からし種 401号 2022年10月

降臨後第13主日

『キリストの弟子』ルカ14:25-33

 今日の説教題は『キリストの弟子』としました。それは直接的には、キリストの教会で洗礼を受けた、いわゆるキリスト者とかクリスチャンと呼ばれる者たちと考えてもいいでしょう。今日はキリスト者とはいかなるものか。聖書から聞きたいと思います。また同時に、ではこの今の自分は何者なのか、それも考えて見たいと思います。

今日の福音書の冒頭に『大勢の群衆が一緒について来た』とあります。ここはただ、野次馬的に群衆が集まって来たということではないでしょう。むしろ『一緒に』という言葉から、もっと積極的に、それこそ真剣に、イエス様の弟子になりたいと思って、ついて来た人たちも少なからずいたでしょう。そこでイエス様は『振り向いて言われた』。この『振り向いて』というのは、思い付きや、一時的な感情的高ぶりで、弟子になろうなんて思うなよと、戒められているように想像させられます。宗教的指導者であれば、弟子になりたいと志願する者が多ければ、勢力拡大には絶好のチャンスだと、思う場合もあるでしょう。しかしイエス様は、チャンスとは考えておられない。

むしろイエス様は『父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない』とおっしゃられます。『これを憎まないなら』という言葉には、驚かされます。ここに挙げられている者たちは全て家族です。人間にとって家族は、通常は最も大切であり、信頼を置ける者たちでしょう。私事ですが、長野県の実家には今は兄夫婦がいます。父は昨年に、母は六年程前に亡くなりました。何となく両親や兄とは、信仰の話は、正面切ってして来ませんでした。何か家族の前では、与えられた信仰の真実を、説明しても分かってもらえないような気がしたからです。だったら面倒だ、話すのは止めようと思っていたのです。そんな自分を思い返しますと、何だか信仰が、建前になっているなあ、と思えて来る。イエス様は『これを憎まないなら』とおっしゃられる。本当にそうだなあ、と思います。家族を別物のように囲っている自分に対して、神様と家族のどっちが大事なんだと、言われているような気がするからです。それこそ家族を憎む程でなければ、この曖昧な振る舞いは断ち切れないなあと思います。でも憎めるわけがない。ですからイエス様がここでおっしゃられる、自分の命だって、憎めるわけがないのです。

そんな人間だからなんでしょう。イエス様は続けて二つの譬えを話されます。まず一つ目は、塔を建てるに当たって、手持ち資金があるかどうか『まず腰をすえて』計算するでしょうという話です。そうでないと、思わぬ費用がかさんで、途中で建てられなくなったら、恥をかきますよというのです。この譬え話から、こんなふうに考えます。『私はそこまで聖人君子のようにはなれませんので、クリスチャンにはまだ無理です』とか『教会は敷居が高いので、私のようなものでは入り難い』とか、そんな声をしばしば聞くことがあります。それは最初から一気に、理想のクリスチャンにならねばと、考えているからかも知れません。またクリスチャンになっても『クリスチャンなのに、信仰薄いなあ』と思ったり、逆に開き直ったりしてしまう。場合によっては、教会から遠ざかってしまうこともあるでしょう。『腰をすえて』計算するというのは、そんなに着工完成を急ぐな。だから、途中で止めることにならないように、じっくり行きましょうよ、ということなのでしょう。ということは、クリスチャンになった途端に、聖人君子のようになるなんてあり得ないでしょう。クリスチャンとしての完成は、当人が急いで出来るものでもない。出来ることは、途中で止める事態にならないようにする事だけです。相変わらずだめな私という十字架を背負いながら、細々でも、ひたすらキリストの教会につなげられ続ける。そうやって教会のみ言葉に養われながら、時間がかかろうとも、クリスチャンにさせられて行くだけです。

 二つ目の譬え話は戦いの話です。自分と敵の兵力を『まず腰をすえて』考えないで、闇雲に戦いに走るな。不利だと思うなら、もっと柔軟に考えて、早めに和議を求めなさい、という話です。この譬え話からこんなふうに考えます。いわゆる聖戦と称して、神様を振りかざせば、少数でも反対者を屈服させることが出来ると考える。それでたくさんの命が失われて行く。果たしてそれが神様の御心なのだろうか。神様を利用することになってしまうのではないか。また日本の社会でも、たくさんの宗教が存在します。ですからたくさんの神様も存在することになります。いわゆる神様を必要としない、科学万能の価値観もたくさんあります。それらに対しては、キリスト教会は小さな群れです。それでもキリスト教会は、生き残りを図るかのように、排他的独善的な戦いをして行くのか。もちろん世俗に埋没するわけではない。様々な文化、風習、価値観を認めながら、キリストが示して下さる道を問い尋ねて、そこに歩まされて行くのではないか。ですから尋ねた答えを得るには、時間もかかるでしょう。一人で得て行くことも無理かも知れない。だからやっぱり『腰をすえて』考えるように、性急に結果結論を求めない。そして仲間と共に、問い尋ねることを途中で止めないことです。

 今日の第二日課のフィレモンへの手紙は、コロサイ教会の中心人物のフィレモンに向けて、キリスト教会初期の伝道者パウロが書いた手紙です。フィレモンの下にいた奴隷のオネシモが、何らかの不正を働いて逃亡し、多分ローマでパウロと出会ったのでしょう。そこでオネシモはキリスト者になります。しかしパウロはフィレモンの下に帰るようオネシモを促し、執り成しの手紙をこうしてフィレモンに書いたのです。信仰の先輩パウロがその立場を振りかざして、フィレモンにオネシモの扱いを、都合よく命ずることも出来たでしょう。しかしパウロは、社会規範を念頭に置いて、フィレモンの意志を尊重するのです。パウロのこんな執り成しの言葉です。14節『あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです』。このパウロの言葉から、フィレモンに対しても、オネシモに対しても、そして社会に対しても、独善に走らない『愛』を感じさせられます。いわゆる義理人情的『愛』ではない。また、内輪の論理の『愛』でもありません。まさに人知を超えた『キリストから示される愛』です。それを知るには、時間も必要でしょう。パウロだけでなく、フィレモンもオネシモも、キリストの教会によって、問い尋ね続けて行くのでしょう。もちろん彼らはそのために、途中で止めることはなかった。

 今日の福音書の最後にイエス様は『自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない』とおっしゃられました。このイエス様の言葉は、相変わらず自分の持ち物や命に固執する限り、厳しく聞こえてしまいます。そしてまたこれからも、罪を繰り返し、たくさんのものを新たに増し加えて、生きて行こうとする自分を戒められます。しかし一方で、キリストの教会によって、御言葉を通して、腰をすえて計算し考えさせられたい。その度に、キリストの弟子には必要でないものに、気づかされて行きたいのです。『キリストから示される愛』が知らされるために、妨げになるものを気付かされて行きたい。そして『キリストの愛』によって、世界中が共に生かされて行きたいのです。

途中で止めません。主よあなたの弟子としてつなぎ止め続けて下さい。

聖霊降臨後第14主日

『一緒に喜んでください』ルカ15:1-10

 今日のルカ福音書15章は、イエス様による二つの例え話が含まれている所です。しかしこのルカ15章は11節以下にも例え話が語られています。結局、15章全体が三つの例え話で構成されているわけです。そしてこの三つは、いずれもテーマが共通しています。それは『見失われた、捜した、見つけた、共に喜べ』というものです。

 まず一つ目は『見失った羊のたとえ』という小見出しが付けられてあります。その冒頭は『徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た』というのです。ここで興味深いのは、直前のルカ14章35節に『聞く耳のある者は聞きなさい』という、イエス様の言葉がありました。そして、聞きに来た者がいたというのが今日の場面です。『徴税人や罪人』だったというのです。対照的に、正しい人たちと思われていたファリサイ派の人々や律法学者たちは来なかった。来なかったというよりも、イエス様に対して不平を言いだしたと聖書は伝えます。神様の戒めの言葉をまとめた律法を、守っていると自負するのが律法学者。そして、律法を特に重んずる、ユダヤ教の一派をなすのがファリサイ派の人たちです。彼らは、律法を守れない人々を罪人と呼んで、交わりを絶つように勧めていました。徴税人は集める税をごまかすこともあったようです。また集めた税は、異教徒のローマ皇帝に納めるためでした。ですから、罪人の最たる者として徴税人は、聖書にしばしば登場しています。そんな罪人と食事を共にすることは、厳しく禁じられていました。ところがイエス様は

罪人と交わり、食事も一緒にしていたという。不平どころか、反感まで買われていました。この不平を言う正しい人たちに対して、天の父なる神様の御心を、イエス様は例え話を通して伝えようとされるのです。

 百匹の羊を持っている人の、一匹の羊が見失われた。捜し回って見つけたら、友達や近所の人々を呼び集めて、一緒に喜んでくださいと言うだろう、という話です。続けてこの例えの解説もされています。『悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』。『悔い改める必要のない九十九人の正しい人』というのは、強烈な皮肉に聞こえます。正しい人たちと思われていたファリサイ派の人々や律法学者たちへの、当てつけでしょう。『百匹の羊を持っている人』というのは、羊飼いと考えましょうか。聖書の中には、神様やイエス様が羊飼いに譬えられていることがよくあります。しかしルカ福音書が書かれた紀元1世紀頃には、どちらかと言えば、役立たずで盗癖があり、悪事を働く雇われ人という悪評が、羊飼いには一般的であったようです。そんなイメージの悪い羊飼いを、イエス様はここで、天の父なる神様に例えておられることになります。そして羊飼いの神様が、悔い改める一人の罪人を喜び、しかも皆で喜びましょうと言う。正しい者たちにしてみれば、こんな出鱈目な例え話は無いでしょう。もつとも、これを出鱈目と思うかどうかが、大きな分岐点になります。自分はどちら側に立つ者なのでしょうか。罪人側か律法学者側か。問われるのです。

 この例えのもう一つの特徴は、見失われた一匹の羊を、一人の罪人に例えているようです。しかし実際の羊は、非常に道に迷い易い動物だそうです。ですから、羊飼いはしっかり見張って、導かなければならないのです。そんな羊が見失われたら、それは羊の責任にはならないのです。むしろ羊飼いの責任になります。ですから羊飼いは、見失った羊に対して『ごめんね。見失ってしまって。必ず見つけてやるからね』と、そんな思いで必死で捜し回るのでしょう。そして見つけた時の喜びは計り知れない。『ああ、無事で良かった。自分のせいで怖い思いをさせてしまって。もう絶対に見失わないからね』と、自分の不手際を悔いて、謝るのでしょう。そんな思いも、見つけた時の喜びの中に、込められているはずです。周りはもしかしたら『どこかへ勝手に行ってしまったのが悪いんだ』と裁くかも知れない。でもこの例えでは、見失われたものが責められるのではない。あくまでも羊飼いが、自分の責任を重く受け止めるのです。そして、見つけた喜びを周りの者たちにも、一緒に喜びましょうと促すのです。

 見失われたものの責任が問われないのは、二つ目の例え話では、もっとはっきりしています。銀貨十枚を持っていた女性が、無くした一枚の銀貨を必死で捜して、見つかった時に、友達や近所の女たちを呼び集めて、一緒に喜んでくださいと言うだろう、という話です。捜す人は今度は女性です。しかも、昼間でも暗そうな家のようですから、貧しい女性かも知れません。そんな女性がこの例え話では、父なる神様に例えられていることになります。これもこの福音書が書かれた時代にあっては、思いもよらない話の設定でしょう。こうして、あなたは神様にどんなイメージを持っていますかと問われているようです。そしてここでは、銀貨一枚が、自分からどこかに行くはずはありません。ここは完全に、銀貨を所持していたものの、不手際の結果です。女性は必死で捜して、見つかった時の喜びを爆発させました。この事例では、周りが喜びを共有するには、もっと難しいように思います。他人の銀貨一枚が見つかったからと言って、いくら友人でも、一緒に喜べだなんて無理でしょうと思います。このような例え話の設定そのものにも、無理があると言わざるを得ません。せいぜい喜ぶふりをするくらいでしょう。そもそも人の幸せを、自分の幸せのように喜ぶことは、人間には結構ハードルが高いものです。ここは聖書は、むしろそんな人間をよく知った上で、敢えて『一緒に喜んでください』という言葉を、繰り返しているように思われます。そうして、一緒に喜べない自分は何者なのかと、吟味させられるのです。

 繰り返します。今日の聖書から示されるのは、見失われたものの責任とか落ち度は、問われていないのです。むしろ見失った方が責任を感ずるようにして、必死で捜して見つけて、それを大いに喜ぶ。見失われたものも、自分が見失われたものだと思えば、見つけてくれたことを喜ぶのでしょう。しかし周りのものは、喜べと言われても、温度差はあるでしょう。『見つけてもらって、良かったね』位は、思うこともあるでしょう。あるいは『見つかったのは良かったけれど、自業自得だね。自分はそんなへまはしないけど』と、相変わらず冷ややかに、その落ち度を裁くのでしょう。しかし今日聖書が『一緒に喜んで』と言うのは『他人ごとにしないでね。あなたも見失われて、見つけられる当事者になるんだよ』とおつしゃるようなのです。

 自分は父なる神様から、必死で捜してもらわなければならない者なんだろうか。今こうして、神様とは無関係のように生きている。でも、実は見つけられている者なのかも知れない。それに気づいていないだけかも知れない。いつか気づかされる時が来るのかも知れない。気づかされたら、今まで経験したことのない愛にも、気づかされるのかも知れない。『一緒に喜んでください』という思いにも、共感出来るかも知れない。今の自分は、どこに立たされているのだろうか。問われるのです。

 今日の福音書の箇所には含まれていませんが、三つ目の例え話は、いわゆる『放蕩息子のたとえ』として、キリスト教会では有名な箇所です。もらうべき財産を父からもらった弟は、父の家を離れて放蕩の限りを尽くします。結局無一文になって、父の家に帰ろうとした。父はそんな弟息子を遠くから見かけ、走り寄った。そして、その行状を叱ることもなく、弟息子が見つかったことを喜ぶ。そして祝宴を開く。しかしそれを見た兄は、そんな父の振る舞いを批判するのです。例え話はここで終わります。その後の兄と弟はどうなったのだろうか。そんな余韻を残すのです。その余韻によって、今のあなたは兄でしょうか。それとも弟でしょうか。そんな問いも聞こえて来るのです。

 主イエス・キリストの神様は、見失われた者に、その原因を厳しく問われないのです。きっと、そのことはよくご存じなのでしょう。むしろそうさせてしまった事に、責任を負われる方なのです。捜し回って、見つけて下さって、それを喜んで、更にその喜びを一緒に喜んでくださいと言うお方なのです。主の十字架の死と復活がそれを証しするのです。キリストの教会によって絶えず、そんな主イエス・キリストの神様との関係を、問い質されて行きたいのです。

聖霊降臨後第15主日

『友達を作りなさい』ルカ16:1-13

先週はルカ福音書15章からみ言葉に聞きました。このルカ15章はイエス様による三つの例え話で構成されていました。そしてこの三つの例え話ではそれぞれ共通して、父なる神様はどのようなお方なのかが、示されていました。父なる神様は、罪を犯した人間を、問い詰めるようには裁かない。むしろ罪を犯させてしまったのは、自分の責任だと言わんばかりに、一人でも悔い改める者を、無条件で迎えて下さるお方だ。十字架の主がそれを証しする。そして一人の悔い改める者のために、他の皆も一緒に喜んで下さいと言われるお方だということでした。続いて今日の福音書の16章1-13節も『不正な管理人のたとえ』という小見出しが付けられてあります。金持ちの主人とその下にいた管理人とのやり取りの例え話です。15章からの続き具合を考えますと、ここでも主人が父なる神様に、管理人が人間に例えられているとします。この例え話から示される、神様のこと、人間のことを、考えてみたいと思います。

まず冒頭です。ルカ16章1節『ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった』とあります。ルカ福音書にはしばしば『金持ち』が登場します。大方、批判的に描かれています。冒頭でこの例え話に出て来る主人を、父なる神様に例えると申し上げました。その主人が金持ちですから、いつものルカ福音書に倣いますと、神様に例えるには相応しくないようにも思います。皮肉が込められているのかなとも考えます。そして管理人が財産を無駄使いしているとの、告げ口があったという。財産を無駄使いと言えば、ルカ15章の三つ目の例え話の『放蕩息子』が思い出されます。自分が貰う分のお父さんの財産を、早々にもらい受けて、家を出て『放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった』(ルカ15:13)とあります。結局お金には限りがあり、頼りにするには限界があったということです。お父さんと金持ちの主人、弟息子と管理人が重なります。今日の例え話でも、お金と人間との絡みから、話が展開されます。お金はどこまで信頼出来るものなのか。ここでも問われます。興味深いのは『告げ口をする者があった』というのです。正論を振りかざして、正しい自分に陶酔するという、よくある話です。この後の『不正にまみれた富で友達を作りなさい』とか、訳の分からない例え話を聞いたファリサイ派の人々が、イエス様をあざ笑ったと、今日の福音書のすぐ後、ルカ16章14節に記されてあります。そんな人々に対してイエス様は言いました。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである』。まさに告げ口をするのは、こんな人たちなんだなあと示されます。同時に他人ごとでは無いと思います。

さて、告げ口によって主人に呼び出された管理人は、解雇されるかも知れないと思って、今後のことをあれこれと画策します。力仕事はだめだし、物乞いするのも恥ずかしい。独り言かも知れませんが、随分と正直に自分をさらけ出しているなあと、むしろホッとさせられてしまいます。そして下した結論に注目させられます。『自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』。管理人ですから、手っ取り早く、頼りになる軍資金を、工面出来たのではないかと思います。ところが頼りにするのは友達を作ることだと言う。そのために、主人に借りのある人たちを呼び集めて、それぞれの借り証文を書き直して、減免したのです。果たして思惑通り、減免された人たちが恩を感じて、友達になってくれるだろうか。全員ではないにしても、何人かはいるかも知れない。それだって、確かなことではない。しかも主人に対しての借りであって、管理人に対しての借りではない。今後の予想される筋書きには、不確かなことだらけだ。こんなやり方の管理人を『抜け目のないやり方』だと、主人はほめたと言う。一体、どこをもって『抜け目のない』と言うのだろうか。

いきなり、大金を持ち逃げしなかったのには、少しは良心もあったのだろうか。彼はいずれにしても、主人に仕えながら、その振る舞いに接し続けて、優しい主人だから出来る、豊かな人間関係を見て取ったのではないだろうか。だからその優しさに乗じて、つい、財産を無駄使いしてしまったのではないか。主人はお金持ちです。がしかし、それを笠に着て、困っている人々を、見下すことはなかった。むしろ積極的に求めに応じて、必要なもの貸し与えていたのではないか。借りた者は貸した者に対して、普通は負い目を感ずるものです。しかしこの主人の場合は違う。生活する上では、お金は必要です。主人はお金を独り占めしない。他者のためにもお金を使うような人だったのではないか。ですから、これまでも貸した人の負債を、しばしば減免していたのではないか。そんな主人を人々は慕っていた。そういう主人の姿を見ていたので、彼もそんな日ごろの主人の振る舞いに便乗しようと思った。それで勝手に、人々の負債を減免したのではないだろうか。そうやって自分も、豊かな人間関係が築けると思ったのではないだろうか。聖書では負債のことを罪に例えることがあります。今日の管理人の振る舞いを思い巡らしてみて、主の祈りが思い出されました。主の祈りの原型が、ルカ11章に記されてあります。その4節は次のように言います。『わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を、皆赦しますから』。この管理人は主人の負い目に便乗しています。それでも、負い目を赦し、わたしの罪も赦してくださいと、願っていることになるのだろうか。姑息だと言われそうですが、主人はそれを『抜け目のないやり方』だと見て取ったのではないだろうか。とにかくこの主人は、褒めてくれた。たとえ99%が不正であっても、1%が正しいのであれば、それを褒めて下さるお方なのだ。

ルカ15章の中に『悔い改める必要のない九十九人』とありました。この一連のイエス様の例え話には、たくさんの皮肉が込められているように感じます。今日の箇所でも、冒頭の『金持ちの主人』という設定がそうでした。そして8節『この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている』とあります。『この世の子ら』というのは、批判的に世俗を言い表すように、聖書では用いられています。一方『光の子ら』は『信仰者』を指すように使われています。ところが今日の例えでは『この世の子ら』の方が『光の子ら』よりも賢いと言うのです。なんとも痛烈な皮肉です。この例えの中では『この世の子ら』とは『土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい』と言える、ありのままの自分をさらけ出し、不正なお金を使ってでも、独り占めしないで、友達作りに用いる者です。『光の子ら』とは、ファリサイ派のように、自分の正しさを見せびらかして、人間関係を断ち切るように、人を裁く者です。お金は必要ですが、使い方がある。そして、いずれは無くなるもので、永遠ではない。だからイエス様は言います。『不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる』。この『永遠の住まい』とは、信徒の群れなるキリストの教会だと示されます。

毎週水曜日夜の聖書研究会では、先週から遠藤周作さんが書かれた『私にとって神とは』という本をテキストに、皆で感想を出し合っています。遠藤さんにとっての神とは、次のように書かれています。『神はいつも、だれか人を通してか何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ』。私もこの遠藤さんの捉え方に共感します。神様は必要な時に必要な人を送って下さり、出来事に出会わせて下さる。そしてまたこんな自分も、自分を必要としてくれる、まだ見ぬ人との出会いに用いられて行く。働く神様ですから、どんなに小さなところでも、そこに働く神様との出会いがある。そう言えば、あの小さな飼い葉桶に、救い主イエス・キリストの神様との出会いが果たされていた。だからイエス様はまたここでおっしゃられます。『ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である』。

お金は必要です。でも、いつかは無くなる。決して無くならないものは神様のみです。お金は、神様の下に置かれるものであって、並び得るものではない。神様は、人を通して働かれます。所詮、私たちに出来ることは小さなことです。キリストの教会によって、この世の小さな事に忠実に与って行こうではありませんか。

聖霊降臨後第16主日

『モーセと預言者に耳を』ルカ16:19-31

ここのところ二週間に渡って、イエス様によります例え話を、ルカ福音書から聞いて来ております。今日の箇所も、一つの例え話のようです。例え話によってイエス様は、父なる神様がどのようなお方であるのか、そしてその神様に向き合う人間は、どんな状態にあるのか、よく吟味するように促されます。ルカ15章の例え話から、次のように示されました。父なる神様は、罪を犯した人間を『だから言わんこっちゃない。何をしているんだお前は』とは裁かない。むしろそんな風に罪を犯させてしまったのは、自分の責任だと言わんばかりなのです。そして悔い改める者を、無条件で赦し迎えて下さる。更には悔い改める者のために、他の皆も一緒に喜んで下さいと言われるお方だということでした。先週のルカ16章の箇所からは、次のように示されました。100%正しく生きているかのように、振る舞う人間がいるかも知れない。しかしそれは、この世ではあり得ない。所詮、人間のこの世での生き方には、不正は完全には避けられないのではないか。それでもたとえ一つでも、正しいことがあれば、神様はそれを褒められる。その正しいこととは、人間関係が豊かにされることだ。そして、財産も賜物も独り占めにはしない。そんな人間たちの中に、神様は働いて下さるからです。これはまさにキリストの教会を指し示しているのではないのか。

今日の福音書のすぐ前の所で、イエス様の例え話を聞いた者が、イエス様をあざ笑ったとあります。イエス様の話が、あたかも不正を称賛するかのように聞こえたようです。それで正しい自分だと思っている者たちには、ばかげた話だと思った。ここで言われる正しい自分だと思っている者たちとは、神様の戒めである律法を、きっちり守っていると自負する者たちのことです。それは確かに表面的には、その通りだったのでしょう。しかしイエス様はルカ16章15節で次のように言います。『あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである』。どんなふうに、その心をご存じなのか。それは、律法を守り、善き信仰生活を送っているようだが、それ故に、自分の力を誇ってしまっているのだ。だから形は神様に信じていると言いながら、内実は自分の力を第一としている。財産に執着することも、それを証ししていると言うのです。ルカ16章16節では『だれもが力づくでそこに入ろうとしている』と、聖書も記しています。まさに自分の力を誇っていることを指摘します。更に律 法の守り方にも問題があると見ています。律法を守るために、予防線のようなものを張っていると言うのです。ルカ16章18節では、妻を離縁する事を話題にしています。旧約聖書の申命記24章1節以下を念頭に置いた言葉です。合法的に離縁する方法が記されてあります。現実の社会生活には、必要なことかも知れません。しかし人間を創造された時の神様の原則に立ち返れば『神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない』(マタイ19:6)と、人間の過剰なまでの自由な振る舞いを戒めるのです。そのように内実を問えば、結局あなたがたは、人間中心の信仰生活を送っていると言うわけです。

そこでイエス様は今日も、そんな人間中心の信仰の在り様を、例え話をもって私たちに問いかけるのです。『金持ちとラザロ』という小見出しが付けられてあります。ここでは金持ちは、批判的に描かれています。しかし金持ちにして見れば、財産は神様からの祝福のしるしです。一方それが無い人間は、祝福されていないと考えます。今日の福音書の冒頭では、まさに祝福された者とそうでない者だと思われる状況が描かれています。でも祝福されているかいないかは結局、神様がお決めになることです。しばしば人間は、神様に取って替わって、祝福の有無を勝手に決めてしまうものです。金持ちと貧しいラザロは、それぞれ死にます。死は、それこそ人間の力では、絶対にコントロール出来ないものです。聖書はそのことを、二人の死の話題から、指し示すのです。ちなみにここの『ラザロ』という名前は『神が助けて下さる』という意味です。まさに彼は今、神に助けられているのです。裏を返せば、彼は徹底的に無力なのです。しかし金持ちは、そうではなかった。自分の言わば信仰の熱心さや行いが、救いのための力にもなると、思い続けて来た。しかしそうではなかった。

ルカ16章23節『そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた』。アブラハムとは旧約聖書に登場する、ユダヤ人たちが信仰の父と慕う人物です。自分はこんな所にいるというのに、何であんなラザロがアブラハムと共にいるんだ、と思ったことでしょう。だからラザロをここに寄こして、自分をケアするようにしてくれ、と言うわけです。これだって、金持ちが指図出来る事ではありません。彼はこの期に及んでも、自分という人間主体で物事を考えてしまっているのです。続けて聖書は訴えます。人間は見た目や持っているもので、人を偏り見てしまうものです。しかし神様は、決して人を偏り見ない。生まれる前から死んだ後も、徹頭徹尾、平等になるように扱うのが神様だと言うのです。

そこで金持ちは、自分のことは観念したのでしょうか。せめてまだ地上にいる兄弟だけは、こんな所に来ないようにしてくれと願います。そのためにラザロを遣わしてくれと、ここでもまた自分の思いを押し付けます。兄弟の事に思いを寄せたのは、少しはましになったのでしょうか。しかしそれでも彼の人間関係には限界があった。何でラザロをまた、引き出そうとするのでしょうか。『死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう』と言っているのに、ラザロをまた指名している。ラザロなら、自分の思うままに動かすことが出来ると思うのだろうか。それとも他に思い当たる人間がいなかったのだろうか。

そんな金持ちに対して、例えの中でアブラハムは、兄弟たちは『モーセと預言者』に耳を傾けるはずだと、繰り返し伝えます。『モーセと預言者』とは、今で言えば旧約聖書のことです。この一連の金持ちとアブラハムとのやり取りを通して、金持ちの、聖書に対する姿勢が伺われます。聖書を通して悔い改めさせられながら、人間の中に、救いへと導かれる力が働くとは、到底考えられない。所詮、見えないものではなく、見えるものを頼りにして来たからです。彼にとっての聖書はせいぜい、自分の正しさや信仰の熱心さを、正当化させる道具に過ぎなかったのです。

最期のアブラハムの言葉が印象的です。ルカ16章31節『もし、モーセと預言者に耳を傾けないなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』。死んだはずの者が目の前に現れて、死んだ後の事を細かく教えてくれる。そして、生きている間に何をしたら良いのか、教えてくれる。そうだとしたら、死ぬ準備も安心して出来るような気もします。しかし一方で、それもまた何だか人間的な理屈に、結局、乗っかってしまうような気もします。絶えず聖書の言葉に耳を傾け、祈りつつ悪戦苦闘し続けるから、どんな出来事も神様の導きの下にあるのだと、示されて行くのではないか。『たとえ死者の中から生き返る者があっても』と言えば、復活の主イエス・キリストが思い起こされます。人間の理屈では、主の復活は説明し難いことです。だからこそ、聖書の言葉に耳を傾け続けて行きたいのです。

今日の例え話も、この後、金持ちとその兄弟たちは、どうなって行くのかなあと、余韻を残すように終わっています。例えの中で、もう一つ注目させられる言葉がありました。ルカ16章26節『そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない』。人間であるアブラハムには、この淵を行ったり来たりすることは出来ないという。では、人間以上のお方なら、それが出来るのではないか。そのお方こそ、ご復活の主イエス・キリストなのだ。主イエス・キリストが、あの大きな淵の架け橋になって下さるのだ。

キリストの教会によって、これからも聖書の言葉に、耳を傾けてまいります。