からし種 404号 2023年1月

待降節第2主日

『悔い改めよ』マタイ3:1-12

待降節に入りまして二回目の主日です。先週も申し上げましたが、救い主の到来を待つ期節ということです。その救い主はイエス様ですが、イエス様の誕生をお祝いするクリスマスは、救い主の第一の到来になります。そして、今やキリスト教会は、イエス様が再び来られると約束された第二の到来、いわゆるキリスト再臨を待っているものです。今日も『待つ』ということについて、聖書に聞いてまいります。

まず先週の箇所を振り返ります。先週の福音書は、マタイ24章36節以下からでした。その中で、創世記6章以下の『ノアの物語』に言及されていました。大洪水があるからと、ノアは箱舟を造るように神様から命じられます。ノアの家族が箱舟に入り、大洪水が起こる時まで、世の人々は普通の生活をして、何も気が付かなかった。キリストの再臨もこれと同じようだから、目を覚ましていなさい、準備をしていないさい、ということでした。

改めて『ノアの物語』を、もう少し概観します。『ノアは神に従う無垢な人であった』。また五百歳で三人の息子が与えられていました。その頃の世の中は、神の前に腐敗と暴虐に満ちていた。とうとう神様は思い余って『わたしは洪水を起こして、地もろとも彼らを滅ぼす』とノアに告げます。続けて箱舟を作れと言われた。その大きさは、長さ135m、幅22.5m、高さ13.5mで、その構造は三階建てだと言う。ちなみに、この戸塚ルーテル教会の建物は、長さ35m、幅25m、高さ9.5m程の三階建てです。そしてノアと契約を立てて、妻子や嫁たちは箱舟に入るから、滅ぼされることはないと言われた。更にすべて命あるもの、肉なるものを、雄と雌とのつがいにして、箱舟に入れよと言われた。ノアは黙って、もくもくと、言われたようにするのです。

ノアと何人かの家族で箱舟を建造するにしても、大変な労力と日数が掛かるはずです。建築士の内田さんに、完成するのに、どれぐらいかかりますかとお聞きしたら、半世紀と言われました。聖書では、ノアが六百歳の時に洪水が起こったと記されてあります。五百歳で三人の息子が与えられたと、記されてありますから、それから間もなく箱舟建造に取り掛かったとして、完成までに百年程が掛かったと言う計算になります。コツコツと毎日、目の前のしなければならないことを、1mmでも進めて行くのがノアなんでしょう。世の人々は、いわゆる今の快適・効率・便利の世界を享受します。ノアを見て、今そんなものを造って、何の役に立つんだ、と思う人々もいたことでしょう。また一方で、その百年の間には、ノアの姿から、まさに悔い改めへと導かれて行く人々もいたことでしょう。いずれにしてもノアは、何年先かも分からないような、それでも将来起こされるという神の言葉に信じて、言わば不快適・非効率・不便の世界を生きるのです。そして言葉どおりに洪水は起こされて、箱舟のノアたちは助かります。聖書によりますと、六百一歳の時に水が引いて、外に出るように言われたようです。箱舟の中には1年間入っていたことになります。救われる1年間ですが、その救いは、いわゆる人間が思い描くような、バラ色の救いではないかのように思えます。箱舟の中の状況は、たくさんの生き物も一緒です。餌もあげなければなりません。大変な重労働でしょう。食べれば、生き物ならば糞尿を出します。その臭いも充満するでしょう。またあちこちで、たくさんの鳴き声も上げられる。まさに騒音状態です。どこにも逃げ出せない。よく耐えられるなあと思います。しかしここが生きる場なのです。そこがノアたちにとっての、救いの始まりなのです。様々な困難を伴うその始まりの中で、ノアたちはもう一度、苦難の中に置かれて、整えられて行くかのようです。これらノアの姿から、今やキリストの教会が、再臨のイエス様を待つ、その生き方を投影するようなのです。

そして今日のマタイ福音書は、洗礼者ヨハネが記されてあります。彼は後から来られるイエス様の登場を、前触れする者だと言われます。このヨハネの生き方もまた、今やキリストの教会を投影するようです。ヨハネは『らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた』ということです。これは昔の預言者エリヤの姿とだぶります(列王記下1:8)。当時のイスラエルにあっては、久しく預言者らしい預言者が登場して来なかった頃のことです。そんな時に、まさにエリヤの再来を思わせるようなヨハネが登場した。人々の中には、そんなヨハネに動かされて、彼の下に集まって来も者もいた。しかしもちろん人々の中には、そんな時代遅れのような姿のヨハネに、もはや何の魅力も感じないこともあったでしょう。しかも、『悔い改めよ』だなんて、それこそ場違いも甚だしい。特に若者たちにして見れば、当時のイスラエルはローマの植民地化とは言え、快適・効率・便利の、進んだローマの文化に、魅了されていたでしょう。今更『悔い改め』だなんて、そんな古臭いことを言っている時代ではないでしょう、ということです。

それだけに、むしろヨハネの下に集まって来る人たちは、貴重な存在とも言えるでしょう。大事に扱いたいと思うものです。特に、ユダヤ教の有力者である、サドカイ派やファリサイ派の人たちも集って来ているわけですから、なおさらでしょう。ヨハネさえその気になれば、いわゆるヨハネ教の教祖にだって、なれるような状況なのです。ところがヨハネは、そんな有力者たちにも媚びない。それどころか、返って厳しい裁きの言葉を投げかけるのです。彼は、徹底的に自分の栄光を追い求めず『荒れ野で叫ぶ者の声』に徹するのです。そんなヨハネが前触れし、待っているお方のことを次のように宣べ伝えています。『その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。この聖霊と火による洗礼からは、あのノアたちが、救われているとはいえ箱舟の中で、相変わらず様々な困難の中に置かれていた姿を思い起こさせられます。そうしてヨハネが指し示す、来るべきお方は、厳しいとも思えるお方です。しかしもしかしたら、ヨハネ自身の思い込みによって、勝手に思い描いてしまっているお方かも知れない。そのことをもヨハネは、絶えず自己吟味し続けなければなりません。ちょうど来週に与えられている、マタイ福音書11章2節以下には、そんな自己吟味のヨハネの姿が記されてあります。

聖書が教える、ノアやバプテスマのヨハネの生き方から、キリストの教会が映し出されます。来るべきお方が正しく指し示されますように、そして、相応しく待つことが出来ますように、私たちキリストの教会の生き方を強め支え導いて下さい。

待降節第3主日

『来るべき方は』マタイ11:2-11

今日のマタイ福音書の場面は、バプテスマのヨハネが自分の弟子たちをイエス様の下に送って、イエス様の正体を確認させているところです。このヨハネが何者かについては、先週のマタイ福音書3章から聞きました。救い主のイエス様の登場を、前触れする預言者だということでした。その前触れの言葉は、次の通りでした。ヨハネ3章8,10-12『悔い改めにふさわしい実を結べ。・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。・・そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる』。厳しい裁きが強調されているようです。

当時のイスラエルの状況は、ローマ帝国の植民地下にありました。政治的には圧政に苦しむこともあったでしょう。ですから、政治的解放者としての救い主を、待ち望むのでしょう。しかしここで、ヨハネが特に問題としているのは、政治的腐敗や宗教的堕落を産み出す、人々の信仰の在り様だったのではないか。植民地下とはいえ、進んだローマ・ギリシアの文化の影響は、むしろ人々に快適な生活をもたらしていたとも考えられます。ですから、いわゆる聖書の、古臭いとも思える律法規定が、窮屈に感ずるようになって行った。あるいは、あまりにも待たされ続けている、救い主の到来が、もはや現実的でないようにも思ってしまう程だ。現状に満足することで、むしろローマの権力者に媚びる勢力も生まれていた。ユダヤ教の祭司階級を成すサドカイ派は、その典型でした。

実際の人々の在り様を推測させる、聖書箇所があります。このバプテスマのヨハネが登場する場面は、ルカ福音書にも記されてあります。その中で、悔い改めの実を結ぶように迫るヨハネに対して、人々が、具体的に何をしたら良いのか、尋ねているところがあります。ルカ3章10-14節『そこで群衆は、では、わたしたちはどうすればよいのですか、と尋ねた。ヨハネは、下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ、と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、先生、わたしたちはどうすればよいのですか、と言った。ヨハネは、規定以上のものを取り立てるな、と言った。兵士も、このわたしたちはどうすればよいのですか、と尋ねた。ヨハネは、だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ、と言った』。ヨハネは、特別に何か難しい事をしなさい、と言っているわけではないようです。ちょっと、自分のことばかりを考えずに、人助けの思いが、少しでもよぎれば、出来ることばかりです。しかしそれが出来ないような状況が、人間たちのうちに産まれていた。

ヨハネの下には、サドカイ派やファリサイ派という、ユダヤ教の主だった人々も集まって来たようです。ファリサイ派の人々については、イエス様がマタイ福音書の後の方で、その偽善的振る舞いを批判して、次のように言っています。マタイ23章2-5節『律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである』。何か耳の痛い、他人ごとでは無いようにも思えて来ます。これはヨハネも同じ問題意識を持っていたと思われます。だから、冒頭で引用したように、ヨハネは悔い改めを迫り、厳しい裁きの言葉を投げかけるのです。そしてイエス様が、厳しくその裁きを実行して下さると、人々に宣べ伝えていたのです。しかしここに、ヨハネの勝手な思い込みも、あったのかも知れません。

今日のマタイ福音書11章では、イエス様に対するヨハネの疑問が、沸き起こったことを伝えるのです。それは自分が指し示したイエス様が、厳しく人々を裁くイメージとは違うように思ったようです。『キリストのなさったことを聞いて、・・来るべき方は、あなたでしょうか』と、弟子たちに尋ねさせたということです。『キリストのなさったこと』とは何か。このマタイ11章に至るまでの、イエス様の行動を見てみます。まず四人の弟子を召し出しています。更に結局、十二人の弟子を選んだと記されてあります。また、多くの人々の病気を癒したことも、記されてあります。それから『山上の説教』と呼ばれているものがあるように、繰り返し『教える』イエス様が描かれています。これらの行為については、イエス様ご自身も、同じように答えられています。マタイ11章4節『イエスはお答えになった。行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』。何かヨハネが言う『差し迫った神の怒り』という緊迫感が、このイエス様の行為からは、伝わってこないようです。だからヨハネも、疑問を覚えたのでしょうか。

 ヨハネの宣教の第一声は、マタイ3章2節『悔い改めよ。天の国は近づいた』でした。そしてイエス様の宣教の第一声は、マタイ4章17節『悔い改めよ。天の国は近づいた』なのです。全く同じなのです。しかしヨハネのその第一声に込められる、究極の意図は『裁き』なんでしょう。ところが、イエス様の第一声に込められる究極の意図は、癒しと教えと、弟子たちの存在です。そしてその向こうに『赦し』があるのです。今日の福音書の中で、イエス様はヨハネのことを、マタイ11章11節『およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった』と言っています。人間の中の最高の人間だという。それは同時に、人間の究極の限界を指し示すものです。人間は、どこまで行っても、最後は他者を裁いてしまうものだと聞こえます。ところがイエス様は、ご自身のことを、続けて次のように言います。『しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である』。人間的限界を、超えるものだとおっしゃられるようです。そう言えば、イエス様の究極の赦しのお姿は、あの十字架上で示されます。ルカ福音書から聞きます。ルカ23章34節『そのとき、イエスは言われた。父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』。ご自身を裁く人間たちのために、赦しを願い出ているのです。人間の限界を超えるイエス様のお姿です。

 今日の第二日課のヤコブ5章では『兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい』と言います。一方、丁度先週8日の聖書日課の、第二ペトロ3章9節は次のように言います。『ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです』。誰が誰を待つのか『待つ』ということに対しても、もしかしたら勝手な思い込みがあるのかも知れません。

 私たち人間の限界を超えて下さる、救い主イエス・キリストを、思い込みを捨てて、相応しくお迎えすることが出来ますように、キリストの教会によって、こんな私たちを整え導いて下さい。

待降節第4主日

『神は我々と共に』マタイ1:18-25

今日のマタイ福音書は、いわゆるヨセフ版の受胎告知の場面です。『母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった』ということです。当時のユダヤの男性の結婚適齢期は、18歳~24歳だそうです。女性は13歳前後だったようです。そして、結婚に至るまでには、三段階があったようです。まず配偶者の決定は、ほとんどの場合親によって、子供の時に取り決められました。そして、一年間の正式の婚約期間に入る前には、婚約者二人の同意が確認されます。一年間の正式婚約期間を経て、結婚式が行われたそうです。律法によれば、この婚約は、結婚の状態とほとんど等しい権利を、婚約者に認めていました。また同じ義務を課したということです。例えば女性側には、離縁状無しには、離縁されることは無かったということです。ただしこの婚約期間は、二人が同居することは有りませんでした。女性は父親の下で、一年間の婚約期間を過ごしました。何のための婚約期間なのかは、しっかりとは調べたわけではありませんが、婚約するには、いわゆる結納金を女性側に支払わなければなりませんでした。原則、それが完済されて初めて、婚約が成立するわけです。お金の場合には分割払いもあったようです。また労働奉仕で振り替える場合もあったようです。ですから、労働の場合には、婚約期間が五年間になるケースもあったようです。そんな調整の一年間だったと思われます。

いずれにしても、二人は同居はしないけれども、結婚状態と同じ権利と義務が発生していた。そんな中で、女性側が身ごもるということは、姦淫の罪として、石打の死刑に処せられることになります。『聖霊によって身ごもっていることが明らかになった』ということです。聖書の文面からすると、マリアがヨセフに打ち明けて、二人だけの間で『明らかになった』ということでしょう。そこでヨセフはどうしたか。『正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した』ということです。ここで『正しい人』というのは、いわゆる『正義の味方』ということではないようです。聖書に示される律法規定に、忠実に生きようとしている人、ということです。平たく言えば、コチコチの堅物ということでしょうか。『表ざたにする』というのは、結婚状態と等しい婚約中に、マリアは姦通の罪を犯したと、律法に従ってヨセフは、訴えることも出来ます。そうやって律法を守る、正しい人間であることを、選択することも出来たでしょう。しかし、婚約する程の中だったマリアが、そんな目に遭うことは、望まなかったのでしょう。密かに離縁して、婚約中ではない、普通の生活状態の中で、例えば強姦されたということになれば、むしろマリアは裁かれることは無い。もちろん、女性としての尊厳は傷つくでしょう。しかしヨセフとしては、そうすれば、マリアに関しての自分の責任は問われることはない。あるいは、妊娠の相手がヨセフだったとすれば、マリアは罪には問われないだろう。しかし、婚約期間中に、してはいけないことを、ヨセフもしたことになる。それは、正しいヨセフとしては、許せないことになる。そうやっていずれにしても、正しい人間でいられるように、あれこれと算段していたのではないか。

『このように考えている』とは、今、私が申し上げたように、様々な可能性の選択と決断を、算段して考えていたのでしょう。それはもちろん、嬉しいことではない。むしろ苦しい選択と決断を強いられることになる。恐らくヨセフは、苦しみ悩みつつ、お祈りしたのでしょう。そこに『主の天使が夢に現れて言った』。その天使の言葉が、ヨセフにとっての、受胎告知となった。それは次のような聖書の言葉が、実現するためだという。マタイ1章23節『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、神は我々と共におられる、という意味である』。『神は我々と共におられる』とは、今や私たちは、どんなふうに受け留めたら良いのだろうか。マタイ18章20節には『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』とあります。マタイ26章26節以下では、いわゆる最後の晩餐の場面ですが、イエス様の言葉と結び付いた、パンとぶどう酒によって、イエス様の体と血をいただくことが語られています。更に、ちょうどこれは、今日の午後の教会学校クリスマス会の中で、トルストイの『靴屋のマルチン』の朗読劇が行われます。これの原典になった、マタイ25章40節以下では、イエス様が次のように語られています。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』。

いずれも今や、キリストの教会を通して、イエス様が共におられると、信じる事が出来ると、聖書から示されるのです。また、礼拝から押し出されて、具体的な生活の中で、様々な出会いや出来事に毎日直面します。そこで選択や決断をして行きます。楽しいことばかりではない。苦しいことや悲しいこともあります。どうやってこの事態を受け入れて行くのか、悩み祈ります。今日のヨセフがそうです。苦しみの中で、悩み祈っている時に、天使の言葉が臨んだ。まさに神はここに、ヨセフと共におられるのです。そんなヨセフの姿は、この後もマタイ福音書は伝えています。1月1日の降誕節第二主日に与えられている個所です。マタイ2章13節以下です。乳飲み子のイエス様を抱えて、ヨセフとマリアは家畜小屋から、ナザレの家に帰ろうと思った。しかしヘロデ王の幼児虐殺という、歴史的大事件に遭遇してしまった。ここにいてはこの子が危ない。エジプトまで逃げれば、命は守られるだろう。しかし身寄りもない、そんな外国で、どうやって生活するのだろう。いっその事、この子は殺された方がいいのではないか。受胎告知によって、あの嫌な思いを抱えたまま、この子の成長を見ないで済むならその方がいい。しかしマリアは悲しむだろう。悩み祈り、ヨセフは選択と決断を迫られた。そしてそこに、主の天使の言葉が、夢で臨むのだ。そうやって主なる神は、ヨセフと共にいて下さる。そんなことがエジプトに行っても続く。苦難と悩みと祈りの中にセットで、主なる神様が共におられる。そんなヨセフの姿が、三回にわたって描かれているいるのです。

またもう一つ、次の聖書の箇所が思い起こされます。ちなみに7月9日の福音書の箇所になります。マタイ11章28-30節『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである』。軛や重荷を取り除くとはおっしゃられない。今まで負っていた軛や重荷と、イエス様の軛や重荷と交換すると言うのでしょうか。今まで私は、軛は辛いものだと思っていた。それが、そうではないと思うように、変えて下さるのかも知れない。あるいは重荷は重くて、取り除いてほしいと思っていたのに、軽くするようにして、むしろ必要な荷物にして下さるということかも知れない。だから『わたしに学びなさい』と、おっしゃられるのかも知れません。

キリストの教会によって、主イエス・キリストの神様が、私の思いを超えて、共にいて下さることに信じます。

聖降誕日前夜

『乳飲み子』ルカ2:8-20

救い主のイエス様が、乳飲み子として、マリアから産まれる。そして夫ヨセフと共に、その乳飲み子を育て上げる。改めて、この事態は畏れ多いことだと考えさせられます。マリアとヨセフが一生懸命養い育ててくれるから、イエス様は死なずに、大人になれた。早々に育児放棄をされたら、乳飲み子のイエス様は、死んでしまっていただろう。あるいは当時の医療事情からすれば、乳飲み子が大人にまで成長できる確率は、現代よりも遥かに低かったはずです。それらのことを考えますと、父なる神様は余程このマリアとヨセフのことを信じて、愛していたのかなあと思います。そしてまた当時の医療事情も含めて、乳飲み子には危険な事が一杯ある。そんな社会全体にも信頼を置いていたのかなあとも思います。地球の片隅の小さな村に生きる、二人の小さな人間に、神様はまず信じて愛して下さっている。ここから、人間全体を信じて愛するという、計り知れないイエス様の神業の、大きな出来事が始まるのです。

このように小さなことから始まると言えば、野宿をしながら夜通し羊の番をしていた羊飼いたちのことも、同じようです。まず、小さなものに目を向けさせる出来事のように思います。羊飼いたちに告げられた、天使の言葉に注目させられます。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである』。『民全体に与えられる大きな喜びを告げる』と言っています。しかしこの後『あなたがた』と言う言葉が、三回も使われています。この『あなたがた』は羊飼いたちのことです。ですからここでは『民全体に与えられる大きな喜びを告げる』としながらも、あなたがた、羊飼いたちのために、救い主がお生まれになった、と言うのです。そして、あなたがた、羊飼いたちは、飼い葉桶の中の乳飲み子を見つけると言われる。更にその乳飲み子は、あなたがた、羊飼いたちのために生まれた、救い主の証拠だと言うのです。民全体に与えられる大きな喜びは、まず、誰にも知られていないような、小さな羊飼いたちに示される。実際に彼らは、乳飲み子を探し当てた後、神をあがめ、讃美しながら帰って行ったのです。ですから、小さな小さな羊飼いたちがまず、天使の言った通りに、喜びに包まれたのです。

そしてそれは、もしかしたら、羊飼いたちだから知る事の出来た喜びかも知れません。小さな羊飼いたちだったから、救い主との出会いが果たされたのかも知れません。羊飼いたちは毎日、羊と過ごし、言わば動物の臭いにまみれていた。飼い葉桶は、同じ動物の臭いにまみれている。そこに眠る乳飲み子また、動物の臭いにまみれていたでしょう。それが羊飼いたちにとっての、紛れもない救い主の証拠になった。そんなふうに救い主は、小さな一人一人に相応しく、寄り添う。そして、現わされて行く。それが『民全体に与えられる大きな喜び』が告げられて行く始まりとなる。

そう言えば聖書は、ことある毎に、小さなものに、あるいは余りにも当たり前過ぎて、見過ごしてしまいそうなものにも、目を向けるようにと促します。今日のルカ福音書の中に、いくつか小さなものに言及されている個所があります。その中で印象深いものを紹介します。9章48節『わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。・・あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』。子どもという小さなものが、あたかも真理に導くかのような、イエス様の言葉です。この教会には附属幼稚園があります。私も毎日、小さな子どもたちから、励まされ、時に戒められています。ちょうど今週の20日の火曜日で、第二学期の活動が終了しました。その前日の19日月曜日に、みんなで大掃除をしました。私も今回は、年長さんと、年中さんに混じって、ぷれいるーむの掃除をしました。驚かされました。子どもたちは嬉々として、掃除を楽しんでいるふうなのです。掃除と言えば、面倒でいやなものと、私なんか思っています。彼らは喜んでいるふうなのです。改めて子どもたちを通して、感謝と喜びを思い起こさせられました。まさに『あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である』。

それからもう一か所を紹介します。16章10節『ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である』。ややもすれば、目立った大きな成功や結果を求めがちです。『ごく小さな事に忠実』であれとのイエス様の言葉は、自分を大きく見せようとするような生き方と、反するようです。今月の12月4日の朝刊に目が留まりました。アフガニスタンで活動されていた、中村哲医師が凶弾に倒れて、三年経ったことを伝えるものでした。あの時にも紹介された、中村さんの言葉が思い起こされました。『一隅を照らす』という、天台宗開祖の最澄の言葉を引用されて、次のようにおっしゃられていました。『世界平和だなんて、そんなでかいことを私は考えていません。私の近くを照らすように、身近な所で出来ることをして行くだけです』。

同じように、何気ない、日常の当たり前もまた、小さなことになるのでしょう。毎日の一瞬一瞬を、心を込めて生きて行くようにも、聖書から教えられています。そんな中で、私はスポーツが好きなので、長く活躍され、経験からにじみ出る、プロ野球のイチロー選手の言葉にも注目させられています。ネットから拾って見ました。

『特別なことをするために特別なことをするのではない、特別なことをするために普段どおりの当たり前のことをする』。

『びっくりするような好プレイが、勝ちに結びつくことは少ないです。確実にこなさないといけないプレイを確実にこなせるチームは強いと思います』。

『夢を掴むことというのは一気には出来ません。小さなことを積み重ねることでいつの日か信じられないような力を出せるようになっていきます』。

『汚いグラブでプレイしていたら、その練習は記憶には残りません。
手入れをしたグラブで練習をしたことは、体に必ず残ります。
記憶が体に残ってゆきます』。

『結果を出せないと、この世界では生きていけません。プロセスは、野球選手としてではなく、人間をつくるために必要です』。

イチロー選手の様にはなれない自分です。がしかし、イチロー選手が大切にしている、小さな事や何気ない毎日のプロセスを、自分なりに大切にして、生かされて行きたいと思います。

 乳飲み子のイエス様を通して、一人一人に相応しく、小さくても大切な生き方へと、これからも導いて下さい。

聖降誕日

『言は肉となって』ヨハネ1:1-14

今日のヨハネ福音書の冒頭の言葉は、非常に印象的です。『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によってなった』。これは、旧約聖書の創世記1章を思い起こさせるからです。創世記1章1-4節『初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた』。神様が『光あれ』と言葉を発して、光が出来た。創世記はこのようにして『神は天地を創造された』という。創世記はこれ以上に、詳細には言いません。ヨハネ福音書はもう少し詳細に解釈します。万物は神様が創られたのですが、具体的には、神様が発した言葉によって、万物が創られた。ですから、この神の言葉は、通常、私たち人間がイメージする言葉とは違う。この神の言葉に、いわゆる動きがあることを見て取った。発せられた言葉から、出来事が産まれるという、ダイナミックなものです。更にヨハネ福音書は次のように言います。『言の内に命があった。命は人間を照らす光であった』。まさに置き物のような言葉ではなく、命をもって、絶えず動き働いているという言葉のイメージです。それで日本語の聖書では、通常の、どちらかと言えばスタティックな言葉との違いが見えるように、言の葉の言葉ではなく、言の葉の葉を除いた『言』という漢字を、神の言葉に当てはめるわけです。言が出来事を産み出すので、言は神様そのものだとまで、ヨハネ福音書は言うわけです。

今日、ヨハネ福音書は『言は肉となって、わたしたちの間に宿られた』と言います。肉というのは人間の事です。ですから、言という神が、人間となって、わたしたちの間に宿られた。まさにクリスマスです。今年は今日がその日です。改めて何故、神様は、クリスマスを起こされたのでしょうか。神様が人間になって見えるようになった。だから、見えるものを絶対視しがちな人間にとっては、イエス様によって、簡単に神様を信じる事が出来るようになると思う。しかし、どうも事は、そう簡単には行かない。ヨハネ福音書も言います。『言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった』。人間にとっては、どうも見え過ぎてもまずいようです。見えるから信じるというのは、結局、視力という人間的能力の下にある信仰になります。何を見ているかが左右するからです。自分に不都合なものが見えれば、信じなくなります。信仰はあくまでも、与えられるものです。勝ち取るものではありません。

与えられた信仰によって生かされる者は、神の子になります。神の子は、あの創世記1章に描かれる、エデンの園のような、神の国の住人です。神の子というのは、人間的血統だとか、人間的決断だとか、人間的願望によって、生まれるものではない。あくまでも神によって、生まれるものです。具体的には、ヨハネ福音書は次のように記しています。ヨハネ3章5-6節『だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である』。これは、キリストの教会で起こされる、イエス様のお名前による洗礼に引き継がれている神の業です。ここで一つ注目させられることがあります。先程の創世記1章に、次の言葉がありました。『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。光あれ。こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた』。混沌と深淵の闇の中で、神の霊と水があった。そこに神の言葉が働いた。そして、万物は創造された。神はそれを良しとされち。神の子として再創造される人間にも、キリストの教会によって、再び水と霊とイエス様が働いている。だからその人もまた、混沌と闇の深淵の中に置かれたような状態から、解放される。そしてその人間は良しとされる。

どちらかと言えば、否定的に映る人間的な肉を『言』はわざわざまとった。神様が人間の肉の目に、見えるようにはなったわけだ。それでも人間は、神様を受け入れられない。肉になった神様を、即ち人間イエスを、人間の肉の目は見ようとする。しかしそれは、本来の神様の意図ではない。肉になった神様によって、即ちイエス様によって、実は、肉なる自分自身を見るように促すのだ。これが本来の神様の意図だ。イエス様は、相変わらず『言』です。マタイ福音書になりますが、『石をパンにせよ』と、悪魔からイエス様が誘惑を受けた場面があります。それに対してイエス様は『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と返されました。肉になった言、すなわちイエス様の言葉によって、肉なる自分自身見つめ直す。そうして神の子になるように、導かれて行く。イエス様の言葉は多様性を持っています。聖書の言葉。説教の言葉。聖餐式のパンとぶどう酒。見て、聞いて、触って、味わって、匂って、祈って、五感、六感を駆使して、イエス様の言葉に養われて行くのです。

ヨハネ福音書4章ではイエス様が、ユダヤ人と対立するサマリア人の女性と、対話する場面が描かれています。女性は最初は、対立するユダヤ人の人間イエスを見ていました。だから、常に否定的に対応していました。ところがイエス様のある一言で、彼女の態度がガラリと変えられました。その言葉は、これまでの対話と全く無関係のような、唐突とも思える言葉でした。4章16節『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい』。しかしそれが、まさに彼女の心の琴線に触れたのです。彼女の混沌と闇の深淵に、言が働いたのです。彼女自身のこれまでの人生が、一気にフラッシュバックするようだった。彼女にはたくさんの男性遍歴があった。そしてありのままの自分を、もう一度見つめ直させられた。この女性ばかりではない。この女性からイエス様のことを聞いた、他のサマリア人たちも『イエスの言葉を聞いて信じた』(ヨハネ4:41)と、福音書は記しております。

更にヨハネ福音書は9章で、イエス様が、生まれつきの盲人をいやされた出来事を記しております。律法違反を繰り返すイエス様が、生まれつき目が不自由だった人間を癒された。律法を重視するファリサイ派の人たちは、律法を守らない罪人が、そんな神業を出来るはずがないと、頑としてその事実を認めない。癒されて歩き回っているのを見ているのに、癒されたことを認めない。神業を行ったイエス様を見ているのに、そこに神が見えていない。一方、目が見えるようになった人は、イエス様を見て知るより以前から、イエス様を主だと、信じるようになっていた。イエス様は言います。『こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる』。この言葉に、ファリサイ派の人たちは即座に反応します。9章40-41節『ファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、我々も見えないということか、と言った。イエスは言われた。見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、見える、とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る』。

主よ、見るべきものを見ないで、見なくてもよいものを、見るべきだとしている。そんな混沌と闇の深淵の中に、行ったり来たりしている私たちです。肉となられたあなたの御言葉によって、そんな私たちを解放し、神の子の歩みをもう一度歩ませて下さい。