からし種 415号 2023年12月

全聖徒主日

『人に見せるため』マタイ23:1-12

先週はハロウィーンの話題で賑やかでした。教会ではその翌日の、11月1日を全聖徒の日とし、亡くなられた先人たちを偲ぶ日としております。今日はそれから最初の日曜日ですので、全聖徒主日と定めて、改めて亡くなられた先人たちを偲んでの礼拝を守ります。併せて本日の11月5日は、戸塚ルーテル教会の宣教開始記念日です。1950年11月5日に、第一回目の洗礼式が行われ、18名の方々が受洗されました。今はこの方々も全員、天に召されております。毎年こうして先人たちを偲ぶのは、その人々に神様が、どのように働かれたのか、神様の働きをまず思い起こさせられます。その神様の働きを受けて、皆さんは社会の中で、様々な働きをされました。目に見える人々の働きを通して私たちは、神様の働きを知ります。あの第一回目の洗礼式も、受洗されるその見える人々を通して、見えない神様の救いの働きを知らされたわけです。

先週の宗教改革記念主日では、改革者のマルティン・ルターの著書を紹介しました。その著書の一つに『アウグスブルク信仰告白書』があります。第十三条では、サクラメントの意味について、記されております。サクラメントとは、神様の救いの見えるしるしのことです。洗礼と聖餐のことです。洗礼とか聖餐は、それを受けている人を見れば『ああ、あの人はクリスチャンだな』と、分かる人は分かります。そのことをルターは『外的にキリスト者を識別するしるし』と言っています。しかし、そのことも大切な事かも知れませんが、洗礼と聖餐が正しく用いられて、受けるその人の信仰が、強められるように設定されているものだと言うのです。ですから与えられた信仰によって、どのように生きて行くのか。周りの人が、その信仰者を知るとしたら、その生き方からなのではないか。例えば与えられた仕事や課題に、失敗したり絶望したり、どのように悪戦死闘しているのか、ということです。キリストとか宗教の言葉が、無理して聞こえて来なくても、見えない神様が信仰において、働いているはずです。

今日の福音書は、律法学者たちやファリサイ派の人々が『そのすることは、すべて人に見せるためである』と、イエス様から非難されている場面です。彼らは何を見せているかと言うと、今日の聖書は続けて、次のように記します。マタイ23章5-7節『聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、先生、と呼ばれたりすることを好む』。いずれも旧約に記されている、いわゆる信仰心の厚さが、見えるように定められた所作を、自分に目一杯、取り入れているというのです。だから当然、自分は上座や上席に相応しいと振る舞ったり、尊敬されている自分を、見せびらかせようとしている、というわけです。

いやあ、かなりの傲慢な人々だなあ、と思います。『よくぞこんなふうに振る舞えるなあ』と、私なんかはむしろ、感心してしまいます。信仰に余程の自信が無ければ、こんなふうには振る舞えないと思うからです。しかしまたここで、よく考えて見ます。自分では、ここまで信仰に自信が無いから、こんなふうには振る舞えないと思っているわけですが、実際、誰を念頭に置いているのかな、と考えさせられるのです。それは、いわゆる教会の外の、一般社会の人々に対しては、さも信仰者、といった振る舞いは出来ないな、と思うわけです。世間的にはクリスチャンとは、聖人君子のような存在に見られていると、勝手に思っているからです。また多少とも、実際にそんな声も聞いたことがあるからです。だから自分は、そんな者では無いと思っている。それでもクリスチャンになってしまっているので、出来ればあんまり、クリスチャンだとは知られたくないなと、思う時もあるわけです。そのくせ、あたかも教会の中から窓越しに、外を見るようにして、人々が不信仰だ異端だと勝手に言っている。裁きの目や言葉を、匿名で投げかけているのです。

ところが教会の中では、自分は牧師でもあるし、それだけでみんなは『先生』と呼んで下さいます。だから周りは信仰心厚いクリスチャンだと、当然、思っていてくれると思ってしまう。それで礼拝では、慣習とは言え、周りは好意的に受け留めていてくれると、勝手に思い込んで、仰々しくストールを付ける。十字架を首からぶら下げる。それが平気でいられるのです。信仰に自信が持てないでいる自分が、この時だけは、自信満々のようにしていられるのです。それは今日、イエス様が非難している律法学者とファリサイ派の人々と、なんだ自分は、全く同じ者ではないかとさえ、思えて来るのです。最早、傲慢だなんて、言えないなあと、思えてしまうのです。そう言えばこの人たちも、言わばユダヤ人の間の、内輪の中での振る舞いなんでしょう。だから、確かに同じと言えば同じになるはずだと、納得させられるのです。

『人に見せるため』というのは、自分を、さも良いもののように見せている、という批判の言葉です。しかしこの『人』というのが、狭い仲間内ではなくて、社会の全ての人、ということであるならば、それはむしろ、大切なことなのではないか。それがいわゆる宣教だからです。そして何を見せるのかが、問われるのです。それは冒頭で申し上げたように、与えられた仕事や課題に失敗しつつ、必死で向き合っている、生き方だと思うのです。そのためにはその人が、信仰を拠り所とするならば、それはそれで必要な事でしょう。そしてその信仰は『人に見せるため』のものではないし、見えるものでもない。見えるのは、その人の生き様だけです。

先々週になりますが、長い間、死刑囚として服役されていた袴田巌さんの、再審裁判が始まるとの報道がありました。1966年に逮捕され、1980年に死刑が確定し、2014年に静岡地裁で再審が認められ釈放されます。しかし、2018年には東京高裁で再審が認められず、2023年の最高裁判決で、ようやく再審裁判開始が確定しました。死刑囚としての42年間の収監は、ギネス世界記録だそうです。そんな袴田さんの人生の中に、1984年のクリスマスイヴに、洗礼を受けられたと、ネット記事に見つけました。一般の新聞やテレビ報道では、見なかったので、びっくりして、今ここでもお知らせしてしまいました。袴田さんにとっては、それが知られようが知られまいが、関係ない事でしょう。私もこの場で、話さなくとも良かったのかも知れませんが、受洗してからでも30年間、死刑囚として過ごされて来られたことを思いますと、やっぱりキリスト信仰は、袴田さんにとっても、大きな拠り所となったんだと、勝手に想像させられてしまうのです。また勝手なことですが、そんな袴田さんを通して、これからの自分の信仰生活にも、大いに励まされてしまうのです。袴田さんのお姉さんや、周りの支援者たちも、そんな袴田さんから、たくさんの励ましをいただいて、ここまで支援活動を続けて来られたのではないかとさえ思わせられています。

信仰による先人たちの働きと、宣教開始を記念しつつ改めて、真のキリスト信仰と宣教に、与らせていただけるよう祈り求めます。

聖霊降臨後第24主日

『目を覚まして』マタイ25:1-13

今日の福音書は、イエス様が、天の国のたとえを語られている所です。何回も申し上げていますが、聖書が言う『天の国』とは、父なる神様が支配されているという、状態を言います。ですから今ここで、神様が支配されていると信じる、その人にとっては、そこが『天の国』なのです。別の言い方をするならば、聖書が言う『天の国』は、それに与る人間の『信仰生活』そのものだ、とも言えると思います。ではその信仰生活とは、更に具体的に、どのように言えるものなのか。それを今日のイエス様のたとえ話から、聞いて行くように導かれます。

その『たとえ話』の内容ですが、ここでは婚礼の出来事が、たとえ話に用いられております。当時のユダヤの実際の婚礼ですが、まず花婿が花嫁の家に行き、その家で約束を交わし、花嫁と共に花婿の家(あるいは花婿の両親の家)に向かい、そこで婚宴を開くことになっていたそうです。その道中を近隣の人たちが同行し、おとめたちが踊りながら、その喜びを表しました。そんな実際の婚礼の流れから、今日のたとえ話を当てはめますと、十人のおとめたちが、花婿を迎えに出て行くというのは、既に花嫁の家に行った花婿が、花嫁と共に、花婿の家にやって来るという、そんな場面になるのかなと思います。ただし、たとえ話では花嫁は登場しておりません。それよりも、やって来る花婿と、迎え待つ十人のおとめ、この二者に焦点が当てられるようです。最後は花婿と一緒に、五人の賢いおとめたちだけが、花婿の家での婚宴に与る、という流れになるわけです。

ところで再来週の26日は、聖霊降臨後最終主日です。その主日では、イエス様が再び来られるという、いわゆる終末の、最後の審判を覚える日になります。十字架に死んで復活されたイエス様が、天に昇られる時に、再び天から来られる、すなわち再臨されると、言い残されました(使徒1:11)。以来教会は、再臨のイエス様を待ち続けているわけです。先程冒頭で、信仰生活とは、一体、どのようなものなのか、それを今日のイエス様のたとえ話から、聞いて行きたいと申し上げました。つまりキリスト者の信仰とは、待つ信仰だと言えます。と申しますのも、再来週の更に翌週の、12月3日は、待降節第1主日です。この日から、救い主の誕生の時を待つ期節に入ります。教会独自のカレンダーは、待つ時から始まって、待つ時で一年が締められるのです。ですから、キリスト信仰に生かされる者は、毎日をどのように待っているのか、その待ち方が問われるわけです。

イエス様は天の国を、婚宴に譬えたり、ご自身のことを花婿に、教会を花嫁に譬えたりしています(マタイ9:15,2コリント11:2,黙示19:7,エフェソ5:23-32)。今日のたとえ話は、天の国のたとえですから、婚礼が引用され、登場する花婿は再臨のイエス様だと考えられます。花嫁は登場しておりませんが、ともしびを持つ十人のおとめたちを、教会と見なすことも出来るでしょう。その十人のおとめたちのうち、五人は愚かで五人は賢いと言います。賢い五人は、何故賢いのか。それは、ともしび用の、予備の油を用意しいたからです。愚かな五人は用意していなかった。

さてたとえ話の花婿ですが、来るのが遅れたという。十人は皆、眠り込んでしまっていた。真夜中になって、ようやく花婿来たと叫ぶ声を聞いた。十人は目を覚ました。ところが愚かな五人のともしびが、消えそうになったので、賢い五人に油を分けてもらおうとした。しかし、分ける程無いと言われて、慌てて店に買いに走った。その間に、花婿と賢い五人は、婚宴の席に入り、戸が閉められた。他の五人も店から帰って来たが『お前たちのことは知らない』と言われて、婚宴の席に着くことが出来なかった。そして最後にイエス様は、結論を言います。マタイ25章13節『だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから』。

このたとえを聞いて、現実はもっと違っていても良いのかなと思われる所があります。もちろんだからこそ、現実を超える天の国の真実が、込められているのだ、とは分かります。それにしてもまず一つ目の、違うかなと思う点は、油を分けてあげなかったことです。分ける程は無いと言っていますが、五人もいれば何とかなりそうではないか。五人全員がともし火を灯さなくても良いように思います。極端な話し、一人だけが灯すことになっても、十分に明るいだろうと思うからです。二つ目は、愚かな五人が店に走っている間に花婿が来て、賢い五人だけがさっさと婚宴の席に着いた点です。その時に五人は『まだ他の五人がここに戻って来るはずなので、それまで待って下さい』と言っても、良さそうではないか。いない方が悪いのは分かりますが、厳しすぎるとも思うのです。三つ目は、遅れて来た五人が『開けてください』と願って『お前たちを知らない』と断られました。その時に、中にいた五人が『いや、私たちの仲間ですから、入れてあげて下さい』と、執り成したって良さそうです。そして四つ目は、最後にイエス様は『目を覚ましていなさい』と言われました。しかし実際は、賢い五人だって、愚かな五人と一緒に、眠り込んでいたわけです。

たとえを超えて示される天の国の真実とは、次のようです。実際の油は、分けたり買ったり出来るものです。ところが、天の国は信仰生活を映し出すと申し上げました。天の国の『油』とは、言わば『信仰』と置き換えても良いのかも知れません。信仰は貸し借りしたり、買ったり出来ないものです。しかし信仰があれば、どんなに再臨のイエス様が遅れても、待ち続けることが出来る。そして私と言う目印は、暗闇でも輝き続けるのです。

それからイエス様が来られる時は、人間の都合は優先されないのです。待った無しなのです。何故なら天の国の支配者の意志が、第一だからです。ある人は、毎週日曜日が、イエス様の再臨の日だと思って、自分の都合の全てを差し置いて、主日礼拝に出席するようにしているそうです。そうやって、再臨の日に備える訓練をしていると、おっしゃられておりました。まさに待つ信仰生活の、一つの例だなと思いました。また婚宴の席に遅れた者を入れてあげてと執り成すことも、同じように、人間の側の都合を優先させようと、してしまっていることになるのかも知れません。

最後に『目を覚ましていなさい』と言われたのは、ただ単に、四六時中起きていなさい、ということではありません。一時的に眠ってしまうような、信仰生活もありでしょう。再臨のその日、その時は知らないけれども、結局来ないのではないかと、勝手に決めつけない。それこそ愚かと言われようとも、待ち続けなさいと、言われるようです。待つとは、相手の都合を優先させることです。待てないのは、自分の都合を優先させようとするからです。

イエス様の再臨は、終末の最後の審判の時でありますから、ややもすれば恐怖感も起こされそうです。しかし、それは天の国の祝宴に招かれる時ですから、むしろ喜びの時なのです。それはまた、人間一人一人の、地上の生を終える死の時も、言わば個人的な終末とも言えます。それは誰も、避ける事は出来ません。ちょっと待って下さい、とも言えません。しかし信仰において、やはり同じように、復活のイエス様との出会いがあり、天の国の祝宴を知らされる、喜びの時だと信じるものです。

これからもキリストの教会によって、目を覚まし続けます。

聖霊降臨後第25主日

『少しのものに忠実』マタイ25:14-30

先週の福音書の箇所も、天の国のたとえ話でしたが、今日の福音書も、イエス様が、天の国のたとえを語られている所です。『天の国』とは、結局、父なる神様が人間を信じ、人間は父なる神様を信じるという、神様と人間との信じ合う状態だと、聖書から示されます。そして特に先週の福音書では、天の国の支配者は、父なる神様ですから、支配者なる神様の意思が、全てに優先されるということでした。その父なる神様は、独り子のイエス様を、人間の母マリアによって、この世に生まれさせました。これがクリスマスです。第一の臨在です。再来週の12月3日から、クリスマスを待つ期節に入ります。そして、地上に過ごされたイエス様は、十字架に死んで復活し、天に昇られ、再び同じお姿で地上に降りて来られるという。第二の臨在です。これがいわゆるイエス様の再臨です。来週26日はその再臨について、改めて聖書から考えます。現代のキリスト教会は、再び来られると言う、再臨のイエス様を依然として待っております。聖書は、何時来られるのか、その日その時を、人間は知らないと言います。キリスト教会の信仰は、必ず来られるという再臨のイエス様を、待つ信仰と言えるでしょう。待つことは、相手の意志を優先させることです。待てないのは、自分の意志を優先させようとするからです。更には、悲しいことも苦しいことも含めて、全ての出来事を通して、支配されているお方の全てに優先される意志を、聞き取って行くように促されるのです。

このように先週の福音書では、天の国の支配者の意志があり、それが優先されることを聞きましたが、今日の福音書では、支配される人間の側は、では、どうしているのか。再び来られるイエス様を待ちながら、どのようにして待っているのか、待ち方がたとえられるのです。たとえの内容を概観します。ある主人が旅行に出かける時に、三人の僕にそれぞれ、五タラントン、二タラントン、一タラントンを預けた。最初の二人は、それで商売をして、更に五タラントンと二タラントンを儲けた。ところが一タラントン預けられた者は、穴を掘ってその中に隠した。かなり日がたって主人が帰って来て、三人に預けたお金の清算をした。その際に、更に五タラントンと二タラントンを儲けた僕に対しては、全く同じ言葉で褒めています。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。ところが、穴の中に隠していた僕は『怠け者の悪い僕だ』と叱責され、外の暗闇に追い出されてしまった。

先週もそうでしたが、たとえの世界が、そのまま現実の世界に当てはめるには、少々ギャップのようなものも感じさせられます。まず、三人の僕に預けられたお金の金額に、多寡があります。通常は多く預けられた人間の優位性を考えます。しかしたとえでは、僕たちの間の優劣は語られていません。むしろ、更に五タラントンと二タラントンを儲けた僕に対しては、全く同じ言葉で褒めています。あり得ない事ではありませんが、通常は、より多く儲けた者が称賛される場合が多いからです。しかしここは金額の多寡ではない。ですからいずれも『少しのものに忠実』と言っています。とにかくそれぞれ預けられたお金で、一生懸命商売するから、褒められるのです。何もしないで、穴に隠していた僕は、怠け者で悪い僕だと叱責されました。商売は、結果的に自分も儲けますが、とにかくお客さんに喜んでもらわなければ、何も始まりません。つまり、周りが喜ぶために、まず何かをすることが大切なのです。『主人と一緒に喜んでくれ』と言うのも、主人の喜びは、周りが喜ぶ所にあるからです。

その叱責された僕のことですが、彼は何故穴に隠したのか、理由を述べています。この主人のことを『あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくな』ったからだと言うのです。それに対するこの主人の返しの言葉ですが、通常は、自分のことが、そんなふうに思われていることを、多少なりとも否定するはずです。ところがそれをしないのです。むしろ、そんな風に知っていたのなら、なおさら、何とか叱られないように、考えたらどうなんだと言うわけです。例えば、何かをするのが得意でなければ、銀行に預けたって良いではないかというわけです。銀行はそのお金を、周りの人たちのためにも使うわけです。結果的に、お金を預けたあなたも、周りの人たちのために、役立っていることになるだろう。とにかく、何も考えない、何もしないことが、周りの人たちも自分も、喜べない。それが問題なのだ、というわけです。

このたとえから、天の国という信仰生活について、こんなふうに置き換えて考えて見ます。旅行に行って戻って来る主人とは、再臨のイエス様と考えます。通貨のタラントンは、いわゆるタレントの語源です。賜物と訳します。人間はそれぞれ命と賜物を与えられて、信仰生活を送ります。そして与えられた命と賜物は、周りの人間たちのために使うのです。あくまでも頂いた命と賜物ですから、与えて下さった方にお返しするように、周りの人たちのために使います。例えばAさんはBさんのために、命と賜物を使う。BさんはBさんで、Cさんのために使う。そしてCさんはCさんで、Aさんのために使う。そうやって巡り巡って、気が付けば互いに、命と賜物を与え合っている。その賜物には、多い少ない、大きい小さい、優だ劣だ、は無い。とにかく、何も考えずに、何もしないで、必ずいただいているはずの命と賜物を、使わない事が問題なのです。もちろん使い方は、多種多様でしょう。

また、たとえの中の、あの叱責された僕が、主人のことを『蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしい』と言っていました。これは、再臨のイエス様が、最後の審判のために来られるからと言って、いつ来るか、いつ来るかと、来られる将来のことを、びくびくしながら、またそういう再臨の恐怖を吹聴して、感謝も喜びも無い毎日を過ごすことを映し出しているようです。そんな、いつのことか分からないことに恐れて、命と賜物を使わないで過ごすのはやめよう。今というこの時に、命と賜物を使って、この人のために、あの人々のために、心を込めて、出来る事を果たして過ごそう。これが、待つ信仰生活を送る者の生き方だと示されます。

たとえの最後の方で、叱責された僕に与えられていた一タラントンを、十タラントン持っている者に与えながら、主人が言いました。『だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』。ああ、やっぱり、たくさん稼いだ者が称賛されるのか、と一瞬思いました。がしかし、こんなふうに考え直しました。『持っている人は、それを周りの人のために使う人なので、もっと多くの周りの人たちのために、更に与えられるのだ』。

キリストの教会によって、こんな自分も、更に与えられているものにして下さい。

聖霊降臨後最終主日

『小さい者の一人に』マタイ25:31-46

今日は、一年間に渡るキリスト教会独自のカレンダーでは、大晦日の週になります。言わば、再び来られると言われたイエス様が、そのお言葉通りに来られたという、救いの業の完結が想定される時です。そこで、この一年のカレンダーを振り返ります。まず、救い主としてのイエス様の登場を預言する時代から始まって、預言通り登場したのがクリスマス。そこからイエス様は地上での生活を始められ、たくさんの言葉と奇跡の業を現わされます。その間には、罪人と呼ばれる人たちとの交わりを繰り返します。それが律法違反だと咎められて、結局、イエス様ご自身が罪人として十字架に掛けられ、死んでしまいます。しかし預言通り復活され、再び同じ姿で降って来るとの約束と共に、天に昇られます。それから、これも預言通りに聖霊を下されて、キリスト教会が建て上げられます。そしてキリスト教会によって、共にいて下さるキリストを信じ、再び来られる時を待つ信仰生活を、キリスト教会は過ごします。実際に今もキリスト教会は、これを待つ信仰生活を過ごしております。

そこで先週は福音書から、その待つ信仰生活とは、どのようなものなのか、イエス様のたとえによって示されました。人間はそれぞれ命と賜物を与えられて、信仰生活を送ります。そして与えられた命と賜物は、周りの人間たちのために使うのです。あくまでも頂いた命と賜物ですから、与えて下さった方にお返しするように、周りの人たちのために使います。その賜物に、多い少ない、大きい小さい、優だ劣だ、とは言いません。とにかく、何も考えずに、何もしないで、必ずいただいているはずの命と賜物を、使わない事が問題だということでした。

今日の福音書は、そんな待つ信仰生活が、再び来られるキリストによって閉じられて、羊飼いが羊と山羊を、右と左に分けるように、信仰生活の内容が吟味清算されて、永遠の命にあずかるものと、永遠の罰を受けるものとに、より分けられることを伝えます。それで再び来られるキリストの出来事を、最後の審判と呼んだり、ハルマゲドンなどと呼んだりして、恐怖感が煽られるように伝える向きもあります。しかし先週も申し上げましたが、いつのことか分からないことに恐れて、命と賜物を使わないで過ごすことを聖書は戒めます。今というこの時を、心を込めて、大切に生きて行こうよ、と言うわけです。

それで先程、再び来られる時を待つ信仰生活は『キリスト教会によって、共にいて下さるキリストを信じ、過ごす』と申し上げました。天に昇られて、再び来られるキリストなのに、そんなキリストが共にいて下さるなんて、矛盾していると思われるかも知れません。しかし今日の第二日課エフェソ1章23節には、次のように記されてあります。『教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です』。ですからこうして、毎週の主日に、礼拝に与りながら、そこでキリストと共にあることを、信じさせていただけるわけです。

更に今日の福音書は、キリストが共にいて下さることを、具体的に次のように記しております。マタイ25章35-36、40節『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからた。・・わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』。キリストの兄弟である、最も小さい者とは誰なのか、聖書はこのように具体的に取り上げております。がしかし、例えばそこに飢えた人がいるとします。その人を自分は、キリストだと見ることが出来るだろうか。もちろん、日本人である自分は、実際のイエス・キリストに会った事が無いので、顔を知りません。知っている顔は、絵画などで見ているものです。考えて見れば、その顔は、実際のイエス・キリストの顔ではないでしょう。だからいずれにしても、出会うその人が、最も小さい者だとするならば、自分はその人をキリストだと信じても良いわけです。

しかしそんなふうに思えるかどうか、自信はありません。その人と関わることで、キリストが今、この自分と共にいて下さるということも、信じることが出来るかどうか、自信がありません。見るからに、自分に危害を加えそうもない、良さそうな人ならば、無理して、キリストだと思い込むように、することは出来るかも知れません。しかしそうでもなければ、特に、牢屋に入っている人を訪ねて、キリストに会う気になろうなんて、とても出来そうにありません。そうしますと、キリスト再臨の最終局面に際して、永遠の命に与れるのか、永遠の罰を受けるのか、両方の可能性があるだろう。そもそも、99%は最も小さい者の一人に、必要としている事が出来たとして、1%は出来なかったとしたら、どっちになるのだろうか。やっぱり永遠の罰なのか。100%でないとだめなんだろうか。まあしかし、現実は、まだ待つ信仰生活に与っています。結果結論は出ていません。ですから、聖書が言うように、最も小さい者の一人をキリストと出来ますように、右往左往するだけなのでしょう。そう言えば、先週の福音書の、たとえの中で商売をして儲けた僕に対して『お前は少しのものに忠実であった』と『少しのもの』と言っています。今日の福音書では『最も小さい者』と言っています。いずれにしても、多いことや、大きいことに価値を置いてしまいがちな自分にとって、大切な戒めに聞きます。誰が最も小さい者なのかを、自分の都合や好みや価値観で、決めてしまわないように、絶えず自己吟味するように促されます。そう言えば来週からは待降節で、救い主の第一の到来を待つ期節に入ります。そしてその救い主は、飼い葉桶の中に眠る小さな乳飲み子です。力強く白馬にまたがる、大きい大人の救い主ではありません。

たまたま金曜日の朝に、NHKラジオで、米国野球の大リーグで大活躍される、大谷翔平選手のことを本にした、著者の児玉光雄さんのインタビューが放送されていました。その中で児玉さんが、こんなことをおっしゃっておられました。大谷選手が抱く目的は大きい。それは、大リーグで最高の選手になること。その最高の中身は、打率とか本数とかの単なる数字上のことではないだろう。もっと人間としての、大谷選手全体に関わるものなのだろう。そしてそれは大谷選手自身が決められるものではない。そしてそこに至る道筋には、折々に小さな目標を立てて、そのために準備努力をする。今年はホームラン王を取りましたが、それは準備努力に対する小さなご褒美だと思っている。タイトルを取るのは、単なるプロセスや目標値のようであって、目的では無い。ですから、一つ一つの小さな目標を通り過ぎながら、それを答えや結果結論にするのではなくて、そこに示されている、今自分が抱えている問題点は何かを考えて、更に次の折々の目標を設定して行く、というお話しでした。いずれにしても大谷選手なりに、目的に到達するまでのプロセスを、大切に心を込めて、歩んでおられるのだなと思いました。この生き方は、キリスト再臨という大きな目的地に向けて、最も小さい者と少しのものとを目標に据えながら、キリストに出会ったりまた無視したり、そこから悔い改めるように自分の問題点を洗い出し、今というこの時を、大切に生きようとしている、こんな自分の信仰生活と、重ね合わせられるのです。

キリストの教会によって、キリストに出会い続けて、共に歩ませて下さい。