からし種 410号 2023年7月

三位一体主日

『命じておいたこと』マタイ28:16-20

先週は、教会独自のカレンダーでは、聖霊降臨日という特別な日曜日でした。十字架に掛けられて死んだイエス様が、復活されて天に昇られました。その時、天から聖霊と呼ばれる霊を降される事を約束されました。その約束通りに聖霊が降されたことを、先週は記念したわけです。それで、この独自のカレンダーでは、言わば父なる神様と子なるイエス様と聖霊という、三位と呼ばれる三者が、一体となってそろい踏みしたということで、今日は、三位一体主日と定められているわけです。三位一体とはこの神様が、人間が生きて存在するために、ダイナミックに働かれることを言い表しているものです。あたかも三人の神様が、協力して働いている、ということではありません。あくまでも、聖書の神様の働き方のダイナミックさを、表現するのです。

ではそのダイナミックな働きを、三通りに、改めて考えてみます。まず父なる神様と人間との関りです。この父なる神様とは、天地創造の神様です。人間も、この父なる神様に造られました。今日の第一日課の創世記が詳しく記しております。特に創世記1章27節『神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された』とあります。また2章7節『主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』とあります。ここから、人間は神様との、特別な関係に入れられていることが示されます。神にかたどって造られたとは、神様と会話が出来る、というところに示されています。お祈り出来ることが、その典型です。また神様が創られた全てのものを、大切に管理するように、使命まで託して下さいました。そして人間は、神の息すなわち神様の霊によって生きるものになった、ということも大切です。これがキリストの教会で示される人間観です。ですから人々が、このような関係を与えられていることを、受け入れるかどうかで、まずは、いわゆるキリスト教伝道が進められる上での、出発点になろうかと思います。

ところが、そんなふうに、言わば神様のパートナーのように、特別に造られた人間ですから、ロボットのようではない。例えば神様の意思に背くような、自由も与えられていたのでしょう。そして案の定、その自由によって、神様の戒めを破り、神様のように振る舞うようになってしまった。これを聖書は罪と呼んでいます。これが創世記3章にある、エデンの園での人間の姿です。冒頭の神様との関係が、あると思うのかどうなのかが、伝道の出発点と申し上げました。それに付随して、その関係が断たれるのが罪であり、それを罪と思うかどうかが、伝道の第二のポイントになって行くわけです。とにかくその罪によって、裸であることが、悪い事であるかのように決めつけて、そんな自分を隠すようになったと、創世記は記しております。これは幸福、これは不幸、これは嬉しい事、これは悲しい事、これは起こってほしいこと、これは起こってほしくないこと、こんなふうに、全てに渡って、あくまでも善だとか悪だとか、人間の価値観でより分けることが、出来るかのようになってしまったのです。その結果、神様の戒めが、自分の都合に合わなければ、それを守ることに苦痛を感じるようにもなった。強制されなければ、脅されなければ、従うことも出来ないようになってしまった。そしてそんな関係を、人間同士の間にも持ち込んでしまった。自分の都合に合わせるように、他者を強制したり脅したり、裁くようになってしまった。

父なる神様も、強制されなければ、あるいは脅されなければ、従わないような関係を悲しまれた。本来の、自由に喜んで従う関係を、回復する事を願って、2000年程前に、ユダヤにイエス様を登場させるのです。最初人々は、イエス様が、色々な奇跡の業を行ったり、尊い教えをなさるので、ずっと待ち望んで来た、政治的社会的変革者のようなお方だと思った。しかし結局、そんな変革は何も起こされなかった。それどころか、犯罪者として十字架刑に処されてしまった。ところがそのお方の、復活を知らされる者たちがいた。生前のイエス様に、従っていた弟子たちです。彼らは、生前のイエス様が話された言葉や行動を、もう一度思い起こさせられた。それらは単なる、知識としての父なる神様の偉大さを、指し示すようなものではなかった。元々、神様のことを否定する事さえ出来る程の、自由な意志を与えられ、特別に心を込めて、愛されて造られた人間なのです。そんな父なる神様の、深い愛に気づいてもらいたい。しかしそのような深い愛は、知識なんかでは到底気づき得ない。だから父なる神様はもう一度、ご自分の深い愛を、身を挺するようにして、イエス様を通して現わされたのです。それがイエス様の十字架の死と復活だった。弟子たちもまた、そのイエス様を通して、父なる神の愛を、身を挺するようにして感じ、受け留めさせられた。同時にこれまで、そんな父なる神様の深い愛を、ずっと無視し続けて来た、自分の罪深さを思い知らされた。そして、悔い改めさせられて行く。そしてその深い愛によって、罪を赦され、もう一度生きる者へと、造り変えさせられて行く。神の息である聖霊がもう一度注がれ、生きる者になるのです。そうして、父なる神様との関係が、回復させられる。同時に、あの天地創造の時にも与えられたように、再び一つの使命が与えられる。こうして人間の、言わば第二の創造が果たされるのです。このように、あの2,000年前の十字架の出来事が、今の自分にとって、他人ごとになるのか、自分に関わることなのか、それがキリスト伝道の、第三のポイントです。

この第二の創造は、復活のイエス様に出会った、一部の弟子たちに、留まるものではない。全ての人間たちにも、第二の創造に与る自由がある。だから復活のイエス様は天に昇られた。その時、聖霊を降すとの約束をされ、その通りに、第二の神の息である聖霊が降された。こうして、罪を赦され、使命を与えられた人間たちの群れが、出来上がった。これがキリストの教会です。そして教会は、世界中に備えられて行く。そうやって、第二の人間の創造が、世界中に拡げられて行く。今日の福音書は、そのキリストの教会が、世界中に拡げられて行く、始まりを語るのです。そして第二の創造による第二の使命が、ここでイエス様の口を通して示されるのです。それはマタイ28章19-20節『だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい』。

ここの『命じておいたこと』とは直接的には、マタイ福音書の5章から7章にかけて記されている、イエス様による『山上の説教』と呼ばれているものです。これをキリストの教会は『教えなさい』と、命じられるのです。しかしこれらは、もはや強制されたり、脅されたり、裁かれたりして、守るようなものではない。今日の福音書は『疑う者もいた』ということですから、なおさらです。自由に喜んで進んで守るように、教えられるものです。そのためにはまずキリストの教会が、この『山上の説教』に、身を挺するようにして、そこに生かされて行くことです。マタイ7章12節には、次のように記されてあります。『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である』。

三位一体主日の『三位一体』とは、この神様の働き方だと述べてまいりました。しかしこれらは、知識のようにして、理解して行くものではありません。キリストの教会の一人一人が、この三位一体の神様の働きを、身を挺するようにして、それぞれ自分の言葉で言い表して行くことが大切です。そのように今日イエス様は『あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい』と、おっしゃられているのだと示されます。そしてこれが、繰り返しますが、第二の使命となるのです。

聖霊降臨後第2主日

『わたしが求めるもの』マタイ9:9-13,18-26

今日の福音書の最初は、マタイと言う徴税人がイエス様に従って、共に食事をしたという場面です。徴税人は、ローマの植民政策によって、主な街道筋に建てられた収税所を拠点に、そこを行き来する人々から、いわゆる通行税みたいなものを徴収していたようです。異教徒であるローマ皇帝のために、税を集めるということで、ユダヤ教側からは、宗教的に汚れた罪人として差別され、交わりを断たれていました。税を集めるに際して、不正をすることもあったのかも知れません。しかし、その職業故に、罪人とされることは、少なくともイエス様にとっては、大いに不可解だったでしょう。何故なら、天地創造時のアダムとエバの堕罪以来、人間は何をしようとも、罪人と見なすからです。今日の福音書の場面のマタイは、イエス様から声を掛けられて、直ぐに従ったかのように描かれております。どんな経緯があったのか、色々と想像させられます。

この箇所の直ぐ前の所は、中風の人をイエス様が癒された場面です。中風の人の仲間たちが、彼をイエス様の所に連れて来たわけです。その時に、イエス様がその中風の人に掛けた言葉に、注目させられます。マタイ9章2節『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』。普通に考えますと『あなたの病気は治ります』とでも言うのが、いつものイエス様のやり方ではないかと思います。いきなり『あなたの罪は赦される』というのは、唐突過ぎます。冒頭のアダムとエバ以来の、いわゆる原罪を念頭に置いた、ということではないでしょう。当時のユダヤ社会では、何か深刻な病に罹ると、本人の罪か、それとも家族や先祖の罪にまで、疑われることがあったようです。もしかしたら中風の人も、病気に苦しみつつも、そんな社会背景の中で、罪のことを意識させられ、苦しんで来たこともあったのかも知れません。もちろんこのような罪意識は、イエス様にとっては、無用だと言うでしょう。そこで、そんな社会の状況を念頭に、罪を赦す権威があるかのような発言をした。案の定、ユダヤ教の指導者の律法学者が『この男は神を冒涜している』と、反応するのです。『なんて男だ。罪を赦すなんて、口先だけだったら、誰でも言える』、そんな声も聞こえて来るようです。また同時に、人間として元々抱えているはずの、己の罪に対して傍観者的な人間に、イエス様は改めて問題を感じたのでしょう。そこでイエス様は『罪を赦すのと、起きて歩け、というのと、どっちが易しいか』と、投げかけたわけです。口先だけの罪の赦しの方が、当然、易しいと思うでしょう。そして、難しいはずの癒しの奇跡で、中風の人を歩けるようにしたのです。

この出来事は、人々に強烈な印象を与え、直ぐにこの噂が広まって行ったのでしょう。街道筋にいたマタイの耳にも、この噂が入っていたのではないか。罪と言う言葉に、マタイもまた、苦しめられていたのではないか。そこに罪の赦しの権威を持つという、イエス様のことを聞いて、大いに関心を抱いた。そんな時に、その張本人のイエス様から、あろうことか『わたしに従いなさい』と声を掛けられた。このタイミング故に、彼は立ち上がって、直ぐに従ったのではないか。そして、とにかくこの人から、まず罪の事について、聞いて見ようと思った。これまでの慣習からすれば、罪人と言われる者の家には、誰も入らないし、ましてや食事を共にすることもあり得なかった。ところがこのイエス様は、自分の家に入り、食事まで共にして下さった。益々、罪とは何なのか。そして、それが赦されるとは、どういうことなのか、問わずにはいられない。その家には、大勢の徴税人や罪人もやって来たという。まさにここでも、イエス様の噂が、どれだけ広まっていたのかが想像出来ます。そして罪人だと差別されている、人間たちの関心の深さも、伺われます。きっとこの食事の席で、罪について、熱い問答が繰り広げられたのではないかと想像されます。

そんな行われたであろう熱い問答の中で、特にイエス様に敵対する、ユダヤ教のファリサイ派の人たちの批判に応えるかのように、イエス様は次のように語られました。マタイ9章12-13節『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない、とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。今日の第一日課のホセア6章6節を引用しながら、人間が知らなければならない罪に対して、余りにも他人ごとのような態度を取る人間を問題視するのです。そしてまた、一人一人に気づきを与えようとされるのです。イエス様が言う、丈夫な人とは誰ですか。病人とは誰ですか。誰の、誰に対する『あわれみ』ですか。誰の、誰に対する『いけにえ』ですか。あなたたちは、罪人を断罪して、あたかも、正しい人だけを招くかのようにしている。そういうあなたは、正しい人なのですか。罪人は罪人のままで、放って置くのですか。それが、父なる神様のみ旨ですか。これらは今の私たちにも、突きつけられている、問いではないでしょうか。

今日の福音書は、この後『指導者の娘とイエスの服に触れる女』を登場させます。まず『指導者の娘』ですが、父親の指導者が、イエス様にひれ伏して『たった今、娘が死にました。おいでになって、手を置いて、生き返らせて下さい』と、願い出たというのです。この『指導者』というのは、口語訳聖書では『会堂司』と訳されています。ユダヤ教の会堂礼拝で、司会役をする人だそうです。ユダヤ教の典型的な、いわゆる『正しい人』と思われる中の一人です。その人の娘が、若くして死んだのです。病気になることさえ、罪と結び付けて考えられてしまう社会です。この指導者は『正しい人』ではなく、実は、神に呪われるような『悪い人』だったのではないか。そんなふうに勘ぐられても、不思議ではない当時の社会です。指導者は、自分の誇りをかなぐり捨てて、イエス様に助けを求めたのではないか。娘の命も大事ですし、自分の立場も守りたかった。そんな人間を考えると、ここでも、一体、誰が『正しい人』で、誰が『罪人』なのか。あなた方が思う『正しい人』なんて、いないのではないか。問われるのです。

この指導者の娘の所に駆けつける途中、イエス様の服に、ある女性が触れました。彼女は十二年間も出血を患っていた。この体の状態は律法によれば(レビ15:25)、汚れていると定められるものです。言わば、罪人と同じ状態です。人々との交わりを、断たれていた女性です。ですから、人目を忍ぶように『後ろからイエスの服の房に触れた』のです。その女性に気づいたイエス様は『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った』と言われ、彼女は癒された。およそ、信仰のことなんて、無縁のような、汚れた女性が『あなたの信仰』と言われたのです。これも当時の社会にあっては、考えられない事でした。そしてここでも、一体、誰が汚れていて、誰が汚れていないというのか。ましてや、誰に信仰があって、誰に無いというのか。そんな問いが、起こされるようです。そしてこの後、死んでいた、あの指導者の娘の手を取って、イエス様が起こされたということです。眠っているだけだと言ったイエス様に対して、そこにいた人々は、あざ笑ったということです。人間の死は、何をもって死んだとするのか。そしてその人が死んだと、誰が決めるのか。人が出来ることなのか。そんな問いも、ここで起こされてしまうのです。

中風の人も、徴税人も、長血を患う人も、若死にする人も、そしてまた指導者も、みんな普通の社会の一員です。誰が『正しい人』で、誰が『罪人』だなんて、そんなことは、イエス様は一切おっしゃられない。もし『正しい人』がいるなら、全員が正しいのだ。もし『罪人』がいるならば、全員が罪人なのだ。『罪人』がいると言うなら、それをつまみ出して、どこかに捨て去ろうとは、イエス様は全く考えられない。むしろ『罪人』に寄り添われるのです。共に罪にまみれながら、歩もうとされるのです。次のような聖書の言葉が思い出されます。7月9日に与えられている、マタイ福音書の箇所になります。マタイ11章28節『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう』。

もう一か所、聖書の言葉が思い起こされました。今日の第二日課はローマ書ですが、ローマ7章23-25節『わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします』。

聖霊降臨後第3主日

『失われた羊』マタイ9:35-10:8

今日の説教題は聖書から『失われた羊』としております。これは『イスラエルの家の』に続いて、記されている言葉ですので、明らかに、いわゆる『ユダヤ人』を指しているものです。しかも、その前にイエス様は『異邦人やサマリア人の町に行ってはならない』とおっしゃられているからです。それにしても、異邦人やサマリア人には冷たいイエス様なのか、と思ってしまいます。しかし、実際はそうではないはずです。マタイ15章21節以下は、新共同訳聖書では『カナンの女の信仰』という小見出しが付けられてあります。これは8月20日の福音書の箇所にもなっています。カナンですから、異邦人の女性です。彼女が自分の娘の癒しを、イエス様にお願いした場面です。ところがイエス様は、次のように言われます。マタイ15章24節『わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』。今日の福音書の場面と同じ言葉です。しかし最後には、この異邦人の女性の信仰が立派だとおっしゃられて、彼女の娘の病気を癒されたのです。ですから『イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない』と言う言葉から、異邦人に対する差別感情を読み取るのではない。もっと特別な、そして重要な意図が『失われた羊』と言う言葉に、込められていたのではないかと示されるわけです。

そんなイエス様の意図を探る上で、もう一つ注目させられる言葉があります。それはマタイ9章36節です。『また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた』。ここの『飼い主のいない羊』というのは『失われた羊』と同じでしょう。ここの群衆はユダヤ人たちです。彼らが『飼い主のいない、失われた羊』のようだという。ここの『飼い主』とは、父なる神様でしょう。ですからここでイエス様は、ユダヤ人たちが、父なる神様から離れてしまっている状態にある、あるいは規範を持たない状態にある、とおっしゃられている事になります。これは聞く人が聞けば『あいつは何を言っているんだ。おれたちはれっきとした信仰者だ。こうして、ちゃんと神様の律法を守って、神様から認められているではないか』、そんな声が聞こえて来るようです。更には『あんた、そんなことを言うんだったら、あの律法を守っていない、徴税人や娼婦や罪人たちこそどうなんだ。彼らこそ、飼い主のいない羊のようであり、失われた羊のようだろう。もっと分かり易く言えば、飼い主から見放され、見捨てられた羊なんだ』、こんな声まで聞こえて来るようです。

ユダヤ人の群衆の中で、一方では、自分たちこそ神様の律法を守っている正しい人間で、だから神様としっかりとつながって、救われていると自任している人たちがいる。そんなふうに、自分たちの神様を信じている。このような人々のことを、まずイエス様は『飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている』と見て、深く憐れまれた。更にもう一方では、神様の律法を守らないからと言われて、人々から差別され、自分たちも、どうせ自分たちは救われない者なんだと、あきらめさせられている人たちがいる。このような人々に対しても、イエス様は『飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている』と見て、深く憐れまれたのです。いずれにしても、ユダヤの人々こそ、言わば父なる神様の真実を見失っていた。だからイエス様は言うのです。マタイ9章37-38節『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』。収穫とは、父なる神様の真実を知らされ、それ故に、その父なる神様との正しい関係に入れられる者たちです。働き手とは、父なる神様の真実を知らされた者たちが、その真実が知らされるために用いられる者たちです。

では『父なる神様の真実』とは何だろうか。それは今日の第一日課、出エジプト19章2-8a節に示されています。ここは、エジプトで奴隷状態にあったユダヤ人たちが、指導者のモーセを通して働かれる、父なる神様の救いの業に与り、いわゆる神の民となる契約を結ぶことが、モーセに告げられた場面になります。この後、父なる神様はその契約の徴として、十戒をユダヤの民に与えるわけです。この場面では、父なる神様は『わたしは、あなたたちをエジプトを脱出させ、わたしのもとに連れて来た』と、まず『救い』を語るわけです。あなたたちが、何かをしたから救った、というのではありません。まず救った、それだから、あなたたちは『わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守る』とおっしゃられるのです。従いますから、救ってください、ではない。救って下さったので、従います、と言う。この順序を間違えてはならないのです。ここに父なる神様の真実が、現わされているのです。この真実を、真っ先に知らされたのがユダヤ人たちです。だからその真実を、ユダヤ人たちが見失っているとしたら、それこそ真っ先に、回復されなければなりません。だから、まず『失われた羊』の所なのです。

天地創造の時、神様は、一つ一つ創造される毎に『良しとされた』と、創世記は伝えます。もちろん、人間を造られた時も同じです。人間を造って良かった、と言われるのです。ですから人間は『良かった』という、神様の喜びを身に受けて、今もこうして生かされている者です。そんな言わば神様の愛を、身にまとっているとも言えるかも知れません。こんなふうに、父なる神様と人間との関係を聖書から聞きますと、この父なる神様の真実とは、やはり、何か良いことをするから喜ばれるとか、しないから怒って見捨てるとか、そんな表面的な希薄な関係には無いのだと、示されるのです。いつでも、神様の喜びが現わされるように、それは欠け多き、だめな自分のようであっても、それでも神様の喜びは、私のずっと深い所で、留まり続けているのです。そういうふうに、父なる神様との関係に、私たち人間は、本来置かれているのです。そしてそういう関係は、結局、このユダヤ人たちとの間だけに限るわけではない。

そこで父なる神様の真実を知らされた者たちとして、十二人の弟子たちが召し出されました。彼らが、その真実を宣べ伝える器として、用いられることになります。彼らは『汚れた霊に対する権能』を授けられたと言うことです。言わば彼らは、まず『救い』に与ったのです。もう一つ興味深い言葉があります。マタイ10章8節『ただで受けたのだから、ただで与えなさい』。いわゆる『福音』とも言える、原点になるような言葉です。福音はただ与えられる救いだからです。そしてそんな十二人は、色々な性格を持った人たちです。例えば聖書から示される所から言えば、ペトロはいわゆる口先人間でした。ゼベダイの子のヤコブとヨハネは、直情径行的な短気者でした。トマスは見えるものが頼りの理屈屋でした。マタイは徴税人として、差別をされながら、内に籠るように生きていました。シモンは熱狂主義的でした。ユダは頑固に自分の筋書きを推し進めました。彼らは、いわゆる信仰深いと言われるような、人間たちでは、決してありませんでした。言わばどこにでもいる、失敗や過ちも繰り返すような、普通の人間たちです。そんな彼らを用いて、イエス様は、福音を宣べ伝えて行こうとするのです。ここに教会の原点を見るのです。

私たちもキリストの教会によって、福音というただで受けたものを、ただで与えるイエス様の福音を、宣べ伝えて行きます。

聖霊降臨後第4主日

『敵対させるため』マタイ10:24-39

今日の説教題はマタイ10章35節から引用して『敵対させるため』としております。その前の節の34節では、イエス様が来られたのは『平和ではなく、剣をもたらすために来た』とまで言われています。今日の福音書の箇所全体は、弟子たちがイエス様の仲間であるが故に、様々な迫害に出会うと言われている所です。それで34節、35節の言葉があるのでしょう。この迫害は聖書から示されるところでは、宗教上の問題からです。一切の仕事を休まなければならない、安息日と呼ばれる日が、律法に定められてあります。この安息日にイエス様は、人の病気を癒すという、仕事にあたることを、しばしば行っています。これは宗教上、律法違反になります。また、律法を守らない人は罪人と呼ばれて来ました。その罪人に該当する徴税人や娼婦とは、交流を持ってはいけないことになっておりました。一緒に食事をすることも、律法違反となります。イエス様はこの違反も、しばしば犯しています。またユダヤ人は律法によって、割礼を施すように定められていました。割礼の無い者は、異邦人とも呼ばれていました。それで異邦人は宗教的に汚れているとして、やはり交流や共に食事をすることも禁じられていました。しかしイエス様は異邦人も、仲間のように見ていました。これも律法違反です。こんなふうに、安息日、罪人、食事、割礼、異邦人と言った事柄への対応で、ユダヤ教の祭司や律法学者たちと、イエス様は敵対していました。そして最後は、十字架に掛けられて行ったわけです。弟子たちもまた、イエス様の教えに従うならば、当然、ユダヤ教とは敵対することになります。まさにイエス様は、地上に平和といった幸せを、もたらすために来られたとは、むしろ言えない状況を、作り出したと言えるでしょう。

当時のユダヤの人々は、ローマの植民地下にありました。そんな状態から解放してくれる、いわゆる救い主の到来を期待していました。そしてイエス様に、その救い主としての期待を抱き、いわゆる平和が実現することを望んだ時もありました。しかしイエス様は、そんな人々の期待をも挫かのように『敵対させるために来た』とおっしゃられるのです。それにしても、一般のユダヤ人たちはともかく、イエス様に従う弟子たちにして見れば、イエス様に従うことは、これでは言わば、火中の栗を拾うようなことになるのではないか。それで、どんなメリットがあるのかと、思ってしまいます。その延長線上には今や、同じように私たちクリスチャンと呼ばれる者たちがいます。平和ではなく敵対を被るのだとしたら、誰がクリスチャンになると言うのだろうと思ってしまいます。

ところで、毎週水曜日の夜7時からは、今はオンラインで聖書研究会を続けております。今回は、作家の遠藤周作さんが書かれた『キリストの誕生』という著作を、皆で読み合わせております。この本は、ほぼ聖書の使徒言行録に沿って、ギリシア・ローマ世界にキリスト教を宣教して行った、弟子たちの姿が描かれているものです。ですからこの本は、遠藤周作さんによります、使徒言行録の連続聖書講解のようにも、私自身は感じているところです。弟子の一人のパウロが、様々な迫害を受けながら、いわゆるパウロ神学と呼ばれるものを、構築させられて行く過程が描かれています。冒頭で『安息日、罪人、食事、割礼、異邦人と言った事柄によって、ユダヤ教の祭司や律法学者たちから、イエス様は敵対して、最後は十字架に掛けられて行った』と申し上げました。パウロもこれらと同じような事柄によって、迫害を受けながら、同時に自分の信仰を試されるようにして、キリスト教の宣教に与って行きました。そのパウロは、初めはキリスト教徒を迫害していた者でした。そんな彼が、宣教する者へと劇的に造り変えられた時、復活のイエス様が幻の中から、アナニアという人物を通して、次のような言葉を、パウロに告げさせたのです。使徒言行録9章15-16節『行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう』。まさにパウロがこれから受ける、迫害の予告の言葉です。こんなことなら、クリスチャンに転向しない方が良かったのではないか、と思ってしまいます。しかしこれらの迫害の中から、信仰の不純物のようなものが、篩い分けられるようにして、キリストの教えがかっちりと、固められて行くことになるのです。そして、パウロ神学と呼ばれる程の、キリストの教会にとって重要な神学が、備えられて行くのです。ああここに、あの迫害を予告するイエス様の言葉の意味が、示されていたのかと思うわけです。

現代の私たちも、いわゆる迫害とまでは言わなくとも、様々な困難な出来事や悲しみに遭遇します。ですから、今の私たちに対しても、極端な言い方をすれば『幸福ではなく不幸だ』と、聞いてしまいますと『幸せが得られるように、クリスチャンになったのに、意味が無いではないか』と、つい不満を漏らしそうです。実は先週の聖研でも、このことが話題になりました。ある方がこんなことをおっしゃられました。『悲しみや苦しみが無い事に越したことはないけれども、実際問題として、そういうものは無くならないよね。だから、そういう起こってほしくない、不幸だと思う事態に直面した時に、信仰が与えられていると、どうしてなんだろうって、その意味を問うことが出来るよね。問う相手が明確にされているからね』。それで私も、こんなことを申し上げたのです。『一人の人間についてだけ考えれば、中には全く不幸な事に、直面したことの無い方もおられるかも知れない。しかし、一人の自分だけでなく、周りを見渡して見れば、戦争や様々な悲しく苦しい出来事は、歴史上一度も、途絶えた事はないですよね。それらのことに、場所や時代を超えて、自分も当事者として置いて見れば、自分も絶えず、困難な状況の中に、あることになりますよね。そして全ての者が、一緒に当事者として、その意味を問うて行くところに、むしろ幸いが示されるのでしょうね。キリストの教会の働きとは、そこにあるのではないでしょうか』。

今日の主日の祈りの中に、次のような箇所があります。『見返りを求めず与え、傷を恐れず戦い、休みを求めず労し、報いを求めず働いて、御心を行うことに満足することができますように』。『ええっ、クリスチャンはこんなふうにしなくちゃならないの。これじゃ、クリスチャンになれないじゃん』と思ってしまいます。私一人が、この教えを果たそうとしたら、ただただ落ち込むばかりです。この教えは、キリストの教会の一人一人には、出来ないことばかりだとしても、それでもキリストの教会全体にとっては、この教えに与って行こうと、促されて行くのではないか。そしてまた、今日の福音書の最後の言葉が、キリストの教会として、励まされるのです。マタイ10章39節『自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである』。この言葉からまた、全ての困難な出来事や悲しい出来事を通しても、必ずその意味が示されるように聞くのです。だからこそ共に祈り問い続けて、そしてそこからまた一歩、前に押し出されて行くように信じます。

キリストの教会によって、これからも、このキリストの教えを宣べ伝え続けて行きます。