ルーテル教会を選んだ、という話も聞きません。更には、神奈川にもたくさんルーテル教会があります。それらを吟味した結果、戸塚ルーテル教会を選んだ、という話も聞いたことはありません。通常は『たまたま』とか『偶然』で、片づけられる話しです。でもこの『たまたま・偶然』を、意味ある必然とさせられるのがキリスト信仰です。

それから、湖に投げ降ろされた網に、色々な魚が集められて、岸で良いものと悪いものに、より分けられるという、たとえです。ここからこんなふうに示されます。自分の信仰については、多いだの少ないだのと、量や質を考えることもあります。他人に対しても、同じことを考えがちです。『あの人は、不信仰だから』とか『あの人は、悪い人だ』とか、色々と他人を評価して裁くのです。しかし、裁くのは神のみです。人間には出来ません。ここに、繰り返し立ち返るのが、キリスト信仰です。

そして最後に、一連の天の国のたとえを聞いて来た弟子たちに向かって『これらのことがみな分かったか』と、イエス様が尋ねられました。弟子たちは『分かった』と答えました。この『分かる』と訳されている言葉は、今日の聖書箇所以前に『悟る』と訳されていた言葉と同じギリシア語です。『スニエーミ―』と発音します。直訳すれば『一緒に総合する・まとめる』というものです。ですから『悟った』と、弟子たちは言い切ったことになります。それは『天の国のことを学んだ学者』で『自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』と、イエス様はおっしゃられました。一家の主人が倉の中から、新しいものや古いものを取り出すというのは、当時のユダヤでも見受けられた、倉の持ち主による、いわゆる虫干し風景だということです。倉の中にある新しいものも古いものも、等しく大切にしている、ということを指し示すようです。そしてここでの『新しいものと古いもの』というのは、新約と旧約と受け取ります。キリスト教はこの両方を大切にしながら、一緒に総合するように、神様の言葉を悟って行く、ということでしょう。そうしますと、この『天の国のことを学んだ学者』というのは、弟子たち個人個人を言うよりも、もはやキリストの教会のことだと示されます。聖書が言うキリストの教会とは、呼び集められた信徒の群れを言います。決して建物のようなものを、聖書は言うわけではありません。

キリスト信仰はこうして、キリストの教会によって、保たれて行くのです。キリストの教会に感謝します。