からし種 395号 2022年4月

四旬節第1主日

『悪魔はあらゆる誘惑を終えて』ルカ4:1-13

先週の水曜日から、これを灰の水曜日と呼んでおりますが、教会独自のカレンダーでは、四旬節に入りました。40日という意味です。聖書の世界では、悔い改めの徴として、灰をかぶる行為が行われるのです。礼拝堂の前飾りも、青から紫に変わりました。これから40日間に渡って、改めて神様との関係を問い質されてまいります。その40日間という根拠が、今日与えられております、ルカ福音書の4章以下からになります。イエス様が『四十日間、悪魔から誘惑を受けられた』という、この四十日を根拠としているわけです。

そこで今日の福音書の箇所の前の所、ルカ3章22節には、イエス様がバプテスマのヨハネから、洗礼を受けられた場面が記されてあります。その時に次のような、天からの声がありました。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。神の子であるという宣言です。そしてその後には、イエス様の系図が記されてあります。その最後には『そして神に至る』と記されてあります。このようにまず聖書は、徹底的に、イエス様が神の子であることを宣言する。そして今日の場面で悪魔は『神の子なら』と、イエス様を誘惑するのです。

断食の四十日間が終わって、空腹の極みの中に置かれたイエス様に、悪魔は三つの誘惑を仕掛けます。まず第一の誘惑は『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』。『神の子なら』なんて言われて、自分の面子が立つ、立たないみたいな事を、自分だったら考えてしまいます。イエス様はここで、石をパンに変えようが変えまいが、イエス様はそんな面子の事なんか、考えるお方ではないと思います。石をパンに変えたとしても、それなりの理由を持って、対処なさるのでしょう。『このパンを困っている人に配りなさい』なんておっしゃられるかも知れません。ところがこの時のイエス様のお答えに、注目させられます。ルカ4章4節『人はパンだけで生きるものではない、と書いてある』。ルカ福音書では、このお答えだけなのです。それだけに、これを聞かされた者は、深く考えさせられます。『そうすると、パン以外に何が必要なんだ。そもそも生きるとは、どういうことなのか。この肉の体の機能だけの問題ではないのか』。こんなふうに、このイエス様のお答えは、単に悪魔だけに向けられていない。これを聞く全ての人間への、問いかけも込められている。そんなふうにイエス様は、常に私たち人間の事をも思われているようだ。ただ単に、私は悪魔の誘惑を退けました、みたいな事では無いんだと示されます。

二つ目の誘惑は、一瞬のうちに世界のすべての国を見せられて、悪魔から言われるのです。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる』。一つ目の誘惑の場面で『パン以外に何が必要なんだ』と考えさせられて『そうか。権力と繁栄があれば、もっと豊かに生きることが出来るし、ついでに困っている人だって助けられる』。そうすると、この二つ目は、誘惑と言うよりも、一つの勧めになるのではないか。しかも『一瞬のうちに』というのも、心地よい。余計なプロセスを省いて、結果結論が早い方が良い。『もしわたしを拝むなら』なんて言われたって、腹の中で舌を出していれば良いわけだ。それはそれ、これはこれと、使い分ければ良いのではないか。それに『これと思う人に与える』なんて、光栄だし励まされるではないか。ところがイエス様のお答えは、ここでも注目させられます。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ、と書いてある』。一つ目の誘惑の場面で『そもそも生きるとは、どういうことなのか』という問いかけのことにも触れました。ここのイエス様のお答えから、私たち人間が生きる意味が示されるのです。あわよくば、権力と繁栄を手に入れて、まあそれなりに信仰と使命感をもって、社会にも貢献し、いわゆる幸福な生涯を送るのが、生きる意味だと考えてしまう。しかしイエス様はそれとは違う。自分の命と賜物を与えて下さった、主なる神様のために応えて生きて行く。それがどんな形であれ、どんなに格好が悪くても、どんなに破れが伴っても、主のために生きる。どこにあなたは、価値観を置いているのかと問われる。こんな自分を、それでも用いて下さるという主に、応えて行く生き方、それをイエス様はここで、教えて下さっている。まるで自分の、これまでの価値観とは違う。

三つ目の誘惑は、神殿の屋根の端に立たせて『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ』という。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』と、悪魔は聖書を持ち出して誘惑する。主に仕えると言ったって、いくらなんでも、ただで主に仕えなくてもいいでしょ。ちょうど聖書には、何をやったって、主は守って下さると書いてあるから、飛び降りたらどうか、と言うのです。これに対してイエス様は、やはり聖書によって『主を試してはならない』と答えられました。『試す』というのは、試される側が独りで動いて、試す方は、傍観者というお客様になります。主に仕えて行くということは、主の為さる業のために、自分も用いられて行くことです。主も自分も、一緒に当事者になって行くことです。主も自分も、お客様にはならない。こうして、これらの三つの誘惑から、人間である私の生き方が浮き彫りにさせられて行くのです。結局食べなきゃ、生きて行けないでしょう。結局は権力と繁栄が人生の目的でしょう。お客様になるご利益信仰が信仰だと思う。神様と私との関係はどうなっているのか。この三つの誘惑は今も、繰り返しこんな自分に、問い続けてくれるのです。

先月の2月28日は、1972年の『あさま山荘事件』が起こされてから50年目ということで、新聞テレビで取り上げられておりました。事件を起こした一人に、無期懲役刑で服役している、連合赤軍元幹部の吉野雅邦受刑者の事が新聞記事にもなり、NHKテレビのクローズアップ現代という番組でも取り上げられておりました。この吉野受刑者の一審裁判で裁判長を努めた、故石丸俊彦さんの事も話題になりました。吉野受刑者も死刑を求刑されていましたが、リンチはしたがリンチを命じたわけではないとして、無期懲役になりました。石丸裁判長は無期懲役の判決を下す際『法の名において、生命を奪うようなことはしない。被告は、神が許す限り生き続け、全存在をかけて罪を償いなさい』と諭したそうです。石丸さんは退官後1992年、吉野受刑者の両親を介して、彼に聖書を贈呈したそうです。その後毎年、クリスマスカードなどを送っていました。新聞には石丸さんから送った誕生日カードの写真が掲載されてありました。次のように書かれてありました。『神によってこの世に生命を与えられました、尊いお誕生日を心からお祝い申し上げます。上からの御恩寵御慈愛が、日に日に豊かにふりそそがれますように、主にお祈りいたしております』。

こうして吉野受刑者に対し『人間としての感性を取り戻し、生涯に亘って贖罪することだ』と諭し続けられました。逮捕から50年、完全に改悛し、身体の弱った他の受刑者を介抱するなど、模範囚として服役を続ける吉野受刑者に、贖罪の機会を与えてあげたいとして、早期の仮釈放を訴える声が上がっているそうです。吉野受刑者は、判決文や石丸さんとのやりとりを通して、自身を見つめ続けました。その結果『私にとっての革命運動とは、社会を変革する組織的運動ではなく、弱者への後ろめたさから免れ、果てには生き続けていることへの負い目から自由になる自己破滅を目指しての挑戦だったように思える』との境地に至ったそうです。結局、社会のためではなく、自分中心の自分のためだったというわけです。『石丸先生の恩に報いるためにも、社会復帰を果たして、贖罪としての生き方をしたい』と、取材記者への手紙に誓いをつづっているとのことでした。私が高校二年生の時の事件で、朝学校に行く時も、山荘の管理人の方を人質にした犯人たちの、立て籠もりの様子が、テレビで生中継されておりました。夕方帰宅した時にも、まだ生中継されていて、びっくりしたのが忘れられません。事件の後、一人の犯人である吉野受刑者が、聖書を通して、徹底的に自己を見つめ通し、そんな彼に、生涯寄り添い続けたキリスト者の裁判官との出会いが備えられていたということに、50年経って、また驚かされました。その人が悔い改めるために、必要ならその人のために、また助け手が送られるのだ。逆に自分もまた、悔い改めるために、自分を必要としている人のところへ、いつか用いられて送られるのだろう。

キリストの教会によって、これからも悔い改めさせられて行きます。神様との関係が正されてまいりますように祈り続けます。

四旬節第2主日

『自分の道を進まねば』ルカ13:31-35

今日の福音書は『ちょうどそのとき』という言葉から始まっております。どんな時なんだろうと、つい気になってしまいます。聖書の続き具合からすれば、今日の福音書のすぐ前の所からだと類推します。その場面では、イエス様が『エルサレムに向かって進んでおられた』と言う言葉で始まっております。その際に『主よ、救われる者は少ないのでしょうか』と問われて、『狭い戸口から入るように努めなさい』と答えられました。更にこの場面の最後では『・・後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある』と語られました。そして『ちょうどそのとき』と続きます。『狭い戸口から入るように』というのは、一般的には人間的可能性からすれば、誰も選択しないだろう戸口です。救いに関しては、人間的可能性に頼るな、という事です。では何に頼るのか。救いは神に頼ることから始まる、という事です。救いを神に頼らない人がいるのか。聖書の中によく出て来るファリサイ派の人は、律法学者もこの派に属していますが、彼らは神様の律法を100%守っていると、自負している人たちでした。ユダヤ教の中の、一つの教派を形成している人たちです。聖書の研究にも熱心だし、礼拝も欠かさず守り、いわゆる信仰熱心な人たちでした。ですから誰もが、あの人たちは真っ先に救われる人たちだと思っていました。自分たちも、救われると自負していました。それが行き過ぎて、信仰熱心ではないと思われる人たちを、救われない罪人だと裁くこともありました。ちなみに10月23日の礼拝で与えられている、福音書の箇所になりますが、ルカ18章9節でイエス様は次のように語られています。『自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された』。この『正しい人間』がファリサイ派だとここでも、おっしゃられているわけです。

人間の可能性の力に頼り、真っ先に救われると自負する、ファリサイ派の人たちを念頭に置きながら、イエス様はこの場面で『狭い戸口から入るように』とか『後の人で先になり、先の人で後になる』と語られたのでしょう。『ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った』というのです。このタイミングで、ファリサイ派の人たちが来たわけです。この時のイエス様の気持ちは、どんなだっただろうか。この後のイエス様の語られた言葉を聞きますと、何かイエス様の心の中の、重大な琴線に触れてしまったのではないかと、想像させられてしまう程です。言葉に出せば『だから、違うんだよ』という感じです。この時のファリサイ派の人たちは『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』と忠告したようです。ヘロデというのは、当時は、イエス様がお育ちになったガリラヤ地方の領主でした。そんなヘロデが『バプテスマのヨハネが生き返った方だ』とか『旧約時代の大預言者エリヤが現れた』とか、イエス様の評判を聞いた時の反応を、ルカ福音書は次のように伝えています。ルカ9章9節『ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。そして、イエスに会ってみたいと思った』。

イエス様に興味を抱いていたヘロデが、そのイエス様に殺意を抱いたというのです。もしかしたら、やっぱり自分が殺したヨハネが、生き返ったと思ったのでしょうか。それにしてもこの情報を、このファリサイ派の人たちは、どんな思いで伝えようとしたのか。純粋にイエス様を助けようと思ったのか。しかしそんな情報が得られるのは、余程ヘロデに近い人間でなければ得られないのではないか。ヘロデにもイエス様にも両方に、いい顔をしようとしているようにも垣間見える。あるいは自分たちが住んでいる所で、殺害事件を起こされては面倒だ。イエスにはさっさと立ち去ってほしいと思ったか。いずれにしても、話題の当事者だったファリサイ派の人たちが、忠告して来た事が重なって、殺害されて死ぬ、という事に、イエス様は何か、過剰に反応されたかのように思えるのです。ファリサイ派の人たちには、今まさに、あなたたちの事を念頭に置いて話しているのに、他人ごとのように聞いているのか、と思った事でしょう。そしてそれ以上に『死ぬ』という事が、心の琴線に響いた。『死ぬ』と聞いて、驚くとでも思っているのか、という勢いです。

『あの狐』とヘロデの事を、イエス様は呼んでおります。それはまた、人間的なものに頼ろうとする者への、神様の厳しい目をも想像させられます。とにかく私に示された事は、いかなる妨害が起ころうとも、これまで通り進めて行く。私は決して死ぬことを恐れない。死ぬにしても、私はここでは死なない。私の死に場所はエルサレムだ、と言い切るのです。死ぬ事を恐れる者でありながら、平気で人を殺せる人間。そんな人間たちに対する、また神様からの警告にも聞こえます。ファリサイ派の人たちも、ここまでの反応は予想外だったのではないでしょうか。ただ命の危険を忠告しただけなのに、という事でしょう。更にイエス様の反応は、もっと大きく広がるようです。エルサレム全体の過ちにまで非難を向け、そんな者たちであっても、何度、立ち返るように救いの手を差し伸べたことかと、これまでの神様の働きにまで言及するのです。ここはもう、ファリサイ派の人たちやユダヤ人たちどころか、人類全体に向けての警告の言葉であるかのように、イエス様は語られるようです。

エルサレムがイエス様の死に場所。十字架に掛けられた場所です。そしてその十字架のイエス・キリストは、こんな自分の死に場所を指し示します。先週のキリスト教を学ぶ会で、人間の罪によって、イエス様は十字架に掛けられ死なれた。そうやってイエス様は、神に裁かれるべき人間の身代わりとなって、神に裁かれて十字架上で死なれた、ということをお話ししました。そこで一人の参加者の方から、こんな質問を受けました。『神に裁かれるべき人間の身代わりとなって』とおっしゃるけれども、どうしてそれが『全ての人間の身代わり』と言えるんですか。もちろん十字架に掛けるに至っては、ローマの総督とか、ユダヤ教の大祭司とか、律法学者とか、あるいは、それに加担したと思われる民衆もいたでしょう。いずれにしても、2000年前のイエスの十字架の出来事に、加担した当事者たちの罪は、大罪だと思います。なにせ神の子を十字架に掛けて、殺してしまったわけですから。もちろん自分も聖書が罪だと言う、嘘をついたり、恨んだり、妬んだり、神様を試したりします。しかし、そんな小さな自分の罪と、彼らの大罪とを等しく評価するようにして、だからあなたも、イエス様を十字架に掛けた当事者なんだと言われても、どうも合点が行かないんです。

この疑問に対して私は、こんなふうに応えました。確かにいくら自分が罪人だとしても、あんなことまではしないし、出来ないと思う事もありました。ただ聖書が求めているのは、あんなことはしちゃった、こんなことまではしていない、というような、罪があるとか無いとかだけではなく、あるいはあの罪と比べたら自分の罪は軽いとか、そういう事に留まらない。最終的には、人を赦せるか赦せないか、という事なんです。倫理道徳的に善いことだから、人を赦しましょう、というのではない。心から自発的に、人を赦せるかどうかなんです。これが出来るのは、本当に自分の罪を知るからではないでしょうか。この罪を知るというのは、私と神様との関係を問うことです。ですから、自分の命や存在の意味にまで及ぶことになるのです。十字架のイエス・キリストは、そんなふうにこんな私に、問いかけ続けているのです。

主の祈りの中に『わたしたちに罪を犯した者を赦しましたから、わたしたちの犯した罪をお赦しください』という件があります。よく、問いを起させる箇所です。私は改めてこの箇所を、こんなふうに示されるのです。『わたしたちに罪を犯した者を赦しました』というのは『わたしたちは罪を知りました』ということです。だから『わたしたちの犯した罪をお赦しください』と祈ることが出来るのです。『わたしたちの犯した罪』をよく知らないで、なんだか知らないけれども、罪を赦してください、なんて祈れないはずです。返って神様に失礼でしょう。ですからここは、罪を知ることが出来ますように、そしてその罪を赦してください、と祈ることだと思うのです。

ひたすら自分の道を進まれたイエス様。その向こうに、死に場所を見据えておられました。それは、他の場所では、決して置き換えられ得ない、死に場所でした。その死に場所は今も、キリストの教会によって指し示され続けています。キリストの十字架が、私の死に場所として下さい。

四旬節第3主日

『悔い改めなければ』ルカ13:1-9

先週の福音書の箇所は、13章31節以下の所からでした。そしてその31節の始まりは『ちょうどそのとき』という言葉からでした。それで、どんな時なんだろうと、つい気になってしまうということも申し上げました。実は今日の箇所も『ちょうどそのとき』という言葉から始まっております。同じように、どんな時なんだろうと、気になっていますので、それを解決させるところから、聖書に聞いて行きたいと思います。やはり聖書の続き具合からしますと、今日の福音書のすぐ前の所が、『ちょうどそのとき』に関わる事だと思います。

今日の福音書のすぐ前の所は、ルカ12章57節から59節になります。『訴える人と仲直りする』という小見出しが、新共同訳聖書では付けられてあります。ここは恐らくお金を借りた人が、なかなか返さないので、それで訴えられる事になったのでしょうか。そうすると裁判官のところに行く途中で、自分を訴える人と仲直りしないと、裁判で裁かれて、行き着くところまでいってしまうよという戒めを、イエス様が語られているところです。『お金を返さない』という事実は、誰もが見ても分かる事です。ですから、訴えられれば、当然、罰せられるでしょう。もちろん、裁判官はプロですから『返さなかった』という表面的な事実だけで、判決を下すわけではないでしょう。何故返さなかったのか、あるいは返すことが出来なかったのか、そもそもどうしてお金を借りる事になったのか、訴えられた人の、そんな目に見えない心の中をも、判決に際しては、考慮することもあるでしょう。ですから、誰もが見えない心の中を、その人は分かるように告白する事が大切でしょう。そのためには、その人は、まずしっかりと自分の心の中を、正直に見つめ直す必要もあるでしょう。そこで、誰もが心の中は分からないからと言って、嘘をついたらだめでしょう。いくら優秀な裁判官でも、告白も受けないで、他者の見えない心の中を、100%知ることは不可能です。そこでこの箇所の冒頭の言葉に、改めて注目させられます。ルカ12章57節『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか』。裁判官は何が正しいかを、公正に判断される方です。しかし他人の心の中を知るには限界があります。自分の心の中まで、正しく判断出来るのは。自分しかいないのです。

そして今日の福音書の箇所の1節から5節までは、新共同訳聖書では『悔い改めなければ滅びる』という小見出しが付けられてあります。『ちょうどそのとき』です。ガリラヤ人の人が災難に遭ったことを、何人かの人が告げたのです。この災難とは、神殿の聖域でガリラヤ出身の人が、ローマ総督のピラトによって虐殺されたという事件の事だったようです。いずれにしても、誰にも分かる事実として、虐殺された人がいた。そういうケースは『そういう目に遭うのは、罪深い者だったからだ』という見方を、多くの人たちがしていました。しかし虐殺された人たちの心の中は、誰も見えないし分からない。それをもって、見える事実だけで『罪深い者』と言えるのか。そんなことを言っているあなた方だって、その心の中は誰も分からない。だから、もしその心の中で、神様を冒涜しているような事があれば、それこそ『罪深い者』ではないのか。この後、シロアムの塔の崩落事故の事にも、イエス様は言及されておられます。いずれにしても、どんな事件や事故に遭おうとも、その見た目の事実だけで、その当事者の人間の良し悪しを、判断することは出来ない。傍観者のように人を判断出来ると思う人間も、実は『悔い改める』べきものを、抱えているではありませんかと問われるのです。そうすると『悔い改め』とは、誰も分からない自分の心の中を、しっかりとまず正直に見つめ直し、自分が正しいのか正しくないのか、どんな状態にあるのかを、公正に判断する事なのだと示されるのです。

自分の心の中は、自分にしか分からない事です。ですから、自分が判断しなさいと言われれば、そうですねと言わざるを得ません。しかし、果たして自分一人で、正しく判断出来るのか。特に、結局、自分に不利になると思えるような事を、正直に見つめて、告白にまで至る事が出来るのか。心もとない気もしてまいります。そこで今日の福音書の6節以下で、イエス様は『実のならないいちじくの木』のたとえも語られます。ぶどう園にいちじくの木をセットで植えるのは、ユダヤではなじみある光景だったようです。ぶどうの蔓をいちじくの木に這わせて、栽培していたからです。いちじくは年に2回実を成らせるということです。何か異常事態さえなければ、実が成らないことの方が珍しいくらいだったようです。それで、いちじくの木の下に憩うとか、ぶどうの木の下に憩うことは、ユダヤでは平和と繁栄のしるしとされていました。そんないちじくの木が、3年も実を成らせないということです。これは余程、そのいちじくの木に問題があると、判断されてしまいます。実が成らないという、誰が見ても『こりゃだめだ』と判断出来る、厳然たる事実があるからです。しかもいちじくの木は、繰り返しますが、ユダヤではおなじみの木です。その木がだめなら、容易に実を成らせる、他のいちじくの木に取替が可能なのです。未練なく切り倒すことが出来るものです。

ところが、このたとえに登場する、ぶどう園の管理を任されている園丁は、次のような取りなしを言うのです。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』。三年間も、実が成らないいちじくの木を、切り倒さずにそのままにしていたことさえ異例だと思います。それなのに、更にもう一年待ちましょうと言う。しかもそれを園丁が言うのも異例です。普通に考えれば、どちみち、そのいちじくの木は、御主人のものです。園丁は言われるままに、管理の仕事をすればいいわけです。いちじくの木の一本一本に、それほどの思い入れを持たなくても言い訳です。ましてや実の成らないいちじくの木なんて、論外です。もっとも、次のような考え方もあります。誰のものであっても、園丁という管理を任せられている者として、余程、そこに植えられているものに、本来、愛着を持てる方なんだろうなあ、とも解釈出来ます。ですから『木の周りを掘って、肥やしをやってみます』とまで言えるのかも知れません。

この『木の周りを掘って、肥やしをやってみます』という言葉にも注目させられます。周りは、見た目や結果で判断評価します。がしかし、そうではなく、目に見えない所にまで気を配って、そこに何か原因があれば、そこから改善しようという、優しさ、愛が伝わって来るようです。『悔い改める』と言っても、なかなか正直になれない自分に『木の周りを掘って、肥やしをやってみます』というような、イエス様の言葉かけと眼差しを受ければ、こんな自分も、正しく『悔い改める』事が出来るようになるかも知れません。こんな聖書の箇所が思い起こされました。十字架を目の前にして、いわゆる最後の晩餐が終わった後のある出来事を、聖書は次のように伝えています。ルカ22章31-34節『シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。するとシモンは、主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております、と言った。イエスは言われた。ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう』。

主よ、キリストの教会を通して、あなたの御言葉の愛と眼差しによって、こんな私を正しく悔い改めに導き続けて下さい。

四旬節第4主日

『兄は怒って』ルカ15:11-32

今日の箇所は新共同訳聖書では『放蕩息子のたとえ』という小見出しが付けられてあります。この箇所を含めまして、15章全体は、三つのイエス様による『たとえ』が記されてあります。そしてこの三つには、共通のテーマをもって語られています。その事は、ルカ15章1-3節から示されます。すなわち『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている、と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された』。神様の律法を守ることが出来ていると、自負する律法学者たちは、律法を守ることの出来ない人々に対して、罪人だと断罪していました。そして一切の交わりを禁止していました。罪の汚れを避けるためです。特に食事を共にすることは、仲間であることの大切なしるしです。ですから、そんな罪人と食事を共にするなんて、あり得ないことでした。でもイエス様はそんな罪人と交わり、食事を共にしました。何故そうするのか、その理由を、たとえを用いて知らせようとします。ストレートに理由を言うのではなく、考えさせるためです。聴いた者が、自分こそ何者なのかと、自身を問われる事になるからです。

三つのたとえに共通するテーマは『失ったものを見つけた喜び』です。一つ目のたとえでは、百匹の羊の中の一匹を見失って、それが見つかった。聖書は次のように記します。ルカ15章6-7節『家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください、と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』。見つかった喜びは、何となく分かります。がしかし一方で、少し異質だなとも感じさせられます。友人や隣近所の人々を呼び集めて、一緒に喜んでください、というのは少々、大げさではないかと思うわけです。呼ばれたら、喜ばないわけではありません。まあ歩調を合わせる程度のものになりがちです。更に驚いたことには、羊を人に置き換えて『悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』というのです。これは、いわゆるこの世の価値観からすると、少し異質です。人間の一人、二人より、九十八、九十九の方に重点を置いてしまうのが、この世の論理のようにも思うからです。でも一人、二人に対して『大きな喜びが天にある』というのです。これはもう、いわゆるこの神様の論理は、人間のものを超えていると、言わざるを得ないのでしょう。

二つ目のたとえでは、無くした銀貨が見つかったというものです。ルカ15章9節『そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください、と言うであろう』。ここでは、友人や近所の女たちを呼び集めました。銀貨十枚を、ネックレスのようにしていた、という説もあります。ですから、銀貨一枚の価値も惜しいでしょうし、その一枚が無くなれば、ネックレスにもならなくなります。それでこのたとえでは『女たちを呼び集めて』ということなのかも知れません。それにしても、これまた、友達や近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいという。大げさだなと思うわけです。女性であれば、その喜びは分かるのかも知れません。それにしても、まあここでも周りは、見つけた人の喜び程ではないでしょう。そしてここでも、銀貨が人に置き換えられて、次のように言います。ルカ15章10節『言っておくがこのように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある』。やはりこの喜びは、この世の人間の論理を超えているのです。更にこの人間の論理ではない神の論理では、見つけた当事者だけの喜びではない。周りの人たちも、一緒に喜ぶことが当然のように期待されている。それは言わば、この喜びには、一人も傍観者はいない。みんな当事者だと伝えているようなのです。

そして今日の福音書のたとえです。二人の息子を持つ父親がいる。本来なら財産分けは、父親が死んでから行われるべきものです。ところが弟の方は、父親が生きているのに、財産分けを要求し家を出る。それは言わば、弟の中では、父は死んでいるのも同然となる。そして放蕩の限りを尽くした弟は、生きて行くのに困り、悔い改めて父の家に舞い戻ろうとした。その時の事を聖書は次のように記します。ルカ15章20節『・・ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した』。更に24節『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた』。ここでも父親は、見つかった喜びを、大勢で共有しようとしています。そして、その喜びにも、人知を超えたものを感じます。弟は、確かに反省しているようです。しかし父親は、その反省の言葉を最後まで聞きません。それを遮ぎるようにして、喜びを露わにしている。赦すにしても父親ならば、その前に、もう少し厳しい叱責の言葉があってもよいのではないか。やっぱり、この世の普通の論理を超えている。

更に人知を超える論理と言えば、家に残っていた兄に対する扱いです。畑にいた兄は何も知らされていない間に、弟のために祝宴が開かれている。それを知った『兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた』とあります。この兄の思いは、全くこの世の論理に適ったものです。怒って当然です。せめて弟は、畑にいる兄のところにまず行って、詫びを入れるべきでした。なだめる父親も、その弟の無礼については、一切触れていないようです。むしろ次のように言うのです。ルカ15章32節『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』。死んでしまったかも知れないという、親の気持ちも分からないではありません。でもここでも、少し大げさだなあとも思われます。いわゆる親の反応としては、やはり人知を超えると言わざるを得ないのです。更に、これまでの兄と父との会話ですが、弟への非難は、父の口からは一切出ていないのです。むしろ兄を、戒めるような口ぶりなのです。お前こそ、自分は何者なのかと、よく吟味しなさいと、言わんばかりです。

以上三つのたとえから、見失ったものが見つかったと喜ぶものは、この聖書の父なる神様をたとえているのでしょう。そしてそういう神様の喜びは、ことごとくこの世の論理を超えている。まずもって、徹底的に見つかったことを喜ぶのです。敢えて言えば、この世の論理に無い、人知を超えた赦しと愛が滲み出て来るようです。三つめのたとえの中で、悔い改めて戻って来た弟息子が、まだ遠く離れていたのに、父親の方から走り寄って近づいたとありました。また怒って家に入ろうとしない兄息子に対して、なだめるために、父親の方が家から出て来たとありました。これは、何か人間が神に近づこうとするよりも、父なる神様の方から人に近づいて下さると、聖書は暗示するかのようです。そういえば、この三つのたとえは、まず100匹の羊、そして10枚の銀貨、最後は二人の兄弟という流れです。徐々に数字が小さくなって行く。何か、この人間に私の方から近づくのだ、という神様の意気込みのようなものを、ここからも聖書は、浮き彫りにするかのようです。

人に近づくと言えば、主イエス・キリストこそ、究極の神の近づきです。神が人となったからです。そして十字架の主イエス・キリストは、一人も傍観者はいない、全ての人が当事者であることを指し示します。十字架は、その人が無関係を装ったとしても、全ての人間のための罪の赦しと神の愛が実現される、旗印となるからです。

キリストの教会によって、私たちの思いを超えた、主イエス・キリストの父なる神様の、ご計画と働きに信じます。そして、従ってまいります。